第17話 母の魂
真夜中。松ノ宮を抜け出した千景は、再び跡地に赴いた。
黄泉の夜は提灯の明かりも消えて、暗闇に覆われる。
夜空の煌めきと、植物や虫の自然光だけが頼りだ。
やはり、紅桜院の跡地に赴くと他と土地の空気が重く、あまり長居をしてはいけないような心持ちになった。
千景は見渡した。
あの長身の男はどこにいるのだろうか。
「橘千景だ。言われた通り、参りました」
そう発した瞬間。
不意に何者かに背後から口を覆われ、千景は繁みの方へ強く引きずられた。
思わず尻もちをついてしまったが、僅かに草が茂った地面は踏み固められておらず、柔らかかったのが幸いだった。
一瞬、例の男かと思ったが、予想に反して千景の口を塞いでいたのは、細い女性の指であった。
背後から仄かに漂う香の懐かしさに、千景はまさかと目を見開いた。
「母……上……?」
「ええ。千景さん、大きくなりましたね」
少し低めの柔らかい響きを持つ声音。
千景は振り返る。明かりは天の光だけだったが、そうだとわかったら、僅かな影からでも姿の判別がついた。
千景の母である
肩につく程の長さの柔らかな髪に、涼やかな瞳の女性。濃い青の袿をまとった姿であった。
元々は腰に届くほどの長さの髪であったが、信人が病で倒れた時に彼の無事を祈るため、后妃であった雪子に倣って切ってしまったのだ。
今は警戒心の強い表情をしているが、普段は愛情あふれる笑顔を浮かべる人だった。
母をとても慕っていた千景は、懐かしさのあまり胸が震えた。
確かに母はあの夜亡くなった。なら、今ここにいるこの人は。
「千景さん、よく聞いて下さい。あの者のもとへ行ってはなりません」
梨子は千景の首にそっと手を触れた。
何故だろうか。彼女に触れられた部位から、ひやりとした感覚が襲った。
ぞわぞわと背筋を滑るような肌が粟立つ。視界の端で母がにたりと唇を釣り上げた気がした。
このままでは生気を吸い取られる。
千景がそう思った矢先。
風を切る音がした。梨子が身を離すとそれまで彼女がいた場所に、錫杖が突き刺さった。
千景は首筋に手をやった。触れられた部位はぞっとするほど体温が冷え、今さらながら千景は冷や汗が噴き出した。
銀の髪をした長身の男が荒れ果てた土地に音もなく現れ、母と対峙するよう立ちはだかった。
「息子を襲うなんて、随分と感動の再会だな」
男は視線を千景へと流した。
「常世へ引きずられてはいねえな」
「ええ。嫌な感覚はありましたが、大丈夫です」
千景は顔をしかめながらも、頷いた。
「それは何よりだ。せっかくここまで来て、貴様に死なれるわけにはいかねえからな」
そして男は梨子を見据えた。
「これはこの地に縛られた魂、貴様らが悪霊と呼んでいる類だ」
千景は浄化の間にいた悪霊を思い出し、明らかにそれらと姿形が違うために戸惑った。
「主上の鎮魂の儀を経て、皆さまの魂は浄化されたはずでは……」
「俺の力の一部が封印されていたから、その影響で浄化しきれなかったみたいだな。加えて、貴様が訪れたのが引き金になったようだ」
「大切な息子が、怪しげな者に甘言を囁かれておりましたので、居ても立っても居られなかったのです」
梨子は険しい表情を浮かべながら告げる。
「よく言うぜ。大切な息子? 笑わせるな。今、千景の魂を奪おうとした女が」
「……私の、魂を?」
男は千景の背後に立ち、触れるか触れないかの位置で目をそっと覆う。そして再び開けさせた。
「目ではなく魂で視ろ。貴様には見えるはずだ」
千景は母を見る。そして、その焦点を当てた。
梨子の手元にちらちらと光る銀色の火の粉がある。
一度認識した次の瞬間、母が銀に光る灯を持っているのがはっきりと見えた。
「あれは……!」
「王の一族の者が持つ、浄化の炎だ」
「母上が持っていた……ということか」
だから悠幸はあの火事を境に、力が扱えなくなったのだ。
「何故力を奪ったのですか……。どうか今すぐに、お返し下さい!」
千景は声をあげた。
「奪ったわけではありません。私は信人様の……」
梨子が言い募ろうとしたところを、男が遮る。
「何を言っても説得力はねえぜ! なにせ」
男の声が耳朶に響いた。
「貴様は仕えていた主の屋敷に火をつけたんだからなあ!」
「え…………」
信じられない男の一言に、千景は絶句した。
虫の音が遠くなり、体温が下がる。今聞こえたことをもう一度脳内で反芻する。
母が。何をしたと。
仕えていた屋敷に、火をつけた?
「何を、言っているんだ……?」
そんなこと、信じられるわけがない。よりによって母が。そんな。
「嘘……ですよね?」
だが、梨子は無表情で沈黙をしていた。髪が霊力に揺られて微かに波打つ。
「何故そんなことを……」
千景の体は震え出した。
千景の母は、ずっと悠幸の母である雪子に献身的に仕えていたと聞いている。
一度は婚姻のため宮を退いたが、祖父が亡くなったことを機に千景と共に信人らの屋敷に仕えていたのだ。
「教えて下さい、母上……!」
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