かつて少女だった私は──
──ここには声がない。
風も、葉の擦れ合うざわめきも、そこに住まう森の民達ももぬけの殻。
穢れた空気が漂い、全身にべったりとまとわり着くようなその不快感はまるで数年放置された墓場みたいで。
あぁ、気色悪い。
僅かに50パースほど、ヴェリアやメルミーちゃんの姿が見えなくなった辺りからこんな状態、目的のポイントまでの距離はあと300パースほど。
明らかに変容した森を慎重に進んでいくと、周囲の景色に少し変化が出てきた。
見たこともない悲惨な風景だ。
「何これ……
掘り起こされたみたいな……」
至る所にあったのは深く掘られた穴、代わりに森を森たらしめる木々の姿がそこにはない。
それでもまばらに木々は生えているが、どれも枯れる一歩手前まで精気を抜かれている。
何もしなければ数日もしない内にこの森が死に覆われるだろうと察するのはそう難しくなかった。
惨い。
酷い吐き気を催す。
自然にこんなことが起きるはずもないのは火を見るより明らかであり、間違いなく人がこれを行ったのだ。
反面、人ならばそれをする。
基本的には自然物をそのまま使うか、人が作ったものを奪うかだ。
一部の上位種族ですら、自らの根城を建てる時は生命の多い森は避け、山間で人気の少ない場所を選び、石材や金属を好む。
彼らは強い闘争力を求める一方で、自然信仰の風習が強く残っており、神々が人と同じく彼らにも加護を与えているのはそれが由来なのだとされる。
学者からすると、地上における
では。今、私の目の前に広がっている無情な光景を作り出したのは誰だろうか。
穴のひとつの前でしゃがみ込んだ私は、その穴を軽く観察してみる。
「酷い臭い……」
木の根が腐った臭いがする。
自然のままに腐敗したものではなく、瘴気のような悪いものに充てられて酷く腐った木の臭いが地面の近くには充満していた。
近くには木の根の欠片のようなものも落ちており、それを見るに腐敗で脆くなった部分が何か強い力で引きちぎられたように見える。
「……やっぱり
立ち上がって正面、報告のあった現場方面へ視線を向けた。
そうして、一歩二歩と進んだところでふいに地面が揺れたような感触を覚える。
咄嗟にそこから飛び退いた私の目の前、私がつい先程まで踏み締めていた土の下から人の手のようなものが生えてきたのだ。
いや──
直感に頼るなら、あれは腐った木の根。
それが編まれるように固められ、人の手の形を形成したもの。
そしてそれは、
湿っていて、腐り朽ちた表皮からは鼻を刺すようなカビの臭いに混じって、良く熟れた果実のような甘ったるい香りが漂い、その形は人そのもの。
人の遺体にも見えるそれは、全てが腐った樹木で出来ているのだろうか、それを人の形に練り上げたようで、常に軋んだ音を立てながら蠢いている。
ゆらゆらとそれが揺らめいていると、その後ろから更に2つ同じものが地上へ這い出て来た。
そうして、目すらないそれが確かにこちらを向く。
──木を用いるただの
まるで、
どちらにしても、あの3つの人形からは生気は感じられず、ひたすらに憐れな木の成れの果て。
こんなもの、自然に発生する筈がない。
間違いなく人の手によって作り上げられたであろうそれを名付けるなら、
森への敬意などどこにもなく、死せる木を自然の摂理から外した冒涜的な存在。
何をどう考えたらこんなものを作ろうと思いつくのだろうか。
どの道、これらをそのままにしておく道理はない。
木漏れ日を歩むものとして、これを見過ごせる訳がないのだ。
介錯、とはまた違うかも知れないが、せめて二度とこのような形にならないよう、念入りに破壊してやるのがせめてもの供養になるだろう。
「──
私は得物の銃口と、人差し指と中指を静かに正面へ向け、
青白い光が
やはりというか、材質的にかなり湿り気を帯びているせいで着火はしないが、確実に破壊出来る。
この手の
コレも恐らくそうだろう、口に当たる器官は今のところ見えないが、何も考えずに近付けばタダでは済まない筈だ。
それならば、と、続けて2発の弾丸を正面の
ぱちん、ぱちんと弾ける音と共に簡単に砕けていくその身体だが、ずるずると音を立てながら穴の空いた箇所──
弾丸が触れて焦げた痕が、溢れるように細かい破片となって身体から落ちると、新しく湿った木片で覆い尽くされ、瞬時に修復してしまった。
これではいくら弾丸を撃ち込んでも無駄弾にしかならない。
どうするかと考えている間に3体の
全身の肌に鳥肌が立つ。
──やばいやつだ。
私は全身を震わせ、跳躍の準備をする。
身構えてすぐ、3体の
触手は腐った樹木の本体とはうって変わって粘液をまとった人の舌のようにも見え、それが捕食器官であることを本能で理解する。
背筋を走る悪寒、額に滲む脂汗。
そして、
引き抜くと死を招く叫び声をあげることで有名なマンドラゴラを彷彿とさせるこの不快極まりない甲高い叫び声は、まるで女性の悲鳴──
あるいは断末魔のようであり、少しでも気を抜けば気を狂わされそうな胸のざわめきを引き起こした。
それでも私の脚は動いてくれている。
この甲高い叫び声こそ聞いてしまったが、大きく後方へ跳躍し、まだ生き残っている木へと跳び登った。
──この木も私もまだ、生きている。
その確信は少しばかり私に勇気を与えてくれた。
ここには目下に居る3体の怪物を軽く捻り潰せるであろうヴェリアやメルミーちゃんはいない。
正直、不利な相手には違いないが、手がない訳でもない。
「──
私は右手の得物の刃を起こして息を殺し、隣の木へと飛び移る。
それを3度繰り返し、こちらの姿を探す3体の
奴らはその場で揺らめき、頭部の触手を四方八方へ向けてこちらを探しているようだが、どうにかこちらの所在は誤魔化せているようだ。
飛び移る度に分かったことだが、少なくとも音でこちらを認識している訳ではないこと、最初に確認した通り、やはり目のような器官は見当たらない。
と、すれば、何をもって知覚しているのかは謎だが、今はこちらを見失っているということが重要だ。
私は呼吸を整え、
「──
私の合言葉に反応した右の得物、その刃が淡く青白い光を僅かに帯びた。
詳しい理屈はわからないが、どうやら弾丸のエネルギーを刃にまとわりつけているらしい。
2つ、3つと木を蹴って移動方向を調整し、
頭頂部から真っ二つに裂ける
「紅蓮を纏え、ニジノキセキ──」
合言葉に反応した短刀がうねるような炎を噴き出し、それを振り抜くと一瞬にして
燃え盛り蠢く
頭から伸びる触手をこちらへ向ける
刃から迸る青白い光が
即座にそれを蹴り込み、刃を引き抜いて短刀による刺突を馳走する。
未だ燃え盛る炎を携えた刃が
そんなよろめく
──コイツは最初に射撃したヤツだ。
動きが他のヤツらに比べて鈍く、損傷がしっかりと活動に影響しているのが伺えた。
乱雑に3発の弾丸を撃ち放ちつつ、短刀を納め、着地に備える。
弾丸は頭部の触手1つに命中し、それを千切り落とした。
残りの2発は虚しくも地面へ突き刺さったが、触手の先端が一瞬、弾丸の方へと向く。
そうか、アレは熱を追っていたのか。
今更それが分かったところでもう遅いのだが。
着地と同時に姿勢と呼吸を整え、
しかしこれは誤算だ。
先程まで簡単に蹴り飛ばせていた
私の渾身の蹴りを受け止めた
血の気が引くようなねっとりとした粘液をまとった触手が私の左脚をがっちりと掴んで頭上へと持ち上げた。
寒気と嫌悪感、触手からは酷く吐き気を催す悪臭が昇り、全身に鳥肌が立つ。
触手の生えた頭頂部の中心には人の口のようなものが見え、そこには綺麗に人のような歯が並んでいた。
邪悪そのものだ、これは。
そう頭を過ぎった瞬間に私は銃口を向けている。
青白い光が醜悪な口内へ撃ち込まれ、鼻を突く焦げ臭い煙がそこから吐き出された。
一瞬緩んだ触手を両腰に携えている短剣で斬り付け、私は触手の拘束から逃れ、宙返りをして態勢を整え、
そして、盾の先端で
体表の木片が砕け散り、風穴の空いた身体へもう一度渾身の蹴りを叩き込んで
「──っしゃあッ!」
思わず雄叫びを挙げてしまった。
らしくない。
1つ咳をしてローブに付いた埃を払い、私は目的の現場へと急いだ。
──先の穴だらけの地点より奥は鬱蒼と茂る森、やはりというか、所々に掘り返された穴が見受けられる。
練り歩く
目的のポイントまではおよそ10パース、森の中ではそれほどの距離ですら視界は不良、しかし、木漏れ日を歩く者である私であればそこに何があるのかくらいは分かる。
目的地はどうやらちょっとした遺跡になっているようで、古びた石材の香りがした。
腐った木の臭いもかなり混じっているが、最も気を引くのは人の匂いだ。
なんだか懐かしい匂いがする。
どこか逸る気持ちを抱えながら、太い幹を蹴った。
ようやっと地面へ降り立った私が辺りを見渡すと、予想通り古びた遺跡──
祭壇のようなものがそこには立っている。
その祭壇の中央には1人の人影があり、手帳のようなものを手にして辺りを調査しているようだった。
艶のあるプラチナブロンドの髪を一束に結っていて、尖った長い耳、色白な肌、少しよれた黄土色のローブに緑色の法衣、少し大きな丸眼鏡を掛けたエルフの男。
私の訪れに気付いたその人物が振り向くと、不思議そうにこちらへ視線を向ける。
「おや、こんな所に人が訪れるとは珍しい──」
その少しやつれた顔をした彼には覚えがあった。
私の目からは自然と涙が零れ出し、思わず息を飲む。
「先生──」
「おや……?
君は、どこか面影が──」
「私です!
ティレンです!
リゼル先生!」
あぁ、彼の姿を忘れることがあるものか!
彼はリゼル・フォン・ルガーラック卿、今は亡き我が国に仕えた宮廷魔術師の公爵。
代々魔術師の家系にあるルガーラック家の当主にして、私の教育係だ──
父上や母上共々、生き埋めになったと聞いていたのに、なんということか、私の目の前に彼は居るではないか!
そうだ、間違えようもない、私が彼を見間違えるなどある筈がない!
考える間もなく駆け出した私は彼の胸へと勢い良く飛び込んだ。
少しふら着いた彼は安堵したように息を吐いて私の頭を撫でる。
「──やはり姫様!
あぁ……
姫様、ご無事でしたか!」
「はい!
この通り五体満足で生き延びました
ですが、父と母は──」
「聞き及んでいます、それ以上は姫様の御心に障りましょう」
彼の優しい声色に私は顔を上げ、肩を掴んで抱き着いた私をそっと放した。
「しかし、こんなところで何をしているのです?
それに、その格好も──」
「こ、この格好は……」
言い淀んだ私の言葉を待つでもなく、ほっと胸を撫で下ろしたように深く息を吐いた彼は優しく微笑む。
「城が落ちてからからもう14年も経ちます
どのような形であれ、姫様が生きていたのであればそれに越したことはありません
強くなったのですね」
穏やかな声色の彼の言葉に、まるで重荷を全て降ろした時のような安心感を覚えた。
愛してやまない彼の姿を見れただけでも、声を聴けただけでも天に昇る程の幸せを感じているというのに、私はどこか黒くざわめいている。
「──先生はどうしてこんな所に?」
「えぇ、色々と事情はありますが、生き延びた際に世話になった方からの頼みでこの辺りにある遺跡の調査をしていたんです」
「そうだったのですね
しかし、この辺りは
ここに来るまでにも、木製の奇妙な怪物に出くわしましたし……」
「心配なさってくださるのですね
姫様は相変わらずお優しい方だ」
呆れた様子の彼は苦笑しながらも嬉しそうに頬を掻いた。
「笑わないでください……
本当に危険な所なんですから」
「貴女がそういうのならそうなのでしょう
では、僕もそろそろ引き上げるとします
良ければ、森の入り口までエスコートして頂けませんか?」
「えっと、すぐに下山という訳には行かないのです
私、今はこの山の頂上へ向かってまして……」
驚いてみせた先生は、今度は後ろ頭を掻いて眉を八の字に寄せる。
「あぁ、そうだったのですね
無理強いは良くはありませんし、もう少しだけ周辺を調査したら日没前に帰るとします」
「でしたら、山道までお送りします!
今なら山道もこの数ヶ月に比べて安全になってますから」
「おや、それはどういう?」
彼は手にしていた手帳を懐へ納め、不思議そうに私の目を覗き込んだ。
それが恥ずかしくなって思わず目を逸らしてしまう。
「ゴブリンを、退治しましたので」
「──その格好はそういう事情でしたか
道具もかなり使い込まれているようですし、その生活も長かったみたいですね
本当に立派になられた……」
憂いを帯びた彼の瞳はどこか遠くを見ているようで、逸らした目を彼の方へ戻すと、彼はそっと私を抱き締めた。
「僕の教え子がこれほど逞しくなったのは貴女がきっと初めてでしょう
君の母君も、ティアリス王妃も民を愛する素晴らしい方に、父君のグレゴールも誇り高き名君となりました
貴女もきっと麗しい未来が待っているに違いありません」
「リゼル先生……」
「ですから、私と共に来ませんか?」
彼は朗らかな声で不思議な言葉を口にする。
そして、私の右の脇腹が燃え上がるような痛みを訴えた。
「──えっ?」
ふと、下げた視界の中にキラリと光る短剣が映る。
血が滴っていて、持ち手には先生の手。
脇腹には私の右腰に差していた短剣が刺さっていた。
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