第16話 あったか泉

「ヒィーッス……ヒィーッス……」

 ノワールは見覚えのある隧道の前で荷物を降ろし、汗だくで息も絶え絶えになっていた。涼むためにメイド服を脱いで下着のみになると、隧道の奥から吹いてくる冷たい風が火照った身体を撫でて、ため息が出るくらい気持ちが良かった。

「どうせ誰も見てないんだから……途中で……脱げばよかったかな……」


 いや、まさか居るとは思わなかった偽モカ達ヘミテウスも居たことだし、最低限の恥ずかしくない格好をすべきだ、と思いなおして服を着直した。

「うぅ~、汗でビショビショ。水浴びたい。いや折角早く着いたんだし探して浴びよう」

 あまりに急ぎすぎて、予定よりだいぶ早く野営地点に到達できたノワールは、ゆっくり夜の準備に取り掛かることした。


 隧道の横手に、丁度あつらえ向きに設置された階段があったから、降りて水場と食料を同時に探すことにした。

 真上は縦断遺構が山を直進するために開けられた隧道、階段の下は山の裾野で行き止まりだった。ノワールは枝を拾って、垂直に設置し、自然に倒れた方向である左手へと進んでいった。

「やった、水場だ‼ ん……? なんだこの……」

 しばらく山沿いに進んだところで、お目当ての水場を見つけた。山の上から滝が落ち、中央で少々の水を湛え、下の川へと流れがあって、水浴びや飲用にするには丁度いい。不審に思ったのは、ゆらゆらと立ちこめた湯気の存在だ。


「え、嘘でしょ⁉ お湯だこれ‼」

 近付いて、水を触ってみたノワールは思わず叫んだ。

 温かいお湯なんて、人間が造るものだと思っていた。こんな野良の風呂があることなど知らなかったし、初めて見たのだ。

 外で、野営地でお風呂に入れるなんて、嘘みたいな話だった。嘘みたいな話には、裏があるのが常だったので、剣を鞘から取り出して、辺りを警戒した。

「罠でも攻撃でもない、ということは……」

 自然にこういうことがあるのだと喜んで、凄い速さで全ての衣類を取り去ってお湯へ飛び込んだ。そこそこ広く浅くお湯が溜まっていて、ノワールが大きく手足を広げて浮かんでも、余裕がある広さだ。

「ふぃ~~~♡ 気持ちいぃ~~♡」

 お湯は、疲れきって汗をかいた体に、じわりと染みわたって、浮かんでいるだけで集中的に治療を受けている気分になった。


「はぁああ♡ これいいよぉ~……♡」

 しばらくして、ハッと我に返った。これは、なる。

「ある意味、魔物だ!」

 露天風呂の魔力に怖れを抱いたノワールは急いで跳び出ると、脱いだ服の一切を洗濯し、服の代わりに体を拭く大きなタオルを巻いて、野営地点へと戻った。ちなみに、これは恥ずかしくない格好だからセーフだった。


「はぁ~~、気持ち良かったなぁ……また入りたいよぉ~」

 戻ってくる頃には、陽が傾き始めてきていて、辺りを紅く染めつつあった。

「いや良くないよ……あれきっと漬かってたらダメになる奴だから……」

 慣れた寝床の設営を、ブツブツ言いながら完了させる。すっかり野良風呂の虜になって、その事ばかり考えるようになってしまった。


 今日の設営では、焚火の周りに杭を打って、縄を張り、物干し台を設置した。しばらく乾かして、下着に着替えると、次元断熱式瓶に入ったエリクシルに口をつけた。前日の朝に受け取ったはずのそれは、冷ましながら飲まないと火傷するくらいに熱かった。

「何だか良いのかな~、この旅行。魔物も一切出ないし。気持ちのいい事ばかりで……ふぁ~あ、眠くなっちゃうよぉ」

 ゆらゆらと揺れる焚火を眺めながら、木が弾ける音を聞いて、温かいスープをゆっくり飲んだ。ゆったりした空気に微睡みだして、気持ちの良いまま寝床に向かった。


 翌日の早朝、野営地点にノワールの姿は無かった。やはり誘惑に抗えなかったと見えて、遺構下の露天風呂に揺蕩たゆたっていた。

「ほんと最高……この世界の真理に気付かさるる。そしてやがて自分の生まれた意味を知る。この地形、全部くり抜いて持って帰りたい」

 リザリィを連れて帰る時に、必ず寄ろう。あぁ見えてリザリィは快楽主義者だから、この悦楽を教えてあげたい、そう思った。

 このお湯に悪人を浸けたら、悪い部分だけ溶け出して、善き者になるんじゃないかとか、世界平和に利用できそうな気さえした。

「いや、人間は愚かだ、このお湯を所有する権利で争うだろうな。このまま隠しておいた方がいい」

 ノワールが湯から上がると、それほど長く漬かっていたのだろうか、いつもは真っ白の肌が赤く熱を帯びて火照っていた。


 朝から湯に漬かることができて、雪山に対する心構えも、気力も充分だった。

 フワッと乾いたメイド服に袖を通すと、気分を一新させてくれる。

 汲んでおいた水を鉄製のカップに入れて、更にその辺の葉っぱを入れて、焚火にくべて沸かす。即興のモーニング・ティーだ。

「これは……不味い‼」

 そのようにルーチンをこなすと、野営地の後始末をし、ランタンに火を灯して隧道へと入っていった。


 隧道内は、すぐに真っ暗闇になって、ランタンの明かりだけが頼りになった。床や壁の崩壊も甚だしくて、そこら中に腰丈の石材が転がっているから、歩くのにも苦労する難所だ。

 陽の角度による時間の測定も行えず、どれだけ進んだかも把握しづらい。この隧道を越えると、雪深い森林に出るから、そこから来る冷気の強弱のみが判断材料となった。


(何か、居るな)

 しばらくは何事もなく進み、肌寒くなってくる頃に、明確に気配と殺意を感じた。間違いない、魔物だ。

 ランタンを持っていると、的になると考えたノワールは、瓦礫の山に置いて、光源を背にして警戒した。猫目が幸いして、真っ暗闇でなければ視えるし闘えるので、ゆっくりと剣を抜いて構えた。

(あいつか、2年前の……懐かしいな。ん? ということはやはり……)

 ノワールが瞳孔をまんまるに広げて目視したのは、体高がノワールの1.5倍以上はある狼。以前来た時にリザリィと協力して倒した、アンテセッサが生み出した分身。『クルムの魔獣クルムンガンド』と呼ばれる魔物だった。

 こいつが存在するということは、アンテセッサが復活したという情報が、十中八九、杞憂では無いということだ。

(……リサ、大丈夫かな、すぐ向かうから、待っててね)

「見張りのつもりかな? 雑魚が、かかってきなよ」

 以前はリザリィの施した肉体強化によって、牙すらも通らなかったが、今噛まれれば致命的だろう事が窺えた。

 得物がレネィの鍛えた細剣である『何とかミルフィーユ』に替わっていたから、相手の気に合わせた反撃が有効だろうと、背筋を伸ばして右手を前に出して切っ先を獣に向け、出方を待った。

「……何だ、来ないのか、臆病者め!」

 早くも痺れを切らしたノワールは、待ちの戦術をよく使うが、向いていなかった。

 初めて振るう剣だったから、確認と牽制の意味を込めて、肘を下げ正眼に構えた姿勢から、軽くランジして払った。

 ガンドは器用にも爪で剣を迎え撃とうとしたが、それは叶わなかった。

 攻撃したノワールも、受けた獣も想像していない切れ味で、手応え無く透過したように感じた。剣はガンドの爪を易々と裂いて、想像してなかったノワールは支えを失って転んだ。

「いててっ、なんなの、君の切れ味……⁉」

 飛び上がって思わず剣を見たが、美しい刃文を輝かせるのみで返事は無かった。

 爪が防御にならないわけだから、こうなったら獣にとっては全ての剣が一撃必殺に等しい。かといって退くような頭も無いのか、とうとう突っ込んできた。

 

「待ってました、ほいっと避けて……三毛猫連撃キャリコスラッシュ‼」

 やっぱり突っ込んできてくれると楽だった。回避と同時の高速3連撃によって、ガンドは息絶えて霧散した。


「よしっ! レネ、ありがとう‼」

 素晴らしい剣を鞘に納めて作り手のレネィに感謝すると、リザリィの元に急ぐために歩を進めるのだった。

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