第7話 翁
畳の間にいたその人物に、千景は珍しくまなじりを吊り上げた。
「翁殿!」
そこにいたのはまるで屋敷の主のように、悠然と茶を啜る一人の老人であった。ゆったりとした着流しに白の羽織を合わせ、白髪は結わえてまとめ、髭をたくわえている。
そして目は基本的に閉ざしており、開いている姿を千景らは見たことがなかった。
「どうしました、そんなに怒って。品がないですぞ。せっかくの綺麗な魂なのに」
翁は顔を千景の方へと向けた。周囲の景色は魂や霊力で認識出来るらしく、むしろその方がより雑念なく本質が見えるのだという。
翁は現世にさまよう魂を、黄泉へと招く役割をもつ妖であった。妖というよりも仙人に近い、と千景は勝手に思っていた。
「悠幸様のもとへ色々な妖や御魂を送り込むのをお止めください!」
千景はそう苦言を呈した。ちなみに先程もらった花は楓に預けてきた。
飾ってもらうためと、あまり楓には怒っている姿を見られたくないというのもあったのだ。
千景に詰め寄られても、翁は飄々と笑う。
「そのたびに悠幸様が危ない目に合うのです。本日は后妃様が助太刀して下さったから良かったものの……これ以上、悠幸様に何かあれば、私は亡き信人様に申し訳が立ちません」
「千景、私は大丈夫だから」
千景の後から付いて来た悠幸が、諫めようと口を挟む。
「信人様、ですか。あれからもう五年になりますものなあ」
今から五年前。病を理由に弟に譲位した先代の王、信人であったが、静養のために過ごしていた屋敷が火事になるという悲劇に見舞われた。先代の王と后妃である悠幸の両親、千景の母、その他屋敷に仕えていた者が何人も亡くなった。
千景と悠幸は信人の提示した抜け道から脱出して、かろうじて生き延びたのだが、その時の心の傷が深かったのだろう。悠幸は浄化の力を失ってしまったのだ。
じっと翁は千景を見た。
「な、何でしょうか」
「いえ、怒っても優しいお顔立ちだなあと思いまして。きっと信人様のあなたに悠幸様を預けてほっとしていることでしょうなあ。はっはっは」
話を思いっきり逸らされ、千景はまた怒りそうになったのを、総動員かけて何とか抑え込む。とはいえ、怒ってもちっとも迫力がないのは自覚している。
翁は一服つきながら言った。
「私も、何もなんでもかんでも悠幸様のもとへ行け、と導いているわけではありませんよ。ただ、この御仁は悠幸様のもとへ行ったら救われるだろうなあと直感が告げたものを、寄せているだけで」
「本日の妖は本当に危なかったのです。結局、后妃様のもと封じられました」
「ああ、そうだったのですかあ。では、一安心ですな」
残念ながら人間と妖の感覚の違いもあるので、彼が良かれと思って行ったことが、必ずしも人間に良いとは限らない。
これ以上言っても仕方ない、と千景は息をついた。
「私は主上のように、浄化の力を使えるわけではありません。そんな私にも出来ることがあるのだと教えて下さった翁殿には感謝しています」
傍らにいた悠幸の言葉に、千景は感動した。
「は、悠幸様……!」
齢十歳にしてなんて優れた人格なのだろう。
千景と悠幸は翁に言いくるめられて、頼まれごとを引き受けたことが多分にある。ある時は我が子とはぐれた母親の霊を黄泉中探し回り、ある時は百物語に一晩付き合い、またある時は土着の神の真名を考えるなど色々関わった。
お二人に会えて良かった、心残りが消えました、と感謝の言葉が嬉しかったのは間違いなく本当だ。
「現世の様子も近年、目まぐるしい様子で変わっていきますからなあ。その変化についていけない人も妖も多いのですよ。異国の考えやそれまでなかったものが導入され、夜に煌々と明かりが照らされる世の中になりました。
人は妖や幽霊や神や仏を信じなくなり、そんな世で導くのは今後一段と大変になることでしょう。確か、悠幸殿と千景殿は、まだ現世には行かれたことはないのでしたな」
「はい。楓様が現世のご出身なので、話には聞いているのですが」
悠幸は残念そうに眉を下げる。
「黄泉の生まれの者は、現世に行くと体調を崩しやすいと聞いております。ですから、ある程度体が丈夫に成長してからですね」
現世には黄泉にはない太陽の光があり、空気はこちらほど澄んでおらず、寒暖差も激しい。人も妖も雑念も多く、環境が全く異なるという。
目安としてはおよそ十二、三歳頃か。
「また一度、見てもらうといいでしょう。実際に行かないとわからないこともたくさんありますからなあ。そしてここでは見られない光景も見ることが出来ます。きっと初めて見る光景に、美しいと感じることでしょう」
「そうですね。早くその日が来るといいです」
悠幸は頷いた。
「お二人の御様子も見られたことですし、今日はこれにて失礼しますぞ」
そう言って翁は湯飲み茶わんを置くと、立ち上がって簀子の方へ向かい、ふらりと消えた。
「本当に今日はお顔を見に来ただけだったのですね」
千景は少しほっとしながら、湯飲みを片付けようと手に取った。
彼が来る時は何か頼まれごとをすることも多いので、少し警戒をしてしまっていたのだ。
それと同時に本当に用事はなかったのだろうか、と千景は思う。
人や妖の御魂を預ける以外にも、何となく彼がこちらに訪れるのは、何か理由がある気がしてならない千景であった。
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