第18話 銀の炎

 次の瞬間、男の背後に巨大な丸い影が現れた。

 ススクイが巨大化した姿だった。


 それは口を開け、尖った歯を見せたかと思うと男を頭からばくりと食らった。

 突然の事態に、千景の思考は止まった。

 残った体が、咀嚼されていく。


 ひっと千景は息を呑む。叫び出しそうになるのを寸でのところで押さえた。

 押さえたというよりも、恐怖のあまり声が出なかったのだ。


「あまり余計なことを仰らないで下さりませ。千景さんが怯えてしまうでしょう。可哀想に」


 梨子は記憶にある姿のまま、優しく笑う。

 その笑顔が、この場においてはひどく歪だった。

 ススクイは梨子の負の感情を吸収して、変化していたのだ。

 変化というより、変異。千景は知らなかった。

 妖がこれほどまでに危険な生き物になるということを。


「うっ……」


 千景は強い吐き気をもよおした。

 そして同時に自覚する。

 自分たちは主上や后妃、近衛らによって守られ、生きてきたということを。


「あれは人ではない存在。だから、千景さんが気に病むことはないのです」

「ですが……!」

 千景は焼け付くような喉の痛みを覚えながら、母に目を向けた。


「……何故、こんなひどいことをするのですか!

 火を放ち、浄化の力を奪い……あの火事で、先代の王や屋敷の者が幾人も亡くなったのですよ!

 母上は、そのようなことをする人ではありませんでした!」


 梨子は悲しげな瞳を千景に向けた。

「ええ……どれだけ赦しを請うても、赦されないことをしたと思っております」

 一歩、梨子は歩みを進めた。

 ススクイは千景を襲う様子はなく、背後に揺蕩っている。


「けれど千景さん。あなたがいれば、母はもう何もいりません。私のもとへおいでなさい」


 愛情というよりも、執着や独占欲を滲ませる彼女の感情に千景は気付き、慄いた。

 母は負の感情に支配されている。

 だから、悪霊という存在になってしまったのだ。


「……もう、私の知っている母はいないのですね」


 千景は傷付いた心を引きずりながら、前を向く。

 己の為すべきことをしようと。

 母が奪った浄化の力を取り戻し、そして魂を弔ってもらおう。

 罪を犯した母を断罪出来るのは、今この場で千景しかいない。


 千景は呼吸を整えると、守り刀を召喚した。

 梨子が手をかざすと、彼女の手に波打つように霊力が集まり、刃を形作った。

 千景は今まで体調を理由に、剣術や武術に身を入れて励んでこなかったことを、とても後悔した。


 母は女官であったが、武術もそれなりに磨いていた。なにせ祖父が剣術の師範であったし、いざとなれば主の身を守らなければならないのだ。

 藤子のように自ら戦う后妃は、どちらかといえば例外でもあった。


 千景は地を蹴って、刀をかざした。

 梨子は最低限の動きと体幹を駆使して、振り下ろされた千景の刃を受け止め、払いのける。


 千景は別の角度から刃向かったが、それも跳ね返された。

 まるで子どもと師範の剣術の稽古であった。千景がいくら打ち込んでも敵わない。

 そもそもの千景の気迫が足りていないのだ。勝負をする前から心が弱っている。


 本当は、千景は母に刀など向けたくなかったのだ。その気持ちが表れてしまったのだろう。


 数度の斬撃を経て。

 ついに刀が弾き飛ばされ、千景は膝をついた。

 千景の手から離れた刀は、形を失って消滅をしていく。千景の戦意の喪失を表すかのように。


「千景さん。申しておくと、私はあなたや后妃様らを殺すつもりなどなかったのです。ただ……あなたと共にいたかっただけ……」


 梨子は千景を攻撃しようとしなかった。

 その代わりに手を伸ばす。先程と同じように。

 梨子は千景の魂を引きずりこもうとしたのだ。


 その手つきはあまりに優しく、不思議と恐怖はなかった。

 覇気を失った千景の様子に、彼女は嫣然と微笑む。

 そして千景の間合いに入った時。


 金属の鋭い音が手元から響いた。


 梨子は自分の手から刀が弾け飛んだことに気付く。

 千景は空いた右手に新たに守り刀を召喚し、母の刀に向けて一閃したのだ。


「……え?」


 不意打ちに、梨子は驚いた様子を見せる。

 刀は通常、一本しか召喚出来ない。だから千景は、手元を離れたものをわざと一度消し去って、新たに召喚させたのだ。


 相手が戦意を喪失したと油断させ、その隙に一矢報いたのだ。

 丸腰になった母のもとへ千景は躊躇いを捨てて向かう。

 先程の焔に手を当てられた時のことを意識して、焦点を当てた。


 再び見えた炎に千景は手を伸ばす。

 千景は母に刀を向けることはしたくなかったが、悠幸の力を取り返すことは諦めていなかった。

 これを取り戻せば、悠幸は力をもう一度手にすることが出来る。


 もうあのような不安を口にさせたくはない。

 河原での悠幸の表情を思い出す。

 せめてこれだけは、彼のために取り返さなくては。


「浄化の力、返して頂きます……!」


 千景の伸ばした指先が、炎に触れた瞬間。

 それはまばゆい輝きを放った。


 確かに触れた銀の炎が千景の手から消え、代わりに踊るように千景の周りを舞った。

 白銀の煌めきが、闇の中では眩しいぐらいだ。

 千景が呼吸をすると、それに呼応するように炎は伸びて大きさを変え、望むように動かすことが出来た。


 まるで己が発現させたかのように。


 千景は予想外の状況に、愕然とした。

「何故……」


「それが……答えです」

 梨子の声に、千景は無意識に数歩後ずさった。

 梨子は苦しげに顔を歪めた。


「あなたは私の本当の子ではない。あなたは……」


 千景の背後に揺蕩っていたススクイが、突如として赤い炎と共に、燃える音がした。

 千景が振り返ると、その中から男が先程と変わらない悠然とした様子で歩いて来た。ススクイが燃えて朽ちていく中、男は告げる。


「先代の王、信人にはもう一人、子がいた。

 だが、それは男児であったにも関わらず、生まれつき体が弱く、養子に出されていた。一族の力、浄化の炎を預けられて、な」


 焔の声が重なる。


「千景……お前だ」


 一瞬何を言われたのか全くわからなかった。けれど彼が見詰めていたのは間違いなく、千景だった。

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