我が名において
──考えるでもなく左の太ももに備えた3本の投擲用ナイフを握り、私は彼の脇腹へ左の拳を繰り出していた。
身体は思考の必要なく、反射のみで外敵と認識した目の前のリゼル先生へ反撃を試みている。
それはまるで悪夢とさして変わらない光景。
ナイフを握り締めた拳は邪魔もなく彼の脇腹へと突き刺さり、私の脇腹に突き刺さった短剣を握る彼の手が緩んだ。
私は勢い良く拳ごと3本の投擲用ナイフを引き抜き、バックステップを踏んで距離を取った。
そうしてようやく、自分が何をされたのか、自分が何をしたのか、これがどういった状況なのかと、その思考回路は焼き切れんばかりに動き始める。
溢れる感情、溢れ落ちる疑問、頭の中を巡り巡る優しい彼の声。
脇腹に突き刺さったままの短剣と滲む血、燃え上がるような痛みすら、私を我に返そうとはしてくれない。
この期に及んでまだ私は何かの間違いが起きたのだと、繰り返し愛しい彼の声を再生していた。
「なんと素晴らしい……
その動きはあのメイド長から教わりましたか
反射的に動けるように仕込まれているとは、全く感服します
僕以外にちゃんと師を見つけていてくれて、僕はとても嬉しいですよ、姫様」
「──痛い、痛いよ先生
こん、こんなに血が……
やっと会えたのに──」
「そうです、やっと逢えたのです
僕は嬉しい
君にようやく痛みを教えられた」
何を言っているのだろう?
私は何か悪いことを、叱られるようなことをしてしまったのだろうか?
私の脇腹に突き刺さったままの短剣が、私が震える度に臓腑を傷付け、その痛みで私の思考は溺れていった。
それ故に──
思考の外で動き出した私の身体は目の前の死に反発する。
彼を見据えたまま後退し、煙に巻くようにして森の木々の中へ私の身は隠れた。
「──また、かくれんぼですか
中々見付けられず苦労させられましたね
何せ、気付いた時には消えてしまうのですから」
彼の足音が聞こえる。
私を探しているのだろう。
まだ生きている木を背もたれに、私は外套を口まで運んで強く噛み、突き刺さった短剣を引き抜いた。
本当に酷い痛みだ、視界がチカチカして目が霞む。
急いで腰のポシェットから、薬草を調合して作った止血剤を染み込ませた粘着シートを取り出し、それをインナーを剥いで傷口に直接貼り付ける。
咥えていた外套が涎と涙で汚れてしまったな、など、目を逸らしたような思考が流れてすぐ、近付く足音に私は臨戦態勢を取っていた。
私は何をしているんだ、私の師でしょうに。
先生を信頼し、尊敬し、かつて抱いていた恋心を思い出したばかりの私の心は、彼より長い付き合いとなった鋭敏な生存本能と剥離して、未だ彼を想い続けていた。
これは何かの間違いなのだと。
悪い夢なのだと。
少しすれば目は覚めるはずだと。
彼はそんなことをするはずがないのだ。
──本当にそうだろうか?
彼のことを思い出して、彼と過ごした楽しい時間を、彼が教える勉学の退屈な時間を、怒っても優しい彼の姿を。
まだ何か、あった気がする──
「姫様、僕にはまだ貴女に教えていないことがあったのです」
彼の声はすぐ近く、5パースも離れていないだろう。
我ながら良く隠れられているものだ。
私は近くに落ちている木片を拾って少し離れた樹上へと投げた。
ガサガサと音を立てた木の葉に合わせて合言葉を小さく呟き右の得物を起動させる。
「そちらですか?」
気を取られた彼が進行方向を変えたのを音で確認し、今度は顔だけをそちらへ向け、彼の動向を確認した。
こちらに背を向け、明後日の方向を探している彼へ得物の銃口を向けた私に、命の危機に瀕していた私に躊躇などありはしない。
青白い光の弾ける銃口、放たれる弾丸。
音より早く突き進むプラズマ弾が彼の背へ突き刺さった。
そうしてすぐに離脱する。
傷の痛みのせいで思うような足運びは出来ないが、また彼から離れた位置へと身を隠した。
「今のはいい一撃です
銃の使い方もメイド長から習いましたか」
見えない私へ話しかける先生の声色は意気揚々としていて、とても楽しそうだ。
それ故に、脇腹の痛みが増す。
息を殺し、ただひたすらに死を拒む為に彼の命を奪おうとする殺意。
幼い日の彼との思い出、優しくて、少し抜けていて、博識で、聞けば何でも教えてくれる理想の先生。
そんな彼が私にしていることは乱心以外にない。
ならばせめて、この14年で狂ってしまった彼を止めなければ。
そうでなければ、今も私の帰りを待っている皆に顔向けが出来ないのだ。
「──パルシラの教え方が上手いんですよ
私にセンスはありませんが」
精一杯声を張って立ち上がった私は合言葉を呟いて右の得物の刃を展開する。
「見えない場所からの射撃、素早い離脱、まるで長く戦場に身を置いた戦士の如き身のこなし
本当に多くのことを学んでいるようで僕は感無量です」
──隠れている筈の私に返答する彼の姿も、現状私の視界の中にはない。
彼の声も10パースほど離れた位置から聞こえてきて、こちらの場所も正確には分かっていない様子。
あるいは、探る気がないのか。
どの道、もう一度その姿を拝まないことには彼を殺しきれない。
私は木の影から出て──
「ようやく見つけましたよ、姫様」
すぐ、私の目の前に彼の姿はあった。
何の脈略もなく現れた彼に私の右腕が動く。
彼の胴へ向けて振るわれた幅広の刃は彼に届くすんでのところで止まった。
魔力障壁……!
動力魔術の中でも最も基礎的な防御魔術──
魔力に質量を与えて綿密に結合させ、不可視ながら鋼鉄のような強度を持たせる魔術だ。
彼のような手練であれば無意識下でも障害に合わせて即座に行使することは雑作もない。
「おや、魔術使いとの戦い方は覚えがありませんか?」
彼は私を一瞥するとだらりと下ろしていた右手を僅かに上げる。
来る──
彼が最も得意とするのは動力魔術、どれほど簡単なものであれ、精度が高ければ高いほど驚異となる魔術の系統。
魔力障壁と同じ要領で質量を与えた魔力の塊を撃ち出すだけでもその辺の銃の威力を軽く凌駕し、なおかつ、銃を撃つより早く行使してくる。
彼程ともなれば──
「──
私は右の得物を引きつつ納刀し、銃口を向けながらバックステップを踏み、彼の頭部へ目掛けて弾丸を1発撃ち込んだ。
その弾丸も障壁で防がれたが、マズルフラッシュと──
異能を利用してまた近くの木へと身を隠した。
「いやはや判断が早い
これでは埒が開きません」
彼は溜め息と共に1つ手を叩いた。
「ですので、視界を良くしましょう」
楽しそうな彼の声が響いた後、一瞬で空気が張り詰め、全身に鳥肌が立つ。
私は数歩駆けて勢いよく身体を伏せた。
「──
彼の言葉の直後、頭上を轟音と共に紅蓮の炎と衝撃波が通り過ぎ、一帯の木々を焼き払ったのだ。
私が身を隠していた木も弾け飛んで、気付けば辺り一帯は焦土と化していた。
「これで隠れられる場所はありませんね」
赤々と燃え盛る木々に背後から照らされた彼の顔はよく見えない。
それでも、エメラルドのように美しく輝く瞳といつものように微笑えんでいることだけはよく分かる。
どうして?
何故?
そんな単純な疑問を頭の中で巡らせながら、私は立ち上がった。
「リゼル先生、私には貴方と戦う理由がありません
貴方が私を傷つける理由も分かりません
どれだけ考えても、貴方が乱心しているとしか思えません
どうされたのですか!」
「どうされたも何も
極単純に、貴女が生きていること自体、僕にとっては不都合というだけですよ」
──全く酷い言葉だ。
私の心が砕けるような音が聞こえ、脚が震え、命を投げ出すように立っていたくなくなる。
大人しく殺されてしまうのが私の運命か、それとも、小さな子供の頃から、彼の死を知らされた後もずっと慕い続けてきた彼を。
彼を殺して──
殺して、それでも生き残る。
それが正解と言えるのだろうか。
「それに、貴女にも僕と戦う理由ならあるじゃありませんか」
「そんなこと──」
「自分の母が貴女の目の前で僕に犯され、殺されたにも関わらずですか?」
「──は?」
突拍子もない彼の言葉は私の全身に鳥肌を立たせる。
そして、彼の顔にノイズが掛かったと思った瞬間に、私の視界は真っ白に染まり、同時に私は幼い頃の記憶に襲われた。
──そうだ、アレは城の落ちた日。
母と私が寝ているの寝室に突然やってきた先生は──
「──ルガーラック卿?
こんな夜分にどうしたのです」
「急ぎ報告をしなければならないことがあるのです
王が、グレゴール国王陛下がお亡くなりになられました」
母は私の横で目を丸くして、すぐに眉間に皺を寄せ、悪い冗談だと吐き捨て、ベッドから出た。
「いえ、冗談ではありません
僕が手ずから命を奪ったのですから」
あぁ、そうだ、この時も彼はいつものように微笑んでいた。
呆気に取られた母はそのまま催眠の魔術を掛けられ、まるで人形のように彼の指示に従って服を脱ぎ始めたんだ。
そして、私に気づいた先生は──
「姫様、怯えずとも大丈夫です
貴女にもいずれ覚えて頂かなければならないことをこれからお教え致します
さぁ、夜伽のお勉強をしましょう」
その言葉と同時に床を突き破って現れた木の根のようなものが私の四肢を拘束していき、私は訳も分からないまま、母が目の前の男に慰み者にされていく様子をまじまじと見せ付けられたのだ。
目を逸らそうとしても木の根のようなものは私の首を固定して、恐怖で目を閉じようとしていても、母が彼に尽くす姿から目を離さずには居られなかった。
その永遠にも感じられる悪夢のような時間はどれほどだったのだろう。
きっと数十分程度、喘ぐ母の声と、艶めかしく肌を重ね合う二人の様子が強烈に焦燥感を走らせた。
アレを、今度は私が……?
大好きな先生がどうしてこんなに怖いことを?
そんなことを考えている内に、母は首を捻じ曲げられて床に倒れ伏した。
その状況を飲み込む間もなく、先生が近付いて来て──
「姫様はお美しい
柔らかな頬も、滑らかな肌も、艶めく髪も
ですから、どこまでも美しくお育て致します」
甘い声色で囁いた彼は、私に掛けられた木の根の拘束を解いて、ベッドへ押し倒し、私の服を全て剥いだ。
「あっ……先生ぇ……
どうして……?」
「僕が育てたのですから、その僕に貴女を頂く権利があるとは思いませんか?
ティアリス王妃もお美しい方でしたが、貴女はより美しく愛らしい
姫様のご両親の元へ送る前に、しっかり育ったか確かめるのは僕の義務ですから」
そんな、訳の分からないことを口にしながら、彼は私の臍にキスをして、そこから下へ、下へと舌を這わせて行った。
あぁ、きっと私も母様と同じように。
そう思ったその時、1発の銃声が鳴り響き、先生の頭は蹴られた石ころのように吹き飛んだ。
私の身体は真っ赤に染まって、必死に私を呼ぶメイド長の声が聞こえた──
我に返ってすぐ、私は身構えた。
時はそれほど経っていないようで、相変わらず先生は微笑んでいる。
「──何を」
「えぇ、事実を述べただけですので」
「私に何をしたのかと聞いたのです!
ルガーラック卿!」
彼は心底驚いた様子で顎に手を当て、鼻を鳴らす。
「いえ、僕は特に何も
──人は時に、強いショックを受けた出来事の記憶を封印することがあり、それが何かのきっかけで復活することもある
先程までの懐かしい態度はそれが理由でしたか
てっきり、僕は恨まれているものだと思っていたので、不思議ではありましたが
まぁ、好都合だったので」
「たった今、私は貴方をこれ以上なく無礼で最低最悪な人物だと認識し直しました
下品な表現ですが、貴方にはここで消えてもらいます
貴方の目的は分かりませんが、私達の計画には邪魔なようですので」
「素晴らしい、それでよいのです姫様
貴女がもし僕を仕留めることが出来たのであれば、僕の雇い主に関することをお教えしましょう
それくらいのハンデがあったほうが、彼も喜ぶでしょうから」
雇い主、か。
それはきっと、私が追い続けているアルバディノ家の
そうでなければ、頭を砕かれた彼がここで生きていることの説明が付かない。
おそらく彼は、
ならば、やることは一つだ。
私は腰に備えた短刀を左手で引き抜いて逆手に構えた。
「これより、ティレン・レギーナ・リプルハートの名において、貴公、リゼル・フォン・ルガーラックを処断致します」
「既に滅んだ国を背負って僕を討つというのですね
あぁ、なんと美しい決意でしょう!
ならば、僕も全力で抵抗するというもの!」
燃え上がる木々の中心で私達は相対する。
先生、ルガーラック卿が両手を広げると、彼の後方から
アレは彼が使役していたのか……。
しかし、今は力をセーブしている余裕はないし、弔うように戦える状態でもない。
問答無用で術者を狙っていく。
そうすればそのうちアレもどうにかなる筈だ。
「では、始めましょう
貴女にもすぐにご両親に会わせてあげます」
「お喋りをしている暇は──」
全力、そう、全力である。
私の一蹴りは空を裂くように彼の目の前へと私の身体を彼の懐へ運んだ。
迷わず入れた中段蹴りが彼の腹部へ捩じ込まれ、彼は後方に並んだ
「──ありませんよ」
「い、いつの間に……
これもかくれんぼの──」
未だ目を輝かせている彼を見下ろし、小さく呟いた。
「──
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