【D.C.1821】富豪門を出でず、お嬢様千里を行く
グレイス一家
アエスヴェルムの東隣にあたる大都市、ブーケガルニ。
商都として栄えているこの港町は、蜘蛛の巣のように張った水路へ沿って、労働者は外側へ、富豪は中央へと放射状に区画分けされた。
外側の商区には、生鮮食品を扱う市場や、酒場、その他の取引場等が昼夜問わずの賑わいを見せている。
しんと静まり返った夜の中央区では、そんな喧騒とは無縁だとでも言うかのように、波が堤防にあたる音だけが聞こえていた。
「たぁーのもぉー!」
静寂をぶち破り、ある屋敷の巨大な門扉の前で尋ねる、小さな影があった。
「うるせぇなー! 何だお前は! グレイスの旦那はお前のようなガキの乞食に金は出さねーよ! 帰れ帰れ!」
屈強な、しかし身なりは一通り整えられた男が、守衛の部屋からヌッと出て応対した。
「こ、こじっ⁉ わー! やめてよ!」
その屈強に片手で首根っこを持たれ、屋敷から遠ざけられる小さな影。門番が部屋に引っ込むと、懲りずに言った。
「むぅ、やっぱり正面からじゃダメかー……いや、夜に来たのがダメだったのかな」
「でも、大陸で最強と謳われているミリカ令嬢、どうしても戦力として迎えたいよね!」
ブーケガルニは先の大厄災に於いて、被害は比較的に軽微だった。
襲撃の後日、「俺は魔物に殺される直前で、ドレス姿の、美しいルナーに助けられた」とか「グレイスの次女が、一人で魔族の大群を退けているのを見た」とかいう噂が出た。
グレイス家当主は商売に使えるものだったら何だって使う人物だったが、その噂は突拍子も信ぴょう性も無さ過ぎて、使いようが無いだろうと判断し、捨て置いた。
しかし、世界一の諜報組織は目敏かった。
影は、おしりに着いた砂をはたいて落とすと、黒い三角耳型のフードを目深に被って、どこかへと走り去った。
「世界最強の令嬢……どんな人なんだろう、やっぱり気品溢れる美人のお姉さんなのかな~。いつもニコニコしてて、何しても怒らなそう! もしかしたら私のお姉ちゃんになってくれるかも!」
影は、まだ見ぬ令嬢を想像しては、勝手に心躍らせると、銀の尻尾をはためかせて夜の闇を裂いた。
その頃、屋敷の内部でも、事件が起こっていた。
先ほど玄関で悶着があったその屋敷は、商業の都市ブーケガルニの中でも、1~2を争う豪商である当主ラニエリ・グレイスの所有だった。
月明りの射し込む一室で、グレイスの娘が二人、寄り添っていた。
1人は体形と不釣り合いな、大きくて豪華なベッドに横たわる幼い少女。もう一人はその傍らに座る、煌びやかな衣装を全身に着飾った、長身の美女だった。
2人とも上品なワインレッドの毛色で、狐の因子を持つルナーであり、ツンと立った耳と、ふわふわの尻尾が特徴的だった。
「お姉様、もう少し、待っていてくださいませ……」
長身の美女ミリカが、病床の少女ピアニを撫でながら言った。
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