私の名前は

 ノワールは何も考えられなくなって、叫んだ。咆哮だった。その咆哮は、目の前の怪物に対する死の宣告でもあった。

 気付くとノワールの体毛は、光を全て吸い込んでしまいそうな漆黒に染まっており、目も鮮やかな赤色に変わっていた。

 このように、精神が肉体に干渉して起こる変化は、獣人族ルナーならば誰でも起こること……などということは無く、異常の一言に尽きた。

 異常な光景は、周辺の空間にまで及んでいた。ノワール本人と、その周辺は蜃気楼が現れたかのように二重になったり、バチバチと電撃が走っていた。


 ノワールは変化があってすぐに素早く跳躍……いや、空間を超越したかのように化物の頭上に現れると、クラウスの剣を振り下ろし、その首を一刀のもとに切り落とした。

 化物だって、きっと理解が追い付かなかっただろうが、有り体に言うと、それで終わりだった。


 勝負の決着はあっけなかったが、気持ちの決着についてはそうでもなかった。ノワールは叫びながら化物を細切れにし始めた。

 仇敵の死体を切り刻むことで、実際に気が済むわけでは無かったが、ノワールが虚しくなるまで、その作業は続けられた。

 そうした後に、クラウスのそばに近づくと、彼のお陰で無傷だった赤ん坊を受け取って膝に乗せ、ただ呆然と寄り添うように座った。


「これは一体……? クラウスと……女の子、か?」

 ややあって、右手に細剣を携えた、やや白髪交じりの紳士が走り寄ると、状況を確認しながら言った。

「クラウス……やられたのか? お前ほどの剣士が……」

「必ず弔いに来るからな。少しだけ待っていてくれよ」

 この紳士はクラウスの知人らしく、彼を道の端に優しく運び寝かせると、目を閉じて簡単に祈り、そう言った。

「どうやら女の子と赤ん坊を守って……か? しかしこの巨大な化け物の残骸は……? 全く状況が掴めんな」

 紳士は目の前に広がる奇妙な状況を、理解しようとするが叶わない。

「……とりあえず、ここは危険だ。君、ほら一緒においで、私の屋敷に来なさい」

 自失して茫然となっていたノワールは、言われるがままに着いていくことになった。


「君は? ……君があの巨大な奴をやったのか?」

「……」

「ははっ、まさかな。いや、ありえない。クラウスが差し違えてでも退治したのだろう」

 道すがら歩きながら紳士は問うが、ただ黙って視線を落とす少女を見て結論付けた。

「私はエリクという、この先の屋敷に住んでいる、領主のおじいちゃんだよ」

 エリクは、クラウスよりも子供の扱いには自信があったが、全くもって相手にされていなかった。また、ミントグラスは彼の持つ領内だから、見覚えのない子供がどこから来たのか不思議だった。

「お嬢ちゃん、お家はどこなんだい? お母さんは一緒じゃなかったの?」

「……わからない」

「その赤ん坊は?」

「……知らない!」

 問答に既視感を感じつつも、もううんざりだという反応を返すノワール。

「あらら、記憶喪失かな? じゃあ名前も分からないの?」

 知らないことだらけだったが、名前だけは覚えがあった。答えなければならなかった。

「……名前」

「私の名前は……」

「……ノワール!」

 ずっと手に持っていた、クラウスの形見になった剣を見つめ、握りしめて、高らかに宣言した。

「私の名前は、ノワール・アールグレイ!」

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