月を殺す

クソザコナメクジ

月を殺す

 愛してるという言葉より、殺してやりたいという言葉の方が重いのはどうしてだろう。


 殺してやりたいという言葉より、一緒に逝きたいという言葉の方が身近なのはいつからだろう。


 私(ぼく)が消えた後、君に平穏が訪れますように。


 いつかの君へ。過去の私(ぼく)より、愛を込めて。



 ◇◆◇


 午前二時八分。暗転を貫いていたスマホが、待ち望んでいたかのように光り出す。共に流れるバイブ音が、眠りに落ちていた意識を覚醒させた。辺りを明るく照らす画面には通知が一つ。


 ──今日は服を脱がされた。


 鈍く痛む瞳を瞬きをして潤わせると、スマホを操作する。いつものように、ゆるりと口角を上げて。メッセージをタップして、暗証番号を入力して開くと、もう手馴れたものだ、空の入力画面にこう記して送信する。


 ──"大丈夫、それは僕だよ"。


 送信して窓の外を見ると、赤い月が闇の中に浮かんでいた。昼間も、朝も、夜も、赤い月は浮かんでいる。きっと自分にしか見えていないのだろう。世界が変わったのか、此方がおかしくなったのか。定かでは無いが、いつからか、空には赤い月が浮かんでいる。美しいと思う時もあれば、血のようで不快だと感じる時もある。目を背けて枕に顔を押し付ける夜もある。そんな夜でも、スマホのバイブ音からは逃げない。


 ──なんだ、君だったのか。君なら安心だ。


 開いたままのメッセージ画面に、返信が灯る。


 ──ところで、今日は三日月だね。綺麗だなあ。


 続け様に送られてきたメッセージを見て、再び窓の外を見る。あかい、あかい。赤い月。それ以外は見えない。画面の向こうの相手は自分より正常なのだろう。此方が壊れているのか、世界が欠落しているのか。思いを馳せるが、真実など分からない人の身では答えなんて出る筈もなかった。


 ──"本当だね。綺麗だ。"


 正常な振りをして返事をする。見えない三日月。誰かが嘲笑っているようだ。見えないところで。自分だけ取り残された世界の外側で。太陽も、明るくはなるがいつも赤い月に遮られる。もう久しくあの眩しさを感じていない。


 ──君といつか、一緒に月をみたい。

 ──"今一緒に見てるよ。僕と一緒に。君の隣にいるのは僕だ。"

 ──ああ、君だったのか。そうか、そうだね、確かに一緒の月を見ている。離れていても、傍にいても。

 ──"赤い月は、見えるかい?"


 ──今出ているの? 此方からは確認できないなあ。


 返ってきた返答に落胆した。矢張り見えていない。と同時に、此方も彼方に嘘をついている。お互い様か、と溜息を吐いて指を走らせた。


 ──"愛してるよ。"

 ── 一緒にいよう。

 ──"嗚呼、ずっと一緒に。傍にいるよ。"


 ぞわりと悪寒がした。嘘を吐くのは慣れない。赤い月も、三日月も、ずっと一緒、も。全部嘘になるとわかっているから、上がっていた口角が僅かに下がった。ごめんなさい、ひとりでに呟く。きっと置いていってしまうと知っている。それまで傍にいる誰かが欲しかっただけ。白いカーテンを見上げて、白いベッドの上で空を見つめた。広がる闇は死の手招き。赤い月は残りの時間を報せる時計。あの月が消える時、私(ぼく)は死ぬだろう。そう知っている。

 痩せた腕を空に向かって伸ばした。滅びを象徴するような光景だった。あとどれだけ、時間は残っているのだろう。


 ──どうして服を脱がせたの? どうして犯したの?


 暗くなりかけた画面がまた明るく灯る。どうして、どうしてか。どうしてだろう。私(ぼく)には持ち合わせていない答え。然し、答えなければいけない。束の間の夢を、失わない為に。私(ぼく)が僕を失い、私を終わらせるその時まで、永らえなくてはいけない。じゃなきゃ寂しいから。凍えて心が死んでしまうから。

 偽りでも愛してるを続けなければいけない。けれど、私(ぼく)が君を愛しているのは、ちゃんと本当。


 ──"君を感じたかったから。"


 出したのは捻りのない答えだった。実際に脱がせた人間が何を考えていたのかなんて知らない。この茶番が、戯曲が、いつから始まったのかさえ定かでは無い。

 犯されて錯乱する君を、最初は宥める為だけに使った嘘だった、ような気がする。君になら犯されても良いと、前に語っていたから。それは僕だよ、僕だと思えば良い、と言ったら、簡単に相手は暗示にかかってしまった。それからは毎晩、確認するように報告が来る。


 ──もう寝るよ。お休み。


 数分間を置いて、知らない世界を生きる君は、夢の中へと身をやつした。嗚呼、そうだ。世界はいつも私一人を置いていく。暫くその画面を眺めていたら、いつの間にか、あたりは真っ暗になっていた。画面も暗転している。私は込み上げる笑いを抑えきれなかった。くく、あはは。はは、ははは。肩を震わせ、腹を脈動させて、辺りに乾いた笑いを響かせる。夜の静寂の中では、その声はからからとよく響いた。


「××さん、大丈夫ですか? もう消灯していますよ」


 白い部屋の引き戸がガラリと開いて、鈴のような女性の声が響いた。白い服を着ている。私はにこりと笑った。


「大丈夫です。少し、思い出し笑いを」

「夜ですので、お静かにして下さいね」

「はい。申し訳ないです」


 呼ばれた名前が最早なんだったのか、ノイズに阻まれてもう聞こえない。思い出せない。私は誰だったのか。嗚呼そういえば、画面の向こうの君が何処の誰で、性別は何かすらも知らない。それなのに私は毎晩、君を犯したと嘯いている。愛してると囁いている。なんておかしな話だろう。


 女性は直ぐに出ていった。正確には、顔だけ覗かせてドアを閉めて去っていった。こんな状況でも私は正常ぶっている。何処かが壊れているからこんな所にいるのに。遠のくヒールの音を聴きながら、腕に差し込まれた管を見つめた。ふわりと微笑う。


 嗚呼、どうせ誰も私の見ている世界などわからないのだ。

 そうして世界は、私を置いていく。どれだけ献身的に接しても、離れないでくれと頼んでも。

 結局は皆、夢を離れて私の元から去っていくのだ。


 私(ぼく)は再びメッセージ欄を開いた。笑っている。ずっと、ずっと。


 ──"僕が君を犯すのは今夜でおしまい。明日からは僕じゃない。それでも僕は、君を愛してるよ。"


 真実を並べ立てた時、解放感に満ち溢れた。送信するや否や、腕に刺さっている針を抜く。

 覚束無い足取りで窓まで歩き、鍵を外してがらりと開けた。夜風が室内に入ってくる。と同時に、赤い月は近くなる。嗚呼、手を伸ばせばすぐそこに。窓から身を乗り出す。どうせ理解されやしない、孤独は埋まらなかった。それなら。


 ──"赤い月を、殺しに逝こうじゃないか"。


 浮遊感。重力。私(僕)の意識は、そこで途切れた。暗転。

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