第22話 初めての思い出
朝から姿のない千景を心配して、楓は傘を片手に松ノ宮の近くを歩いていた。
もう片方の手には千景用の傘も持っている。降り始めた雨は次第に勢いを増していった。
悠幸も探しに行くと言って、朝餉を食べたら渡り廊下を通って、本宮の方へと行ってしまった。
そちらの方面は悠幸に任せ、楓は松ノ宮周辺と見回ることにした。もしも見付からなかったら、麓の方まで足を伸ばすつもりだ。
普段の買い物も麓の店や市を利用していることも多く、幼い頃から掃除や作務も欠かさなかったため、こう見えて楓は足腰が強い方だ。
歩きながら注意深く辺りを見渡していると、繁みの向こうで渡り廊下の軒下に佇む千景を発見した。楓は急いで近付いた。
「千景さん、朝から姿が見えないので、心配をしておりました。悠幸様も……」
だが、千景の異変に気付き、口をつぐんだ。
上等そうな直衣も含め、全身ずぶ濡れだった。
伏せた目元、まつ毛をつたって、雨の雫が滴る。
千景は手に持った小さな巾着袋を見つめていた。
袋の中にはトキジクノカクが入っており、主上との謁見中も袂に忍ばせていたのだ。
「千景さん……?」
千景はのろのろと顔を上げる。ゆっくりと袂に巾着袋を入れ込む。
「楓様……ご心配おかけして、申し訳ありません……」
ようやく振り絞って、千景から出て来た言葉はその一言だった。
ひどく傷付いた顔をしてそれ以上何も言えない千景に、楓は寄りそうと、手を伸ばしてゆっくりと背中をさすった。
言葉にはしていないが、大丈夫であると言うように、何度も何度もその手は千景の背中を往復した。
千景は瞑目する。
悠幸に知られてしまい、どこかに逃げようとさまよっていた。けれど、どこにも行く場所がなかったのだ。
本当は楓に、心の内をさらけ出したかった。けれど、言葉にすることが出来なかった。
苦しくて、けれど背中の温もりがありがたくて、千景は肺が空になるほど息を吐いた。
思い出したのは、幼い頃に初めて悠幸と言葉を交わした時のことだった。
◇
あれは火事の起こる一年程前の出来事だっただろうか。
千景は簀子の高欄にもたれかかるように座って、ひたすら重いため息をついていた。
信人の静養先である紅桜院。その日は頼人も兄の見舞いのため、屋敷に訪れていた。
そこで千景は頼人に剣の稽古をつけてもらえることになった。
だが、ものの数回打ち合っただけで千景は転んで頬を擦りむいてしまい、慌てた母によって御礼もそこそこに引き下がってきたのだ。
いつも自分はこうだ。しなくていいところで失敗をしてしまう。
千景は腕の中に顔を埋めた。先程の事を思い出すと、ひどく胸の奥が重たかった。
「ええと、千景?」
突然庭から聞こえてきた幼い声に、千景は驚いて立ち上がろうとした。
だが勢いあまって高欄に膝を強打して、あまりの痛さに千景は涙目になった。
「っ…………」
そうこうしているうちに、高欄の傍にある
「悠幸様……どうしてこちらに……」
その頃の千景は、まだ悠幸との間に距離があった。
信人の息子である彼の存在は知っていたが、普段過ごす建物も離れており、人見知りもあったため、話すことも畏れ多いと思っていたのだ。
「さっき怪我をしただろう? 心配でな……千景、泣いているではないか! そんなに痛むのか⁉」
悠幸は目を丸くして千景の傍に来るや、その顔を覗き込んだ。
「いえ……その、平気なのです」
この涙は先程の怪我とは全く関係ないということを言いたかったが、それはそれで情けない気もしたので、これ以上は何も言えなかった。
悠幸は千景の頬にそっと手を伸ばした。
触れるか触れないかの位置で悠幸は手を止め、真剣な目をして言った。
「痛い時のおまじないをかけてやろう。かけまくも、かしこみかしこみ申す、痛みよ天へと出いでましたまえ!」
千景は驚いて目を見開いた。
悠幸の年齢を考えてみれば当たり前の行動かもしれないが、それまで小さい子どもと触れ合ったことがほとんどない千景にとって、それは予想外の行動だった。
だが悠幸は真面目な顔で問う。
「もう、痛いのは飛んでいったか? 痛かったら、痛いと言っていいぞ。私だって――痛いのは嫌だ」
千景は幼い頃から我慢強い性格とはいえなかった。
我慢できずに泣いていたら、周りの大人から男は泣いてはいけない、と叱られた。
痛い時は痛い、と言っていいのだろうか。弱さを口に出してもいいのだろうか。
悠幸は千景の言葉を真剣に聞いていた。憐れむでもなく、同情するでもなく、そのままを受け入れようとしていた。
自分の弱さを当たり前みたいな顔をして受け入れてくれた悠幸が、千景には本当に眩しかった。
悠幸が立ち去った後、そこに不器用に折りたたまれた懐紙が置かれていた。
不思議に思って手に取ると、そこには小さく切って蒸した餅を砂糖で味付けした御菓子が二つ並んで包まれていた。
これは悠幸が大好物の御菓子で、千景を元気づけるために、と置いていってくれたのは明白だった。
じんわりと、心が温かくなっていく。
「ありがとうございます……悠幸様」
自分にはもったいなさすぎるその心遣いに、千景は嬉しさのあまり打ち震えた。
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