第19話 真実

「お前は一体……」

 揺らめく炎を背後に男は嗤う。陰影に照らされ、焔の姿がくっきりと浮かび上がる。


「黄泉に生まれた鬼神。ほむら、と名付けられた」


「鬼神……!?」


 神とは魂や人の意識が合わさった存在。かつて言い伝えによると現世の国は神に守られ、天子と黄泉の王はその血筋を汲む者だった。

 浄化の炎は神から授けられた力であると言われている。


 そして鬼は妖の一種だ。どちらも人の意識のより集まったものである。

 その境は難しく、いつしか穢れや負の感情を司るものを妖、そして神聖なものを神として陰と陽に存在を分けるようになったのだ。


「焔……ほのお、の意か」

「ああ。この炎を見たやつが、名を与えたんだ」


 焔が手をかざすと赤い炎が出現した。

 浄化の炎とよく似た性質をしている。だが、それよりももっと荒々しさがあった。


 千景はその炎を見て瞬く。提灯の橙色とも、浄化の銀の炎とも違う。これほど赤々とした炎。千景は過去にどこかで見たことがあった気がした。


「あの日、私は逃げようとしました。あなたが、本当はお二人の子だと告げる話をすると聞いてから。私の放った火が、守りの力を壊してしまったのです……」


 梨子は静かにそう告げる。その瞳は、奇妙なほどに凪いでいた。


「……私が信人様の御子であるなんて、そのようなわけ……」

 千景は何とかそう口にするが、梨子は首を振った。


「古くからのしきたりで、子どもは一度里子に出されることが多いのです。そのために千景さんは我が橘家に迎えられたのです」


                 ◇


 元来病弱な千景は大人になれないであろうというのが、当時の医者の見解だった。

 そのために、悠幸という跡継ぎが誕生した際に千景は正式に王族の身分を離れたのであった。


 梨子は育ての母であったが、千景のことを本当に大切にしていた。

 彼女は元々とある家柄へ嫁いでいたが出産後まもなく子は亡くなり、その後、離縁し橘家に戻ったという経緯があった。

 そのため梨子は千景と接するたびに、心の苦しみが癒されていくように感じていた。


 だが、ふとある日見た、千景が悠幸と遊んでおり、それを雪子と信人が穏やかに眺めている光景。

 あまりにも幸せそうな景色に、彼女の胸は痛んだ。

 どれだけ愛情を注いでいても、自分は本当の母親ではないと突き付けられた気がした。


 誰も何も言っていないのに、羨望と過去の傷を思い出して彼女の心の痛みはじくじくと広がり始めた。

 子を亡くし、家族も失った自分。

 千景を育てたことで癒えたと思っていた心は、実は全く癒えていなかった。


 だから、千景に本当の親であることを、自分が生きているうちに伝えたい、と信人に言われた時は、世界の軋む音がした気がした。


 梨子は動揺した。いつか伝えなければとわかってはいたものの、いざ突き付けられると心は受け入れられなかった。

 千景は梨子を本当の母だと思って懐いている。

 主らの意向に反対することは出来ない。

 二つに引き裂かれた梨子の心に、何者かの声が囁いた。


 今はひとまず逃げればよい。問題を先送りにすることだ。

 信人も体調が優れず気弱になっているのだ。すぐに儚くなるわけではない。

 身の回りのことや心残りを一つ一つ片付けているにすぎない。


 再燃した彼女の苦しみと、心の声は消えなかった。


 梨子は小火騒ぎを起こして周囲が混乱している隙に、逃げることにした。

 千景を連れて本宮へと逃げ、そこから現世へ渡るつもりであった。

 以前に小火騒ぎがあり、火事の際は門の見張りの者が出払うことを彼女は知っていた。


 だが小火は予想以上に勢いが強く、梨子は千景のもとへ行くことが叶わなかった。

 彼女に残っていた良心の呵責が、雪子や信人を救おうとして自分の命よりも優先したのだった。


                  ◇


「……では、この炎は私のものなのですか? 悠幸様の力ではなく……?」

「私が預かっていたのは、あなたの力だけです」


 千景は体が震えた。

 嫌な動悸が止まらない。先程落ち着いた吐き気がまた起きそうになった。


「悠幸様が……弟……?」

 千景はぽつりと呟いた。


 そんな千景の動揺にかまうことなく、焔は橘梨子を見据えた。

「さてと、浄化の炎は取り返したわけだし、とっとと燃やしつくしてやるか」

 焔は手に炎をかざした。

 しかし。


「いえ、それは私がやります」


 千景は悲痛な面持ちで、静かにそう告げた。

「ほう?」

 焔はにやりと笑う。


「いいだろう。お膳立てだけしてやるよ。貴様だけだと取り逃がしそうだからな」

 焔は赤い炎をかざすと、母の周囲を取り囲むように燃え盛る。

 千景は刀を握り直すと、踏み込んだ。


「母上。あなたの犯した罪を、罰を、私は赦すことは出来ません」


 本当に愛されていたという温もりはまだこの胸の中に残っているし、今でも変わらず母を大切に思っている。

 ただ、この一点に関してはどうしても譲れなかった。


 だから──千景は母と永久に決別することを決めた。


 千景は頼人が行っていた方法を思い出しながら、熱を手元に向かうよう意識した。


 刃に銀の光にゆらめく炎をかざす。そして震える手を抑えながら、刀を母の方へと向けた。

 そして自分に言い聞かせる。

 母はもうとっくの昔に死んだのだ、と。そしてこれは、母を救うためなのだ、と。


「……たとえ血は繋がっていなくとも、母上は母上でございますから……」


 その一言に母は、はっと目を見張る。

 彼女の愛情は間違いなく、千景の心の支えになっていた。

 赤い炎が梨子の逃げ道を塞ぐ。

 もう彼女は抵抗しようとはしなかった。

 千景は息を吐く。そして。


「どうかこの手で葬ることをお許しください」

 そう言って腕を振り上げた。


「御免!」


 右肩から左下方へと真っ直ぐに袈裟切りにする。

 霊体だからか、肉を切るような感覚はなかった。ただ、霧や影よりもはっきりした何かが切れる感覚が握った手を通して伝わる。


「────っ!」


 叫び声をあげる間もなく、母が銀の炎に包まれる。

 それを見つめる千景の頬には一筋の涙が伝っていた。


 焔は燃え盛る銀の炎に自身の手を入れた。

 千景が驚いて凝視していると、炎の勢いは弱まり、やがて焔の手に赤い真珠のような丸い珠があることに気が付いた。


「千景、よくやった。自分で決着をつけられたじゃねえか」

 焔は千景の瞳を見て、うっそりと笑った。


「随分と良い目をするようになった。絶望に濡れた瞳ってのは、良いなあ?」


 千景の瞳に輝きはなく、闇より深い色を滲ませていた。

 焔は手元の赤い珠を見せた。


「これは非時香果トキジクノカクというものだ」


「トキジクノ、カク……?」

 聞きなれない言葉に、千景は眉をひそめた。


「これを口にしろ。そうすれば、これは貴様に人並外れた力を与えてくれる」

「何を、言っているんだ……」

「怪我などすぐに治り、筋力も並みの人間以上の力を出せるようになる。お前は今よりもずっと、強くなれるぞ」


 甘言のごとく、焔は囁く。

 だが、千景の身体は震えた。信じられないものを見る目で、焔を見た。


「だってこれは、母の魂だったものなのでしょう?」

 千景は母の魂だったものを口にするよう言う焔に、凄まじい嫌悪感を覚えた。


 焔は一つ息をつく。

「優しく言ってりゃ随分な口をきくじゃねえか」

 そして鋭い声で告げた。


「貴様の弱さが気に入らねえから、とっととこれを口にしろ」

 そう言って千景の体をぐっと引き寄せた。

 焔が千景の頬に触れた次の瞬間、千景は勢いよく焔の手を振り払った。


「断る!」


 千景の拒絶と同時に、氷を結晶化したような壁が千景と焔の間に出現した。

 それが焔を弾き飛ばし、手の中にあったトキジクノカクも千景の足元に落ちた。


「くそっ、まだこれが残っていたのか……!」

 焔は忌々しく呻いた。


 千景は、白鵠の攻撃を受けそうになった時にもこの壁が出現したことを思い出した。

 千景はトキジクノカクを拾う。近くで見ると南天の実のようで、艶やかな色合いであった。

 今のうちに逃げられるか、と千景は数歩下がった。焔は近付く様子は見せなかった。


「本当に、お前たちは俺の邪魔をしやがる……」

 焔は苛立ちを抑えた口調で言う。

「まあいい。今のところは引いてやる。せいぜい苦しみに身を浸し、思い悩むんだな」


 焔はそう言い残すと、夜陰に紛れてすっと姿を消した。

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