第4話 白鵠

 舞台に生ぬるさをまとう突風が吹いた。

 思わず千景は目を閉じる。


 次に開いた時には、天には白い霧がかかっており、空から大きな翼を持った黒い鳥が飛来していた。

 千景ははっとして、悠幸の前に出る。


 それは今まで見たどの鳥よりも大きかった。一見巨大な鴉のように見えるが、首は長く胴は丸みがあった。

 濡れ羽色という言葉がよく当てはまる黒い羽毛に覆われ、翼が翻ると羽根が数枚ひらめきながら宙を舞った。

 鳥は鋭い嘴を開いて、言葉を発した。


「その魂を寄越せ」


 悠幸は少女の魂を守るように彼女を引き寄せた。

「子どもの純粋な魂は格別。力をつけて、報復してやる……報復してやる……! 私の居場所を焼いた者たちを……!」

 鳥の魂を焼くような咆哮に、千景らは体が粟立つような感覚を覚えた。

 肌をぞわりと這うような妖気で、彼のまとう負の感情が二人の肌を撫でる。


 妖を始めとする想像上の動物は元々人の想いや願い、想像が形となったものだ。

 だが、これほどまでに強大な妖はけして多くない。恨み節から察するに、よほど酷い目にあったのだろう。


「緊急の事態と判断したので、守り刀を召喚します」


 千景はそう宣言すると、右手を開いた。そこに光の粒子が宿り、守り刀が現れた。

 守り刀はそれぞれの魂を力の源として、刀の形として顕現させたものだ。大きさは小太刀で、成長に合わせて大きさや形は変わっていく。


「悠幸様、今のうちにそちらの御魂と共に御殿の方へお逃げ下さい」


 そして彼らを守るよう、千景は空中に向けて縦に四本、横に五本の線を引いた。

 それらは光の網として妖と悠幸の間に障壁を成す。

「わかった」

 悠幸は頷くと、少女の手をとり、建物の方へと駆けていく。


 千景は攻撃の型へと構えた。足を開き、両手で軽く握り直す。

 妖から妖気が発され、千景は薙ぎ払った。守り刀は基本的に妖から身を守るために召喚されるもので、人に対して斬り付けることは出来ない。

 その分、妖や霊力に対しては並みの刀とは異なる力を発揮する。

 薙ぎ払った妖気はほとんどが霧散したが、僅かに残った妖気が、悠幸のもとへと向かう。


 千景がはっと振り返ると、悠幸は妖気の風圧で足をとられて舞台の床に転がった。少女の手を離してしまう。

 だが、そのまま受け身をとって一回転すると、素早く身を起こし悠幸は少女に向かって声をあげた。


「そのまま走って!」


 少女は一瞬泣きそうになったが、頷いて走り続けた。御殿内部に駆け込む。

 悠幸に攻撃が当たらなかったのを確認したその隙に、千景は全身が痺れるような感覚に陥った。妖から放たれた衝撃波をその身に受けてしまったのだ。


「ぐっ……」

 痺れで思うように体が動かず、千景は膝をついた。

 そんな千景に頭上から声が降って来た。


「魂はお前たちのものでも良いのだ。いや、むしろその方が良いか……」

 妖の瞳がぎょろりと悠幸の方へと向かう。


「悠幸様には、手を出すな……!」


 千景は呻くように言い放った。

 千景は自覚している。自分が彼を護るにはあまりにも貧弱であることを。

 剣の練習をしても筋力はつきづらく、体調も崩しやすい。

 本当は気も弱くて、知らない人と接するのも苦手で、誰とでも屈託なく接する悠幸を羨ましく思ってしまうような、そんな性格だ。


 それでも彼を護りたいという気持ちは、誰にも崩させやしない。この魂にかけて誓ったのだ。

 あの炎に包まれた日に。

 千景は呼吸を整えて、妖を見上げた。


「どうした、お前が我が力になる覚悟は出来たか」

 焦る気持ちを抑え、千景は妖の心に意識を向ける。


「その前に、あなたは一体何者だ」


白鵠びゃっこうと信仰する者は呼ぶ」

「……白鵠……もしや」

 千景は記憶を手繰り寄せた。そして愕然とする。


「あなたは元々寺の御仏だったのですか……?」


 白鵠は別名、天の鵞鳥がちょうとも呼ばれている。


 幼馴染で元々寺の養女であったかえでの話から聞くと、仏とは悟りを開いた者であるが、仏法を説くために、阿弥陀仏が鳥に姿を変えて現れたとも言われている。


 寺の仏に付喪神としての魂が宿ったと解釈すればよいだろうか。

 それが一体何故、このような姿になってしまったのだ。


 千景は感覚を研ぎ澄ませる。

 妖気や怒りの口調の中に、悔しい、悲しい、辛い、という感情が読み取れてしまうのだ。

 何も千景や悠幸が特別だからではない。


 多くの魂や、妖怪が、辛い思いをしてここへやって来た。

 失う辛さは、千景も悠幸も知っている。

 だから、共感する力が高く、僅かな言動や表情変化、霊力や妖力からわかってしまうのだ。


「一体何があったのですか……」


 今の現世は、異国からの技術が流入し、人々の発展が目覚ましいと聞く。だが、それと同時に多くの神社と寺が分離され、廃仏毀釈が行われた。

 運動そのものは随分前に終わっていると聞くが、地域による格差もあるし、それをきっかけに力を失い没落した寺も多い。

 おそらく打ち捨てられた寺の御仏の化身の一人だ。


「あなたの辛かった気持ちも苦しかった気持ちも、理解したいと思います。

 ここにはそういう思いを抱えた魂や妖が大勢来られます。恨むなとは言いません。

 ですが、あなたはあなた自身の力で、人の魂を取り込まない方法で、心を昇華し、戻って頂きたいのです」


 千景は確信していた。彼は自身の力で心の闇を浄化出来る。


「もしも、あなたが願うのならば、復讐よりもこの黄泉で──」

「黙れ……人間よ!」

 再び攻撃の衝撃波が放たれた。


 千景に向けての一撃だった。障壁を築くため、刀の切っ先で線を引いたが間に合わない。

 攻撃が当たると思われた瞬間、玻璃を響かせたような音が響いた。


 はっと千景は目を開ける。

 見ると、氷を結晶化したような壁が千景を護っていた。

 鋭い光の槍のようなものが、壁に食い込みながらもとどまっていた。

「これは……」

 千景は驚いて壁に触れようとし──。


「封印術発動します。かけまくも、かしこみかしこみ申す」


 澄み切ったような鋭い女性の声が舞台一帯に響いた。

 同時に白鵠が水の膜に閉じ込められる。光の槍は泡のように弾け、千景を守る壁は結晶の欠片となり、灯りが反射して輝きながら消失していった。


 千景は息を呑んだ。

 これほどの妖の動きを一瞬で封じる者など、この黄泉の世では限られている。


「お怪我はありませんか」


 品のある声が響いたと同時に、建物の奥から一人の女性が現れた。

 整った顔立ちに、緩く波打つくせのある長い髪。目元は柔らかいが、今は標的を定めた迷いのない眼差しをしていた。


 淡い紫の衣に、位の高さが伺われる伝統装束である袿。打掛は羽衣のような透き通った布に、藤の柄の刺繍が施されている。

 布自体が薄手のため、その動きは軽やかで一切の無駄がない。女性は妖異の混じった風の中、物ともしない足取りで進む。


「叔母上!」


 悠幸が安堵と心強さが入り混じった声をあげた。

 彼女は舞台の中心へと歩みを進めた。短刀を振り、ひゅん、と空気の切る音が鳴る。

 そして切っ先を膜に包まれた白鵠の方へと向けた。

 女性は赤い紅をさした唇を開いた。


「居場所を失ったことには同情しましょう。ですが、人への恨みを重ねて攻撃をすることは、許すわけには参りません。

 闇に染まったその心、王に浄化してもらいましょう」


 光を放ち、少しずつ小さくなりながら、白鵠を閉じ込めた水の膜は、とぷん、と舞台の床へと沈んでいった。


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