第9話 主上
清望殿は主に儀式の場として利用され、山の突き出しの側に舞台があり、反対側には主上の日常の業務を行う御殿や黄泉の治政を管轄する各寮があった。
渡り廊下と進むと、中庭には御殿の左側に桜の木が、右側に橘の木が植わっているのが見える。
この木は、現世と繋がっており、黄泉の通り門の役割を果たしている。
ただ、実際はここだけではなく、現世との入り口は黄泉のあちこちに点在していた。
千景の姓である橘は、古くから王の一族に仕えている証だ。そのため、千景はこの木を見るたびに誇らしい気持ちになるのであった。
御殿の奥の設えに二人は通され、「ではここで」と和孝は下がった。
そこからは、舞台の中心に背を向けて立つ主上の姿がよく見えた。空は薄闇の紫色に染まっている。
黄泉の世は基本的に暗闇だが、朝と夕、空が薄色に染まる時間がある。現世の空の色が光の粒となりこちらに届くのだと言われていた。
舞台にはぼんやりとした光の珠がいくつも浮かんでいる。
「神秘的な雰囲気だな」
悠幸は小さく呟いた。
主上の闇を溶かしたような短い黒髪がさらさらと揺れた。
衣服は直衣で派手な装飾はほどこされていないが、濃紫の布地には光沢があり一目で上質の代物だとわかる。
目元に触れるぐらいの前髪から、精悍な面差しが覗き、凛とした瞳で目の前の光景を見据えた。
主上は腰に差していた神剣を鞘から抜いて構えた。
黄泉の王には先祖代々継承する神剣がある。
伝説では大蛇を退治した尾から生まれたと言われており、剣そのものは気が遠くなるほどの歳月を経ている。
物質と触れる者の意識が混ざり合い、所持する人によってそれぞれ違う形となるという。両刃のものもあれば、片刃のもの、異国の刃の形にも変化する。
今、主上が手にしているのは反りのある太刀の形状をしている。鞘は青に一滴黒を垂らしたような深い紺。
王の刃に銀の炎が帯びた。光に反射して刃の肌に細かい流線が浮かび上がる。
あの銀の炎が浄化の力だ。
主上は祝詞を唱えた。
「かけまくも、かしこみかしこみ申す。祓いたまえ、清めたまえ」
舞台上の光の珠から銀色の炎が発する。主上を中心にふわりと広がったその風で、直衣の裾は翻った。
多くの魂が無数に、優しく炎で包まれていく。光は天へと向かって伸びていった。
広がった熱は温かくて、凍ったものを溶かすような優しさがある。
「すごい……」
間近で見た魂鎮めの儀に悠幸がほう、と息をついた。
千景も同じ心持ちであった。
あの空の光は一つ一つが魂である。光の並びは常に変わり続け、一つとして同じ空になることはないのだ。
儀式を終え、主上は神剣を鞘に収めると、振り返った。
「二人とも、こちらで待っていたのか。悠幸。千景もよく来てくれたな」
年齢は三十代後半だが、爽やかな笑みの中に、見る者を惹きつけるような鋼のように意志の強い光を宿している。
千景と悠幸は一礼した。
「お会い出来るのを楽しみにしていました」
「魂鎮めの儀、とても美しくて、格好良かったです」
悠幸の言葉に、主上は嬉しそうに微笑んだ。
「奥の間へ行こう。食事を用意してあるぞ。もちろん千景の分もな」
「そんな、私のような者にまでそのような待遇、もったいのうございます」
思わぬ待遇に千景は辞退しようとしたが、主上は笑っていなした。
「そう気を揉むな。普段は悠幸らと食事をとっているのだろう?」
「ええ、まあ……」
「一回で話を済ませる方が効率も良い。ここは気にせずに割り切ってくれ」
「……わかりました」
千景は観念して、主上の言うことに従うこととした。
そもそも王の一族の者は皆総じて、自身を特別視されることを好んでいない。
元々現世の天子である神の子孫の一族から分かれたと言われているが、今の王族の者は温かく人々の目線に立って話を聞き、おごった振る舞いをする者は皆無であった。
千景の悠幸への敬意が強いのは母の行き届いた礼節を見ていたからだ。
母は誰に対しても、それこそ息子である千景に対しても「千景さん」と呼ぶような人柄であったのだが。
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