第6話 女神の後継者候補
一発では終わらない。二発、三発とアレッシアは拳を打ち込むが、相手がまるで痛がらないのが腹が立って仕方がない。涙に留まらず鼻水を流すアレッシアを、戦神と名乗った青年は珍獣でも眺める目で観察し続ける。
アレッシア的に最後は特に良いのが入ったつもりだが、息切れをおこし、いざ終わるとなれば相手には痣ひとつ入っていない。
「なんでよー! ふざけるなーー!!」
この男はフォークひとつ振る程度の軽さでアレッシアを殺したのに、全身全霊で挑んでもなにひとつ敵わない。吠え続ける小動物に対し、ロアは面倒くさそうに「あー」と呟く。
「つまりお前は、まったくもって理解し難いことに、俺があの女を処分したことに対して怒っているんだな?」
「処分っていうなああああ……」
処分なんて言葉で扱われていいような人生じゃなかった。そりゃあ特に優れた人間でもなかったけれど、まともに働き真っ当に生きていた一人の人間だったはずだ。ずず、と洟を啜るアレッシアをおかしそうに見るロアは突如手を離すと、彼女の体は地面に落下する。しかもバランスを取りそこねてこけると、ぶっと笑いを我慢する声を漏らした。
「そんじゃあはい、俺が悪かった」
「え?」
「悪かった悪かった、ごめん。スミマセンデシタ。じゃこれで終わり」
舐められている。
立ち上がったアレッシアが再び男に殴りかかろうとすれば、手の平で額を抑えられてしまう。たったそれだけなのにまるで敵わない。腕の長さに差があるせいでぎりぎり男に腕が届かないのだ。
「謝ったんだからいいだろ。神に謝らせておいて傲慢じゃないか?」
「傲慢なのはあんたのほうだ、この人でなし!」
「酷い言いようだ。俺は人でなしになるのか?」
疑問に首を傾げ、そのまま視線はあらぬ方向に逸れる。
「なあ、お前はどう思う?」
問うた先にはいつのまにか少年が跪いている。
浅黒い肌の少年はカリトンだ。いつの間にそこにいたのか、アレッシアはまったく気付かなかった。貝のように口を閉ざしていた少年は、ロアに問われたことで初めて発言を許された。
「ロア様はロア様の役目をこなされただけかと存じます」
「そうだよなあ? にしては、この生き物は俺がまるで悪者のようにびぃびぃ泣き喚く。面白いから放っておいても構わないが、いつまでもこうだと困るな」
「面目次第もございません。なにぶん外に出たことのない世間知らず。弁明すべくもございませぬが、我が神の管轄される院でもその者は異端のため、恥ずかしながら常識を欠いております」
「異端というわりにお前のような戦士がついている。過保護なのは結構だが、お前達は愛し子に教育というものを施さないのか」
「事情がございます」
「まったく、愛し子とはいえ神に狼藉を働いたんだ。普通なら殺してやるところなんだが……」
ロアはアレッシアに視線を戻すも、その目はいまだ濡れている。流れっぱなしの涙や、拭おうともしない鼻水に、なぜか気を良くして笑った。
「まあいいや。庇い立てるための口上を聞くのも面倒くさい」
「庇い立て、などは……」
「するつもりだっただろ? 神殿付きなら仰ぐ主の命は絶対だ」
ただでさえ頭を垂れているカリトンが、さらに深々と頭を垂れるのだが、そんな姿にアレッシアはショックを受けた。彼女にとってカリトンは口喧しく細かい小姑みたいな男だが、同時に戦士であることを誇りに持つ気高い人だ。神と言えど人を人と思わぬ男神に跪いてほしくない。
「カリトン様、こんなやつに頭なんか下げないでください」
たまらず声にして止めたが、カリトンは顔を上げようとしない。どうして誰も彼もろくでもない『神』に従うのか理解できずにいると、固まっていたのはカリトンだけではなかった。
ロアまでもが妙なのだ。こちらは顔を上げ、あらぬ方向を見つめながら眉根を寄せている。先ほどまでアレッシアを揶揄っていた様子は形を潜め、一瞬にして近寄りがたい空気を纏っていた。
「聞いたな」
「はい」
アレッシアはなにも聞いていない。戸惑っているとロアに小脇に抱えられてしまう。物の扱いに目を白黒させるのだが、あろうことかカリトンまで黙ってロアについて来る始末だ。
「は? あ、え?」
「アレッシア、黙っていろ。神殿がお前を呼んでいる」
カリトンは言うものの、またもや状況に理解が追いつかない。青年の腕を解こうにも指一本すらまともに外せず、岩のようにかたい爪にとうとう抵抗を諦めた。なぜなら人を殴るなんて初めての行為は思う以上に身心に負担をかけた。拳は痛みだしているし、全身すでに疲れ切っている。大人しく揺られていたが、ロアが辿ったのは神殿への道であり、その身は再び女神と相対するための間へ運ばれた。
戦神と名乗ったロアの素性に間違いがないと知ったのは、巫女長含めた皆が男に向かって頭を垂れたためだ。
「ほら、お望み通り持ってきたぞ」
ロアが抱えていたものを投げおくと、小さな体にその場の全員が集中した。アレッシアもいきなり後継候補だとかいう四人の中に置かれて声が出ない。その上、いつの間にか周囲には神官以外にも人が揃っている。
ロアは頭を下げられ慣れているのか、巫女長の礼も意に介さなかった。
「それで、なんで俺をわざわざ使いっ走りにした。お使いをやってやったんだから、理由くらい話せよ」
「それは……申し訳ありませんロア様。わたくし共も突如儀を中断せよとのお達しで、ご到着をお待ちしていた次第でございます」
「巫女に返事は期待してない。人の前ならとにかく、俺がいるのだから姿を見せろ」
「言われずともそのつもりだ」
おそらくロア以外はその神の返答を期待していなかったに違いない。
開くはずのなかった垂れ幕が一斉に動き出しすと、巫女長でさえ明らかに狼狽した。
布の向こうは階段になっており、また不思議なことに奥行きがある。アレッシアが垂れ幕の中をうろついたときは段差や壁など見なかったはずなのに、女神のための座の向こう側は白亜の柱と青空が広がっていた。
「我が女神よ!」
驚愕と感嘆を浴びたのは抜けるような白い肌を持つ女だ。
手にはなめらかな材質でできた棒に金の蛇と花が絡みつく杖。アレッシアと似た色の髪は腰元まで流れているが、ところどころ蕾をつけた蔦が絡み、白い花を咲かせ彩りを添えている。理想的なまでに整った顔立ちだが、表情に感情は乗っていなかった。
サンダルには金の飾りがふんだんに施されている。スリットから覗く足が一歩躍り出ると階段を踏んだ。
たったそれだけ、それだけなのに言いようのない寒気をアレッシアは覚える。
『女神』と呼ばれた女はロアに見向きもしなかった。
「お前が近くにいたから声をかけたまで。仕事熱心なせいで余計なことをしてくれたが、これをもって相殺としよう」
「俺は命令に従っただけだ、嫌味は主神に言え」
はじめて顔を合わせた女は毛穴一つなさそうな肌をしている。このなめらかさはどんな手入れをしているのか内心で首を傾げたが、これは極度の緊張を誤魔化すために現実逃避に走った結果なのかもしれない。それほどまともに顔を合わせるのが耐え難かったのだ。
しかし女神は甘えを許さない。
アレッシアの体はひとりでに立ち上がると、指先で顎を持ち上げる女神にされるがままになる。
「……ふむ」
幾度か角度を動かし、あらゆる方向から彼女を眺めた。いったいこの子供のなにが女神の気を止めたのか、周囲は気が気でない様子だが、神の行動を邪魔するなどできない。息を呑み様子を伺っていると、ようやく女神は口を開いたが、紡いだのは巫女長の名だった。
「ソフィア。先ほど五つめを欠いたが、どうやら四つではならぬと我が定めは決まっていたらしい。再び新たなものが現れた」
「…………い、いえ……お待ちくださいませ、なりません。その娘は……」
「知っている。だが、これは避けようがない」
間の抜けた巫女長をよそにアレッシア自由になるも、今度は問いによって縛られた。
「アレッシア」
相手が己の名を知っていると知らず驚愕が広がった。
「お前はここに立つ意味を理解している」
「え、な、なんのことでしょうか」
「嘘は不要だ。先も、いまも。いつ如何なる時もお前は我が民であるため、我が目から逃れることはできない」
勝手に侵入していたことがばれている。ぎくりと身をすくませたが、女神の用件は彼女の勝手を咎めるものではない。
まさか、とアレッシアの脳が警鐘を鳴らすが、すぐさま否定した。
そんなはずはない。『女神の後継』の才があったのは前の自分だ。いまのアレッシアは孤児院の落ちこぼれで、力の発現とやらも未経験だ。なにより前だってそうだが、彼女達は致命的な問題を抱えている。誰よりも神への信仰心に欠けているではないか。
逃げたい。だが女はアレッシアの逃げ道を塞ぐ。
「此度は異例が相次いだ。お前の選抜もまた神々の予想しうるものではなかったが、運命を司るものとして、我はお前も受け入れる用意がある」
「い、いやだ……」
首を振っていた。何故またその言葉を聞かねばならない。
孤児院の現状に不満がないとは言わないが、それでも将来を想ったのは孤児院育ちの『アレッシア』としての己だ。女神の後継に選ばれたいなんて微塵も思ったことはなかった。
青白くなっていく顔を女神は無感動に見下ろす。
きっと一生好きになれない神だ、人殺しの仲間などに屈してたまるかと感じる反面、その内には如何ともしがたい不思議な気持ちがある。
……どうしてだろう、と思う。
どうして、アレッシアはいけ好かないはずの女を前にして、無性に泣きたくて堪らない。
けれど感情に従うのは悔しくて、胸の辺りの服をぎゅっと握りしめる。
「選びなさい。五つの定めに埋まり運命を紡ぐか、それとも歯車から外れ孤独を行くか。我が後継として四人と競い、己が身を持って正しさを証明するかを」
息を呑んだアレッシアと女神の視線がまともに交差する。
悩みに悩んだ末、彼女が導きだした答えは「候補になる」だった。
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