第7話 世界が変わりはじめる前に
女神はアレッシアの額に人さし指を軽く押し当て、わずかだが笑った……のかもしれない。確認する前に踵を返したので、見間違いも否めなかった。
大きく空いた背中までほくろひとつなく、歩く姿さえ見惚れてしまう自分がなんだか悔しい。
女神が座に引き返すと巫女長が杖で床を叩き、そこでやっとアレッシアは顔を拭う。
隣には四人が並んでいる。人間二人に、獣人一人、あとはおそらくヒトと思われるが……フードを目深に被り姿を隠した人物が一人。
いずれも全員が年上で、アレッシアが一番子供だ。誰も彼も自信をみなぎらせていたから、せめて恥ずかしくないよう背筋を正す。
「ここに女神の神託はくだりました」
巫女長ソフィアの杖から光が溢れ舞い出す。
「試練へ挑むはカークルハイのディオゲネス」
「は、我が身はここに」
候補の一人が返事をすれば、青白い発光体が飛び交い揺れて男性を囲む。跪けば右手首に金の腕輪が嵌まった。
「マルマーの巫女トリュファイナ、誇り高き人狼の狩人ギーザ、星河を旅する名もなき者」
それぞれが跪けば右手に腕輪が嵌まっていく。はじめて目の当たりにする神秘の発露にアレッシアの目は奪われるが、いざ自分の番を迎えて慌てた。
「……何者でもないものアレッシア」
返事をして跪いた。キラキラと輝く光の粒子はあたたかいのに粒が肌に当たる度に冷たく、アレッシア腕にも金の腕輪が嵌まった。魔法を織りなした巫女長は、これが試練に挑む候補者の証だと告げた。
「腕輪がそなたたちが試練へ挑む者である証。試練を一つ突破する毎に腕輪が色を成して行くでしょう。その輝きを持って神々への忠誠を示し、神への道を辿りなさい。そうして生まれる運命の神を我らは歓迎するでしょう」
四人が頭を下げ、アレッシアも一歩遅れて頭を垂れた。
公の場に出たことのない彼女は見よう見まねで精一杯だが、それゆえに他の人々に気を取られる必要がない。
「試練のはじまりを運命を司る神の巫女の名において宣言します。戦神ロアよ、どうぞ我らの勇気をすべての命の始まりたる神へお届けください」
「儀の開始、しかと見届けた。俺の目と声を介し主神に報せると約束しよう」
新たな後継の登場に興味を抱く者、舌打ちする者、観察を続ける者、見守る者と多種多様だ。
巫女長ソフィアが解散を告げれば各々女神の間を後にするも、このときアレッシアだけが呼び止められた。
いざ対峙すれば巫女長はすらりと背が高い。長い髪を高く結い、敬愛する神に習って一輪の花を刺している。目には深い知性を宿した凜々しい人だが、女性特有の柔らかさもある。
「我が神は試練へ参加するかを尋ねました。貴女はそれに応えましたが、肝心の後継争いについてなにを知っていますか」
「えっと、なにも……」
アレッシアは前の自分の経緯もあって巫女長ソフィアにも苦手意識がある。だがいざこうして話してみれば、尊大な態度は公の場専用のものらしい。怖さは形を潜めているが、厳しく眉根を寄せている。深いため息はアレッシアに身をすくませたが、出たのはもう幾分柔らかい言葉だ。
「でしょうね。知っていたら、こっそり儀を覗こうなんてしないだろうから」
頭痛を堪える面持ちだった。
「今回は我が女神の導きもあったのでしょうから見逃してあげましょう。ですが、いくら後継殿といえども次はありません。厳しい罰が待っていると思いなさい」
「はい、すみませんでした」
「試練についてはわたくしが説明しても良いのですが……アレッシア、貴女はこのまま神殿に残るつもりはありますか」
「残るって、どういうことでしょうか」
「我が神の力を継承する五名の候補者が揃ったのです。このまま祝いの席を設け、その後はこちらの用意した住まいへ移ってもらう必要がありますが、貴女はそれすらも知らないでしょう?」
当然初耳だ。なるつもりのなかった後継者候補なのだから、孤児院に帰れないのは困る。頭も追いつかない中、知らないところに泊まるのも御免だった。
巫女長はそんなアレッシアの事情を汲んでいた。
「本来ならばもはや帰らせるべきではないのですが……」
「か、帰ります。帰らせてくれませんか! 今日のことを口外するのがだめなら、変なことはなにも言わないって約束しますから!」
「口外され困るものはありません。ただ公平性を期すための問題ですが、貴女は他の者にも比べまだ子供。本格的に始まる前ならば、いくらか知識を授けても良いでしょう」
特別に家へ帰る許可を出し、アレッシアは安堵で頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
「礼は不要です。貴女はもはや神の試練に挑む子のひとりなのだから、巫女長として必要なものを与えるのは当然です」
「それでも助かります。あの、でも……なんですけど」
「なんですか。質問があるなら簡潔に、わかりやすく言いなさい」
「巫女長さま、どうして私の名前を知っているのでしょうか。巫女長さまだけじゃなくて、女神さまも……」
たいした返事は期待していなかった。神だから当然と終わると投げた質問だが、巫女長ソフィアの反応は違う。なぜか戸惑いを露わにするのだが、アレッシアの様子になにかを得心し、落ち着きを取り戻した。
「……貴女の住まいは、我が女神直下の管轄です。貴女達が捧げる祈り、愛、届いていないとお思いですか」
それを聞いて複雑になってしまった。少なくともいまのアレッシアは神に対する敬愛など微塵もないし、さらには男神ロアのせいで急降下中だ。
女神の問いに頷いたのだって、命を守りたいのが半分で、もう半分は……。
悩むアレッシアと神妙な様子を隠せない巫女長ソフィア。両者に割り込んだのは孤児院の神官長だった。
「失礼いたします。巫女長さま、お呼びでございましょうか」
「よく来ました。経緯については聞いていますね」
「つい先ほどでございますが、この耳にしかと」
「ではこのままアレッシアへ初めの導きを任せます。なにもしらぬこの子へ、試練へ挑むための知識を与えなさい」
「喜んでお受けいたしましょう」
こうしてアレッシアは再び神官長預かりになったのだが、戻りの馬車は説教の嵐だ。
特に口を酸っぱくしたのは、誰よりも被害を被ったカリトンだ。自らの過失もあるとはいえ、アレッシアが突然消え、やっと見つければ男神ロアに反抗し殴りかかっていた。
この時の心境をカリトンはこう語る。
「神官長様に合わせる顔がないあまり死を覚悟するしかなかった。この身ひとつで贖えるかどうかすらわからない。あれほど冷や汗をかいたのはただの人間だった頃、試練で物資を奪われ、丸腰で腹を空かせた豹と相対したとき以来だ」
このときは勝手にいなくなり、あまつさえ戦神に逆らった保護対象をひたすら叱りつけていた。もはや神になるかもしれない者を叱りつけるなど、普通ならば到底できない所業だが、アレッシアが変わらずカリトンに笑いかけるせいでこうなっている。
それに神官長を除き、他の神官は彼女におののいて距離を取ってしまっている。これまで面倒を見てきた情が、ここで己が言わねば後がないと腹を括ったのだった。
そのアレッシアはカリトンの説教が終わると、神官長の隣でこんな質問をした。
「神官長さま。私はもう孤児院に戻れないのですか?」
「そうさな、お前は我らが神の後継として選ばれてしまった。試練に当たって知識を授ける間は皆と過ごせるだろうが、そのあとはあそこを出る必要がある。すべては試練のためにな」
「その試練はなにをすればいいのでしょうか」
「それは後からゆっくり教えよう」
「じゃあ最後にもう一つ、愛し子ってなんですか」
女神に神殿に到着してから妙に聞く言葉だ。
アレッシアは純粋な疑問で尋ねたつもりだったが、なぜだろう。これに神官長は少し躊躇い……ゆっくりとカリトンを見た。
「申し訳ありません。ペイサンドロスめが余計なことを」
「……いや、よい」
どうして二人とも神妙な顔つきになるのだろう。一切がわからないアレッシアは神官長の言葉を待つのだが、期待する返事は返ってこない。
「アレッシア。それは、お前自身の中に答えがあるはずだよ」
「もしかしてそれも記憶に関係しているとか? だったらせめてヒントだけでも……」
「いまは初めての場所に赴き疲れているだろう。まずは皆に元気な顔を見せてやりなさい」
そこで思い出したかのように表情を変えた。
少し寂しげな、ばつが悪そうな表情で仲間の身を案じたのである。
「五人は神殿で元気でやっていけそうですか?」
出ていくときより人数が減っている。少女達の今後を案じるアレッシアに神官長はじんわりと笑顔を作った。
「無事、引き渡しが完了した。寂しく思うかもしれないが心配はない。あそこにはかつて同じように育った先達達がいるから、きっとあの子達にもよくしてくれる」
先輩達がいるとは知らなかったが、神官長の言葉に偽りはなさそうだ。深い息を吐くとずるりと姿勢を崩すのだが、カリトンの叱咤も耳に入らなかった。
吹っ飛んでいた身体の痛み、疲れがやっとまともに知覚されたのだ。
疲労のピークはエレンシア達の顔を見た途端やってきて、手の治療を済ませるとそのまま自室のベッドに倒れ込むように沈んだ。
翌朝になると復活は遂げたのだが、真っ先にエレンシアの元へ赴くと手を取った。
「エレンシア、いつかでいいから、ここから出られるようになったら外の世界を一緒にみてみない?」
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