第95話 ラァニィブリッヂオンチョコレイトバァリィ

「おい、リザリィ。あいつ、元はなんなんだ? 高精細な3次元映像のように見えるが、実体はあるな。前々から不思議だったんだが、魔素ってのは、何でもできるのか?」

 レネィが良く分からないことを言いながら、真っ黒な体毛を持つ巨大な狼、『終のアンテセッサ』へ鉛玉を撃ってけん制した。

 右手には、小型のいかりをハンマーのように携えている。ヴァニティエスに破壊されたハンマーの代わりで、ミリカ達と一緒に転送されてきた船に、備品として設置されていたものだ。

「ストックレスアンカーとかいうらしいが、意外に馴染むな、これ……よっ、と! お前な、眼を見りゃ次にどこへ動くか、丸わかりだぜ?」

 アンテセッサが以前のように光のような速度で肉薄しても、レネィの錨捌きと行動予測、見事な反応速度によって阻まれる。

 獣からすればレネィは、近付けば錨の一撃、離れれば鉛玉が待っている嫌な相手だった。

「あわわ、アンテセッサは私の故郷の守り神なんですよ! やめてあげてください!」

 大した脅威もなく、完封しているように見えるが、オリジナルはもっと強く、賢かったはずだ。身体能力や咬合力は変わっていないようだから、あのアンテセッサの強さは、知性によるところが大きかったことが伺える。

「……😔」

 アンテセッサの目はあちらこちらを忙しく向いて、言葉はもう発せない、本能のまま生きる獣のようだった。

 リザリィはやきもきしながら勝負を見守っていた。

「まだ言ってんのかお前……あいつをやらねぇと俺がやられるが、良いのか? どっちが大事なんだテメーはよ!」

 相も変わらずなリザリィの博愛ぶりに、レネィは怒り心頭の様子だ。

「そんなの決められませんよ! どっちも助かれば良いじゃないですか!」

 無茶なことを言っているのは承知だったが、これが本心でもあった。

「ねぇ、レネ、お願い。……あの子に触れるようにできない?」

 レネィの左手を両手で掴んで、潤んだ瞳を向けて見せた。

「ばっ……馬鹿野郎! て、手を掴むんじゃねーよ、死にてーのか⁉」

 近付いてきたアンテセッサに、錨を振るおうとしたところで、急に手を掴まれてバランスを崩した。倒れたところを、突進していたアンテセッサが過ぎていった。

 危うく2人とも食べられてしまう所だった。レネィが必要以上に慌てたのは、それだけではないようで頬を赤らめていた。

「ったくよ、しゃーねぇな……あまり貴重レアな弾は使いたくねぇんだがな……動きを制限する弾なんて、これ1発しかねぇから外せねぇぞ、お前も手伝えよな!」

 リザリィの持つランセットでは、アンテセッサに傷を負わせることは難しいし、リーチも短く不安だ。

 レネィが彼女に渡したのは、意外にも、弾を込めたばかりの小型大砲セイレーンだった。

 今まで誰にも触らせたことのないものを、軽く手渡した。信頼の証だ。

「え゛ぇ~! 私がこれを~⁉ 無理じゃないですかね? え〜、いやだな~」

 言いながら肩幅に足を開いて、右足を少し後退させる。右手は伸ばして人差し指を小型大砲の引き金にかけ、左手は脇を絞めて銃身を支える。アンテセッサに照準を合わせて、相手の移動にも対応しつつ構えた。

「乗り気なのか嫌なのか、何なんだよお前……。なかなか様になってるじゃねーか、俺が隙を作るから、ぜってぇ当てろよ!」

 レネィは緋色の眼を攻撃的に輝かせる。

 錨を両手で持って斜め下に構え、低い姿勢のまま獣の元へと走った。直前で左右に跳んで陽動し、敵の顎目掛けて全力で振り上げた。命中して怯んだ所に、左前脚の膝関節を狙って、回転して打撃を与えた。

「やっぱ関節も硬ぇー! びくともしねぇぜ、でも嫌がってはいるな。リザリィ、今だぜ!」

 アンテセッサは苦しみながらも、レネィを狙って右前脚を振るうが、やはり簡単に後方転回して回避した。

「……ッそこぇ~!」

 リザリィが乱暴者の真似をしながら、引き金を引いた。

 放った弾丸は直線的に推進し、目の前のレネィに気を取られていたアンテセッサへと吸い込まれ、命中と共に対象の全身へ電撃が走った。


「ビンゴだぜ。リザリィ、おまえ狙撃の才能あるな……。込めてたのはアンリ姉さんの魔素衝撃電流マソパルサー弾だ。魔素生物は当たればしばらく動けねぇ」

 その通りに、アンテセッサは舌をだらしなく垂らして、痺れて動けない。

 リザリィは急いで近付いて、レネィに預かっていた小型大砲を渡すと、以前のように膝枕をつくって獣の頭を乗せた。

「アンテセッサ……今、悪いものを取り除いてあげますからね……」

 また以前と同じように、優しく頭を撫でながら、クオリアを探り始めた。

「……っ」

 しばらくして目を瞑って集中していたリザリィの顔に力が入る。

 2、3度首を横に振ったかと思うと、レネィの方を見て、真珠のような涙を流し始めた。

「俺を見て泣くんじゃねぇよ……。なんだ? オイ、何が起こっていやがるんだ? さっぱりわかんねーよ」

 レネィは困惑したが、元には戻せないだろうことは予測ができた。というより、最初から分かっていた。リザリィは、諦めていなかったから悲しんでいるのだろう。

「こんなのって……酷すぎますよ。――待っててね、今……」

 リザリィはしゃくりあげながらも再度集中すると、アンテセッサの身体から『存在のクオリア』を引き出して、空中で分解させた。獣の本体も、それに追随するかのように光の柱になって消えていった。


 リザリィは口をへの字に曲げて、レネィの方を見た。目には涙が溜まって、今にも零れ落ちそうだ。

「お、おい、やめろよ。やめ……っ!」

 危惧していた通り、リザリィは彼女に向かって突進し、その弾力のある豊満な胸に顔を埋めて号泣し始めた。

 逃げそびれたレネィは、頭を掻きながら、そっぽを向いている。リザリィが号泣するとき、人の胸に顔をこすりつける癖を持つのは有名な話だった。

「ぐずっ、ずるるっ……また救えなかったです、可哀想に」

 リザリィが顔を離すと、レネィの立派な谷間に、鼻水の橋がかかる。

「うわ……もー、お前の顔もぐちょぐちょじゃねーかよぉ。きったねぇなぁ……」

 レネィはポケットからハンカチを取り出して、リザリィの顔を拭いてやった。そのままハンカチを裏返して四つ折りにすると、自分の明褐色の双丘に、てらてらと輝いた鼻水を拭い去った。

「ぐすっ、レデ、ごべんなさい。でも、とっても悲しいのです。悲しくて、憤っているのです。あの子、無理矢理この世界に復元されて……。尊厳と知性を奪われ、何もかも奪われて、与えられたのは、苦痛を感じることのみだったんですよ」

 珍しく、リザリィの語気に怒りの色が見える。

 いつも怒っている印象のあるレネィも、人が怒っているのを目の当たりにすると、逆に冷静になってしまう。

「私たちを追い返すためとか、殺すために居たんじゃないんですよ。最初から私たちを、それだけのために、ここに配置されたのです。……その事実に気付くことも、織り込み済みで。挑発と、精神的な攻撃のためだけに、あの子を使んです!」

「まぁまぁ、落ち着けよ」

 両手を振って怒っているリザリィに、へたくそななだめ方をして火に油を注ぐレネィ。

「これが落ち着いていられますか⁉ 誰が企んでいるんだか知りませんが、私は、もう許しませんよ!」

「落ち着けって言ってんだろうが。お前は気付いてねぇかもしれないが、あの魔獣はよ、アンテセッサは救われたと思うぜ? 最後の最後に苦しみなく逝かせて貰ったんだ。しかもこれで2度目なんだろ? 今頃あっちで礼をしてるさ」

 レネィは今度こそ上手く宥めて、またさめざめと泣き始めたリザリィを、仕方なさそうに抱き寄せた。


「それにな、こんなことを企んでる奴はよ、怒っていようがいまいが、だけだぜ」

 レネィとリザリィの2人は、しばらく抱き合ったのちに、階下へ急ぐ。

 静かな闘志を燃やしながら。

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