第16話 心の傷

 山の麓は、石畳の道が敷かれ、それを挟むように平屋の店や屋敷が軒を連ねて並んでいる。

 裏手には山の水脈から枝分かれした流れの緩やかな川があり、人々の生活に欠かせないものとなっていた。

 周辺の河原にはこの時期、所々彼岸花が群生しており、ほんのりと発光して赤い花びらが提灯代わりになっている。


「じゃあね。悠幸兄様!」

「また遊んでね」


 空の色が薄色から再び暗くなってきたため、家に帰る子どもたちに悠幸は手を振る。

「うん。お母さんを大事にするんだぞ」


 子どもたちのうち、幼い男の子が一緒に歩く兄へじゃれつく。兄は仕方ないなあと笑いながらも、弟の手を繋いだ。

 悠幸はその光景を、温かい目で見守っていた。


 彼ら兄弟は近くに住んでいる子どもたちだ。父は宮の衛士として仕えており、母親は病気がちのため、その世話をしていることが多いという。

 今日は久々にいっぱい遊べて楽しかった、と笑顔を浮かべていた。


 悠幸は一人になると、河原に座って、流れゆく水面を眺めた。

 すると、慣れ親しんだ足音が近付いて来るのが聞こえた。


「悠幸様。お迎えに参りました」

 現れた千景はそのまま、悠幸の隣に腰をかけた。


「ここから見える御殿は、美しいですね」

 さああっと水面を滑るように、涼やかな風が駆け抜けた。

 空は暗くなり、天の光が瞬き始める。


「うん。舞台から見える景色も綺麗だけど、そこからでは宮の美しさが見えないからな」


 山の上方に見える宮に飾られている提灯の明かりは建物だけでなく、黄泉の世界を照らす。

 この建物そのものが、黄泉の世の灯であり、導のようであるのだ。

 妖も人も魂も、この灯を頼りにこの宮に行き着く。


 やがてしばらくすると、悠幸は口を開いた。


「心配して来てくれたんだろう? ……いつも、ありがとう」

 千景は柔らかい眼差しを浮かべながら、いえ、と首を振った。


「心の傷は、何年も経ったからといって癒えるものではありません。だから無理をせずに、様子をみましょう」


「……でも、それじゃあいつまで経っても、皆の力になれない。不安なんだ。

 このまま大人になっても、力が戻らなかったらどうしようって。力の使えない私が宮を追い出されたら……」


 悠幸は包帯の巻いた腕を握って項垂れる。

「そんなことはございません……!」

 千景は珍しく強めの口調で言った。そしてはっと我に返る。

「大きな声を出して申し訳ありません」


 千景は悠幸の頬に手を当て、自分の額を悠幸の額に合わせる。


「悠幸様。私はあなたの力が戻らなくても、あなたのお傍で守ります。

 この五年間、悠幸様は浄化の力という生まれもった能力ではなく、ご自身の出来ることを探して沢山の人や妖の力になったではありませんか。

 皆に力になれないことなんて、けしてありません。私も、悠幸様に救われた一人です」


 温かく、その心に届くように伝える。声を。想いを。


「私はどんなことがあっても、悠幸様の味方ですし、付いて参ります。だからどうか、安心して下さい」


 そして額をそっと離した。


 悠幸の目に涙が滲んでいた。

「何故そんなに千景は優しいんだ……」

 千景は袂で悠幸の涙を拭った。

「人は鏡ですから。私が優しいと感じるなら、それは悠幸様がお優しい証拠ですよ」


 黄泉の世では大きな事件が起こることは少ない。

 だからこそ、紅桜院の火事は黄泉の世に強い衝撃を与えた。

 同情や哀れみの言葉がある一方で、何者かの陰謀ではないかと囁く者もいた。


 千景にも悠幸にも、その声は届いた。

 囁いた本人たちにとっては悪気のない声も、千景と悠幸の心をすり減らしていった。


 悠幸の心の一番近くにいられるのは、きっと自分だと千景は思っている。

 今までも、そして、これからも。




 夜。煌々と照らされていた行灯の明かりが消えて、松ノ宮は闇へと包まれる。

 穏やかな寝息が御簾の向こうから聞こえてきて、ようやく千景はほっと息をついた。

 御簾越しに祈るように千景は囁く。


「あなたが穏やかに眠れる夜を、久遠に守り続けていくこと。それが私の望みです」


 体の傷のように、妖や霊の浄化のように、目に見えて治す方法があればいいのに。

 そうすれば彼の中に巣くう恐怖も、心の傷も癒せるのに。


 千景は重い息を吐く。

 そして覚悟を決めた光を瞳に宿した。

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