テルミドール屋敷
アンリの部屋から出たその先は、先ほどまでと同じような薄暗さと、青白い薄明かりの玄関広場だった。不可解なのは、アンリが開けて通ってきたのが、位置的に玄関ドアになっていたことだ。
(さっき開けた、もう1つのドアから見た景色は、地上4~5階の様だったけど……ここは、体感で1階にしか思えない)
この屋敷の何もかもが異常に思えた。恐ろしくなって辺りを見回し、暗がりに何か居るのではないかと警戒した。
警戒しながら玄関の左手に置いてある小さな机に、手記を発見する。色々な物が雑多に転がってはいたが、何かに導かれるように手記を選んで、読んだ。
「1704年12月4日 待望の我が子が生まれた! 女の子だ。名前はヘンリエッタ、ただただ健やかに育ってほしい」
(ヘンリエッタ……って、懐かしい気がするけど、何だっけ)
もう1束あった手記も続けて読んだ。
「1708年──19日 どうやらアンリは、他の子より成長が遅いようだ。心配ではあるが、何があっても変わらぬ愛情をもって育てて──」
(ヘンリエッタ、愛称が『アンリ』……ということはことは、これは私についての……そして語り口からして、父の手記?)
ガタガタッ!
アンリが手記を読んで考えていると、薄暗い玄関広場の奥から不自然な音が聞こえた。
「……誰⁉」
恐怖で体が強張った、アンリの質問に対して返答は無かったが、ミシ、ミシと、重そうな足跡だけが近づいてきていた。
きっと、碌なものではない。逃げた方がいい。アンリの直感は、そう告げていた。
足早に、手近にある左の廊下へ曲がると、すぐにドアがあった。後ろからは何者かが迫っている気配がする。
「うそ、うそ……」
ドアには鍵がかかっているのか、いくら回そうとしても、ガチャガチャと音が響くだけだった。
「そうだ、さっきの……アンド……トォ……」
『魔法のおまじない』を言おうとするが、思い出せないし、焦って口が回らない。
ふと後方を確認すると、とうとう近づいてくる者の正体を見てしまった。
人や獣、どちらにも属さないような姿。長さも太さもまばらな3本足を主に、べたべたと柔らかい触手のようなものを無数に引き摺っている。それらに支えられる、見上げるような胴体はボコボコとひずんで、まばらに太い針のような毛が生えていた。
そこから生えた流線形をした部位には、眼も鼻も耳も無いが、口と思しきものが無数に開いて、何らかの粘液を垂らしていた。
『異類異形、忌まわしい醜悪な化け物』
浮かんだのは、そんな感想だ。
それと、自身が危機的状況にあると理解して、逆に落ち着いたのだろうか、さっきまで思い出せなかった呪文だった。
「──ディセーブル!」
凄まじい速度で呪文を唱え切ると、案の定ドアが開いたから、すぐに駆け込んで閉じた。
閉める直前に、化け物と眼が合った。正確に言うと、眼は無かったが、眼が合った気がした。
「はぁっ……はぁっ……怖い……やだよぉ!」
全身の毛穴に、氷を突っ込まれたみたいに怖気が立った。ドアを閉じると、不思議なことに化け物は追ってこない。
(何とかして、手掛かりを探して、ここを出ないと……)
本当は嫌だったが、胸の前に手を置き、深呼吸して落ち着くと、そう消極的に決心した。
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