マギヤ・チェ・プロドリェーティ

山船

「シュクジンの虐殺」事件

予期され得たこと

 けたたましく音を立てながら、列車はその黒い車体をシュクジン駅のホームへと滑り込ませていった。この駅から北に伸びる線路は、この国、南方スクラ人王国の東側を大きく縦断する、国家随一の基幹路線といえるものであった。今その終着駅になっているシュクジン駅は、しかし国家にとってのこの路線の重要度に似合わず、かろうじてホームと呼びうるものが存在するくらいの小さな駅だった。

 ホームの上では、揃いの軍服を来た男が20人も並んで敬礼の姿勢を続けていた。その列の端から少しのところに客車の扉は開いて、中から降りてきたのはやはり全く同じ軍服――階級章だけは違うものだったが――を来た男と、その男が引いている紐の先、そこには両手首を縛られた、見たところ軍服ではあるものの男らとは少し違った線をした服に身を包んだ、黒髪の細身の女がいた。引かれる紐はたるんだまま、列車はたった二人の乗客を降ろしてせわしそうにまた駅を出ていった。

 列車が残していった残響音がまだ耳を塞ぐのに、降りてきた上官らしき男はせっかちそうにもう口を開いた。その声が無くなるころには列車の気配はすっかりわからなくなってしまうのだろうと思うと残念だ、とホームで待っていた20人の中の一人は思った。彼にはトヴルトコ・オルリチという名前があった。彼はこのシュクジン駅からそれほど遠くない所に生家を持ち、そしてこの町まで鉄道が開通したときには大いに喜んだ者だった。鉄道とは文明が煙を吐きながら到来し、蒙昧の闇から救ってくれるものなのだ、と。しかし、そのような一個人の感覚は、この場では全く必要とされないものだった。

「敬礼やめ。この女がルジャ・ミレンコヴィチ。事前に通達しておいた通り、からの政治犯だ。上が言うには雷魔法の天才らしい。それでだから……いや、こんなところで話して敵に知られたらことだからな、練兵所まで行ってからにするか。列でついて来るように」

トヴルトコは上官とルジャを結ぶその麻縄を見た。取って編んだだけの簡素なそれは、まったく何の変哲もないようで、囚人を繋ぎ止めておくためのものだとするにはあまりにも貧弱なように見えた。表面には明らかに何のコーティングも無い。もちろん難燃加工も防刃処理も反魔術メッキアンチ・マギヤも無い。もしかしたら、上官はひょっとしてこの女が道中で逃げ出してくれればあとは面倒が無くて済むとでも思っていたのかもしれない。残念ながらそうはならず、22人はわずか一時間ほどの歩行によって練兵所までたどり着いてしまった。

 ルジャ・ミレンコヴィチという女はつまらない人間だ、というのかトヴルトコの第一印象だった。ルジャはあまりにも粛々と練兵所内の作戦室にまで大人しく引っ張られてきたようにトヴルトコの目には見えた。囚人というものは、もっと猛犬のように隙あらば逃走を図ったり、あるいはあらゆる気力を喪失して鞭打たれることで初めてまともに動くようになったりするものではないのかと、トヴルトコはそんな偏見を持っていた。そこから全く外れるルジャは想像の内側の凡夫だ、とトヴルトコは思った。上官は何をそんなに彼女に労力を割く必要を見出しているのかわからないまま、22人が入ってひどく狭苦しくなった作戦室の端で、上官は一人だけ椅子に座って状況説明を始めた。

 ルジャはどうやら恩赦により解放されるであろう政治犯、だったらしい。前王は去年お隠れになり、そしてあと一ヶ月もしないうちに新王が即位すれば、新王はその徳を示すために恩赦を行わないわけにはいかない。そしてそうなればルジャや他の政治犯らは無傷で解放されてしまう。その前に労役を科してやれ、ということでこんな南の果てまで連れて来られたそうだ。列車でも首都からは半日ほどかかる。普通の労働を科すだけであればこんなところでは割に合わないのだろう、ルジャの他に連れてくる予定の政治犯はいない、と上官は言っていた。

 それで、ではルジャをどうしてやるのかというと、駅でも上官は言っていたが、彼女は雷魔法の天才だからそれを生かしてやるのだという。具体的には南の分離主義者テロリスト集団にぶつける、と。大いなる犠牲を払って正当に得た南方スクラ人王国の不可分な領土の一体性を破壊し、王国をずたずたに引き裂かんとする南の分離主義者テロリストに、同じ南方スクラ民族であるにもかかわらず犠牲を払わずにしかも王国を裏切ったの人間をぶつけるというのはまさに一挙両得と言うべきものだ。そう上官は自慢気に言っていた。

 襲撃は3日後だ、解散、と上官は話をそれで断ち切って終わらせ、ルジャを放り込む部屋を用意するために部屋から出ていった。それに続いてぞろぞろと人も出ていき、部屋に残ったのは、ルジャ、トヴルトコ、他に3人の隊員、それだけだった。いつの間にか、ルジャの両手首は断とうにも断てまい鉄の手錠が付けられていた。

 5人が残った部屋では、しばらく誰も口を開かないのに、外から入ってくる雑音が静寂を壊してしまっていて、何をするにも良いタイミングというものが無いようにトヴルトコには思えた。

 第一、上官は目付けも置かずにルジャをこの部屋に放置していくとは。やはりサボタージュなのか、それともどうせ誰かルジャに興味を持って残るだろうという計算ずくか、どちらにせよちょっとした報告と事務手続きを終えたら上官は戻ってくるはずだ。そうなればあとは襲撃まで彼女は幽閉され、話もできまい。しかし動けない。

 その空気を粉砕したのは、トヴルトコにとってはまったく意外なことだったが、ルジャその人だった。それまで目を伏せていた彼女が突然トヴルトコを含む4人の方に視線を刺したのだ。彼女は一人ずつ睨めつけるように素早くその眼を動かし、トヴルトコとも視線が合ったと思えば、また床へと目を向けてしまった。何だったのかはわからなかったが、何であれ、トヴルトコにとり話を始める理由にするには十分なことだった。

の人間だと言ったな。ルジャ……ええと」

「ミレンコヴィチ」

割れた磁器のようなざらつきを持った声で、ルジャはそう言った。そこに何か虜囚の身としての怯えだとか媚びだとかを見出すものだとばかり思っていたトヴルトコは、その呆れのような雰囲気が滲んだ無表情な声音に少し面食らった。

「上官はお前が雷魔法の天才だと言っていた……本当に天才なのかどうかはどうでもいい。もし才能がなければ分離主義者テロリストを前に死ぬのはお前だ。俺だって、それにここにいる他の奴らだって、全員魔法の腕には覚えがある。逃げ出してやろうなんて思うなよ」

ルジャは何も言わなかった。トヴルトコが冷静なら、ルジャは単に面倒くさがっていたのだということを見間違えるはずもなかったが、今のトヴルトコはルジャに対して怯えと言うに値する感情を持っていた。だからトヴルトコはルジャが彼らの脅しに屈したように見て取って、勝ち誇った笑みを浮かべた。そして次の瞬間にはその笑みは消えた。ルジャの顔に、杖の石突を蒸したじゃが芋に突き刺す人を見たような顔が浮かんでいたのを、彼のその双眸は捉えたからだった。

 トヴルトコとその仲間は全員魔法の腕に覚えがある、というのは真実だった。もしルジャが逃げようとしたところで多勢に無勢となるのも自明のことだった。だがしかし、それは今ルジャが突然トヴルトコを殺害する可能性を排除できるものではなかった。

「俺らが寛大に振る舞ってやることに感謝するんだな。それより……そうだ、お前はの人間だろう、使ってる魔法も西の流派だろ」

「……ええ。それが?」

「上官がいつ戻って来るかもわからないんだ、暇なんだよ。東側の俺たちの魔法との違いは何だ? 言ってみろ」

とにかくトヴルトコはやたらに話しかけ続けた。話して気が逸れている間ならその死の予感と目を合わせずに済む。ルジャはいかにも面倒くさそうに、今から砂浜に穴を掘ってから埋め戻せと言われたかのような顔をしたので、トヴルトコはさらに彼女を急かした。それでようやくルジャは話を始めた。

「……西の魔法の違いは、ほとんど無いと言っても良いわ。だから話せることも無いの。つまらないと思うけど、それが真実よ」

「ほとんど、ってことは何かはあるんだろ。言ってみろ」

「しつこいわね。私が今から学者みたいな意味のわからないことをまくし立てれば満足かしら?」

「舐めてもらっちゃ困るな、俺らは全員中学校まで出てるんだぜ?」

ルジャはトヴルトコのこの発言が何を意図していたのか測りかねていた。トヴルトコは知らなかったことなのだが、南と北では以外にも教育制度に比較的大きな隔たりがあったのだった。トヴルトコが生まれ育った南方スクラ人王国では義務教育は4年間のみであった――すなわち、さらに4年をかけて中学校を出たというのは学問を進められる意志を持っていたということを意味した――のに対し、ルジャが市民権を持っていたことフォタム共和国においては義務教育は10年間取られていた。だからルジャにとっては中学校を出るというのは、ごく当たり前のこととまでは言えなくとも堂々と自慢するようなこととしては映らないことだった。

 とはいえ、わざわざ火に油を注ぐ必要もあるまい、と思ってルジャはそこに言及しなかった。ここに至っては、むしろ説明を拒むほうが何か言うよりも面倒であるように思われて、トヴルトコの取り組みはやっと実を結んだと言える状況になった。

「私だって詳しく知っているわけではないわ。その範囲で言うと」

ルジャはそこまで言って、一度発言を止めた。トヴルトコだけでなく、その場にいる全員がルジャの言うのを待っている。捕囚にもかかわらず、実際の立場としてはどちらが上だかわからない、とルジャは思った。

「大雑把に……まず、フォタム共和国のサカロウォ人とベラ人は大半が西方の流派に従っていて、のセグラブ人は大半が東方の流派に従っている、それはいいわね」

セグラブ人という民族は存在しない。”サカロウォ人”も”ベラ人”も含めてすべて南方スクラ民族だ。トヴルトコは生まれてこの方ずっとそう教わってきたし、それが真実だと心の底から信じていた。そして、の人間は皆、逆に南方スクラ民族というものが存在しない、という大嘘を信奉しているのも知っていた。だからルジャのこの発言も、すぐにそれぞれが存在しない民族を示しているものだと理解できた。南方スクラ民族の統一の夢という大義のために一兵卒となったトヴルトコにとって、それは許容し難い妄言であった。顔に表れないようにする方が無理というものだ、とばかりに思い切り眉根を寄せた。

それを見たルジャの対応は、単に無視するだけというものであった。

「それで、特に違いを把握していないのなら東方の流派の家なのでしょうね。私はベラ人で西方の流派に従っているわ。その前提のもとで知っていることなら話せるわ。それでいいかしら?」

トヴルトコは少しばかり逡巡してから、しぶしぶうなずいた。

「一言でまとめてしまえば、東西の違いは魔法の発生原理の違いとして見ることができるわ。東方の流儀では、感情の不満足から。そして西方の流儀では、感情の満足から」

「……つまり?」

「私だって学者ではないもの、詳しいことはわからないわ。今のだって聞きかじりよ。でも、どうしてもって言うなら……そうね、多分実演するのが早いでしょうね。どう、私の手錠これ、外してみる気は無いかしら?」

「誰がそんな口車に乗せられるんだ。大人しく捕まえられていろ」

ルジャが鼻で笑う音が小さく聞こえて、それから沈黙が訪れた。その沈黙はしばらく続いたし、トヴルトコを含むその場にいた誰もあえて沈黙を破ろうとはしなかった。

 待ちくたびれるほどの時間が経ってから、トヴルトコの上官はようやく部屋に戻ってきた。特に待っておく理由も無いことをトヴルトコが思い出したのもその時で、上官の手前嫌な顔はできなかったが、理解できないの手先のために無為な時間を過ごした、という後悔をするところだった。

「まだいたのか。ちょうどいい、ルジャ・ミレンコヴィチを一番でかい訓練場まで連れて行け。どの程度の能力があるか測らねば作戦も立てられんのに、今空いてるのがそこしか無いんだ」

と言われたので、の手先のためだけに後悔する必要は無くなったが。

 一番でかい訓練場こと射撃訓練場は、外周部に少し小高くされた土塁のような部分を持つ、広い屋外グラウンドだった。建物のある側の堤にトヴルトコたちと上官は立ち、その反対側、森に面する方の堤に射撃の的がいくつか並べて置かれている。そのちょうど中間、人ひとりを立たせておくにはやたら広いように思える平たい部分、そのど真ん中にこちらに背を向けて標的の方を向いたルジャが立たされていた。見晴らしはもちろん非常に良い。よほど高速で移動できなければ、逃げようと思っても蜂の巣だ。

 上官は堤の上に立ったまま、器用に魔法を操作してルジャの手錠の鎖をきれいに切断した。ルジャは手首に重い腕輪を残すものの、その両腕は自由の身となった。それとほぼ同時に、トヴルトコたちとルジャの間、どちらかといえばルジャに近いあたりから、両者を隔てるようにして青灰色の膜が地面から吹き上がっていった。訓練場の建物よりも遥かに高くまで薄いカーテンを作り上げたそれは、簡単な作りではあったものの立派な反魔術膜アンチ・マギヤで、トヴルトコが行使できる程度の魔法ではそれを通り抜けては10 cmと殺傷力を維持できない、それなりに強力なものだと記憶されるものだった。

 ルジャは静かに肘を曲げたまま右腕を上げ、そして前に物を投げつけるように振り下ろした。ずだん、という音と共にか細い白光がその手の始点と標的をまっすぐ結び、的の中心には焦げた穴が開いた。上官はそれを双眼鏡で確認して、小さくうなずいた。

 ルジャから標的までは目算で200 mほどだった。「天才」と呼ばれるからには、この程度の距離はわけなく射抜けなければ話にならない。トヴルトコだって銃を持てば10発に7発はできるのだ。もう一度やってみろ、と上官が叫んで、ルジャは全く同じようにもう一度的を貫いた。

「戦力としては十分だろうね。双眼鏡で見るまでもない。本来ならもう帰っても良いんだが……せっかくだ。『天才』様の実力を拝んでやろう」

上官は、ルジャには聞こえない程度の声の大きさを狙ってそう言った。トヴルトコはその意図を掴みかねたが、問うよりも先に、その答えは上官からすぐに与えられた。

「ルジャ・ミレンコヴィチ! 次は可能な限り遠くの標的に命中させてみろ! 結果次第で待遇も変えてやる!」

上官のがなり声が響いた。ルジャは上官の最初の呼びかけでこちらに振り向いたが、トヴルトコはその表情までは読み取れなかった。というのも、彼女の顔は少なくとも予期していたような憎々しげなものではなく、しかしその詳細を把握するにはあまりにも遠すぎたし、時間も足りなかった。

 ルジャはまた、先程と同じ様に右腕を上げた。ただし、今度ははっきりと肘を伸ばして。それから左腕がゆるやかに上げられて、その指先は標的の方へ向いた。

「進歩!」

ルジャが声を轟かせた。それから少しかかって、彼女の周りの空間が不合理に歪められた。そして、その歪みの中心には彼女の右手の指先があって、そこには何もないのに、陽炎の源たる太陽があるかのような、あるいは雷雲のでもあるかのような、そうでなければ説明が付かないような気持ちにトヴルトコはなっていた。1分ばかりそれが続いて――実際にはそれほど長く保持されていたわけでもないが、少なくともトヴルトコは1分以上かかったに違いないと思った――唐突に腕が振り下ろされた。

「万歳!」

どこを通ったのかも知れないような閃光と、それを認識するやいなや爆轟のような音があった。しかし、標的は見たところどれも健在、流石に外すこともあるか――そう思ったのも束の間、敷地の外の森の木が、10本ほどまとめて倒れたのを見逃すことはできなかった。

 トヴルトコは言いようもなく興奮した。トヴルトコは、いまルジャが立っている場所から一番近い標的、先にルジャが軽く貫いた方の標的を除いてはまともに当てられる自信が無かった。無論それより遠い標的、そこからさらに遠い敷地外の木など、金を積まれようと命中させられるものではない。そんな距離まで、しかもすさまじい威力のものを届けられる人がいた、という事実にトヴルトコは慄いていたし、力への単純な信仰は戦士の身であれば誰でも持っている、それで目を輝かせずにはいられなかった。

 それに、何よりも。今、彼女は何と言ったか? 聞き違えていなければ、「進歩万歳」と、そう言ったのでは無かったか。そのことにトヴルトコはすっかり囚われた。

 彼女と話がしたい。作戦室でやったような、高圧的で敵対的なそれではなくて、進歩を旨とする同志として。そう強烈に思った。その「進歩」への思いで、あんなに強烈ないかづちを放てるのだから、それを言葉に起こせばどれほどになるのか、そう思うだけで期待に胸が踊るというものだ、と。

 トヴルトコは気づいていなかったが、そう高揚していたのは彼だけだった。他の隊員も上官も、その場にいた者はトヴルトコを除いて全員ルジャの魔法の威力に内心まで怯えさせられてしまったので、誰が彼女を宿舎まで連れて行くか、となった時にはトヴルトコが手を挙げるまで、彼以外の全員が重苦しいと思うような沈黙の中にあった。トヴルトコだけは気楽な声色でその役を買って出て、ルジャの手は素直に再び手錠に閉じられた。

 ルジャは来賓用の部屋に入れられるらしい。その許可を取るためと言って上官は行ってしまったし、トヴルトコ以外の隊員も全員そそくさと去ってしまった。そして、このだだっ広い訓練場にはトヴルトコとルジャの2人だけが残された。トヴルトコがルジャの方に振り向くと、彼女は何も無かったかのような平然とした顔をしていたが、その顔の血色の良さだけは激しい力を行使したことを実に雄弁に物語っていた。さて、「進歩万歳」とは実に立場を同じにする物言いであるが、どこから話し口を持とうか……そうトヴルトコが思っているうちに、先にルジャの方から声が出た。

「……名前は知らないけれども、貴方、命が惜しくないのかしら? それとも、大馬鹿でいらっしゃる?」

やけににやついたトヴルトコの顔を咎めてのものだろう、と容易に想像が付いた。それにしたって正面から盾を押し付けるような拒絶をするものだ、とも思ったが、かえって都合が良い。何にせよ話を始めることができる。

「大馬鹿とは失礼な。人を殺して逃げるなら、ここに着くよりも先にやるべきだろう」

「気が変わった、ということもあるでしょう」

「……まあ、その時はその時だ。それより」

トヴルトコは、今さっきルジャがあんな雷轟を生成したところを見たばかりだったにもかかわらず、今彼女に撃ち抜かれて絶命することに、いまいちピントを合わせた想像ができなかった。この国にあって、彼にとって死とは妙に縁遠いもの――彼の生まれた場所と時代の幸運の果実――であった。

「ルジャ・ミレンコヴィチ、お前はさっき魔法を詠唱する時に、確かに『進歩万歳』と言った。そうだな?」

トヴルトコは興奮を隠さずにそう言った。ルジャが眉を下げたのが見えた。

「いいえ」

そして、彼女はそのようにぴしゃりと言い切った。

「そんなはずは無いだろう、確かに言った。なに、面倒はさせまい、俺だって未来を信奉するたちだ。……面倒な奴に捕まった、とでも思ったか」

「ええ。……嘘を吐いて私に取り入ろう、とでも思っているのでしょう。嫌よ」

「嘘なわけあるか。よし、シュクジン駅に初めて列車が来た時に俺がどれだけ喜んだか話して聞かせてやろう。そうだな、あの日のまだ日が昇らないうちから待って……」

「……わかったからやめて頂戴」

ルジャはトヴルトコを小突いて制止した。手錠同士が響かない低音を出しながらぶつかった。トヴルトコは止められなければ本当に何十分か話し続けられる用意があったが、ルジャにもっと面倒くさそうな選択肢を示して折れさせることに成功したいま、あえて本筋に戻らない理由もなかった。

「我々は止まることなく未来へ突き進まなければならないし、未来に進むことがあらゆる困難を跳ね除ける正しき道だ。そうだろう?」

「……ええ、そうね。認めるわ」

「だから、全ての過去の悪習を廃して科学の旗の元に集う、そうだろう」

「ええ……そうだと思うわ。……それでも、貴方の思う『進歩』と私の思う『進歩』、果たして同じ物かしら。私はまだ貴方を信用できない」

このときまで、ルジャにはまともにトヴルトコを信頼するつもりは毛頭なかった。にも進歩主義者はいる、それだけのことに動揺する必要も無く、為すべきことを終えて合法的に帰還すればそれで十分だ、と思っていた。

「……究極の『進歩』は……そうだな」

工業的な進歩なら、簡単に示すことができる。たとえば、どんなに手先の器用な人であろうと、もしあらゆる魔法に熟達した者があろうと、進歩の生み出した機械を使わずにネジを1万個作れと言われれば、1日で終わらせることは実際のところまったく不可能だ。ところが、進歩はそれを可能にする。そして、この場合において一事は万事だった。

 そのような答えを言われていたら、ルジャは内心鼻で笑い、顔の上には人受けの良い笑顔を浮かべるのみでいつものようにトヴルトコを近づいてくる男の一人として無下に扱うことができたに違いない。いやなに、その答えだって誤りというわけではない。しかし、それを科学者や工業に従事する者が言うのならいざしらず、トヴルトコは軍籍の者だったし、ルジャだってそれに近い所属と言える。要するに、それでは響かなかったのだ。

「各々、すべての民族が持つべき祖国を持って、平和のうちに集い、繁栄の品々を作り出すこと……だろうか。そうだろう、どうだ、信用に値するか?」

トヴルトコは純朴な気持ちでそう言った。母なる南方スクラ人が互いに集まって祖国を作る、なんと素晴らしい響きだろうか。そして同じ民族同士が共に働いて繁栄を導く、これよりも良いことが地上に起こり得ようか。トヴルトコは心からそう思ってルジャに言ったのだった。ルジャの反応はといえば、トヴルトコからすると、悪くは無いように見えた。

「……信じましょう」

「そうだろ、そうだろ、俺はお前と同じ所を見てるんだ。協力しようじゃないか、肩を支え合おうじゃないか、もう今この瞬間から俺とお前は同志なんだからな!」

「……そうね。では、何か必要ができたらお言葉に甘えましょうか」

「ああ。、俺はなんだってするさ」

ルジャは手錠を紐で引かれながら、盛り上がり続けるトヴルトコの肩越しに、これから2, 3日の間幽閉されることになる建物を見ていた。落雷の熱気はすでに彼女の顔から立ち去っていたようだった。

 は、ルジャにとっては意外にもなんてことないものだった。というのも、ルジャの魔法の威力がどれほどのものであったかなぞ、あの時に起こった轟音を聞いたならばそれだけで誰でも、だ、という理解を強制させられてしまうのだったし、森まで貫いていったその閃撃がその場にいた全員から異口同音に――トヴルトコだけは新しいおもちゃを買ってもらった子供のような語り口だったが――もたらされれば、いかにもてなして皆殺しの憂き目を避けるかということに視点が集中してしまうのも道理というものであった。

 ルジャは要求すれば屋外にも出られた。トヴルトコの目からさえ数が少なくてしかも質の低いものばかりであったものの、本も読むことができた。二日三日であれば道楽旅行ともそう違うまい待遇に、ルジャは不満の抱きようも無い。そこまで楽観的に捉えていたのはトヴルトコだけであったが、実際のところ即席でできることは単純な解放以外すべて行われていたので、他の者も皆この待遇なら無闇に殺されることも無いだろうと思っていた。そんな状況だったので、結局ルジャの部屋を訪れた者は一人もいなかった。

 それから丸2日と四分の一日ほどが経った。ルジャはこの道楽旅行の最後を飾る一大イベントに赴いていた。すなわち、あの分離主義者テロリストへの襲撃――その拠点は谷の中に隠されていた。そこから丘を一つ挟んだ坂に、同じ制服を着たものばかり、ざっと400人がルジャと共にばらばらと立っていた。その中にはトヴルトコの姿もあり、彼はこの夜半にもかかわらず、冒険が始まる前の緊張にやきもきして、しきりに銃に損傷が無いかとか装備は歪んでいないかとかを調べ回していた。

 あと30分もすれば空は白んでくるだろう。それを待って上官が合図を出し、まだ寝起きですらないあの基地に突撃を仕掛ける。その時に一番槍を担うことになっている人こそルジャであった。これは必死に働かなければ敵の攻撃を一番受けやすいところに置いたまま撤退する――そういう脅しのつもりで立案された作戦だったのだが、今からでもルジャに有利な作戦に変更しないか、という雰囲気が兵の中には満ちていた。意見具申をした者もあったが上官は拒否したらしい、とトヴルトコは聞いた。いまさらになって配置を変えて狡猾な分離主義者テロリストの罠にかかる羽目に陥る事態だけは避けなければならないということなのだろうと思っていた。

 軍事というものは単純なのだ。単純ゆえに恐ろしく難しいのだ。作戦の上では、ルジャを先頭にした騎兵隊が基地の門まで突撃し、ルジャの魔法と騎兵のもたらす本能的恐怖によって、敵の守りに大穴を開け、その後は歩兵が浸透するだけで制圧が完了する――それだけのことだった。

 トヴルトコの頭の中では何度も何度もそのイメージが去来して、時間が経つごとに落ち着いていられないような気持ちになっていった。ずばあんとルジャが雷砲を放ち、馬の嘶きが敵の手元を狂わせ、その後に自分が突入して銃口からは勝利が飛び出す。それ以外のイメージは湧かないのに、それが本当に起こるのか全然確証が持てない。実を言えば、この日はトヴルトコにとって初めての実戦の日でもあった。

 トヴルトコだけではない。との国境からは遠く、かつての戦争の世代はもう去り、分離主義者テロリストも普段は放置されてたまに思い出したかのように今日のような制裁的攻撃が行われる程度の戦闘しか無い、そのような地域の兵たちだったので、その場にいた者のうち8割ほどが今日初めて戦闘に赴く者たちだった。

 時間は容赦してくれない。トヴルトコが気づいた時には空が僅かに明るくなり始めていた。もう数分のうちには号令が響くはずだ。騎馬に引き続いてトヴルトコと何百人もが走るはずだ。閃光を前に彼らも銃身を燃やすはずだ。そう思うと、急に鼓動が強く早く聞こえてくる感触があった。そして、早朝の冷え込んだ空気が四肢を冷やし、やかましくなった心臓もやっと少しばかり落ち着いてきたかという頃だった。

 単純ながら骨身に染みた号令のメロディがラッパから鳴り響いた。その最初の一音でトヴルトコの総身は跳ね、また心臓もあらん限りの力でその脈動を再開したのに、トヴルトコはこの時にはそれを気にする余裕はまったく無かった。

 稜線を超え、駆け下る。トヴルトコの眼は、予想していたよりも手前の位置を馬が行くのを捉えた。その動きは速歩トロットで、走る歩兵との差を付けないようにときおり騎兵らが後ろを振り向くのが見えた。しかしそれも束の間、先頭の人影――きっとルジャだ、とトヴルトコは思った――が腕を振り上げたのを合図に、全頭一気に加速して行ってしまった。敵の基地はすぐそこにあった。そしてトヴルトコは、

「あっははは、はーっはははっ!」

ルジャの笑い声が、薄明の、磨かれた彫像のような清らかな明るさの中に響き渡るのを聞いた。

「共和国! 万歳!」

もう一つの叫び声と雷轟がそれに続いた。トヴルトコは危うく転びそうになるほどの揺れを感じ、その視線の先にもうもうと上がる煙を見た――耳を疑いながら。

「自由に! 幸あれ! ベラ民族に! 栄光あれ!」

鋭い爆発に続く鈍い揺れがさらに二度ほどあった。馬の隙間から見えるその先の基地の入り口はもうすっかり原型を留めていなかった。

「ほらほら、元凶はここ! 暴力で正しきを為すために組織に集っているのでしょう、攻撃してくる女一人など簡単に殺せますよねぇ! まあ殺せなくても仕方ないんだけども! あーっはっはっははは!」

ルジャが一人で大笑いしながらまた一発、辺り一帯を揺らす光爆を叩きつけていった。トヴルトコはいつの間にか前を行っていたはずの騎兵に追いついてしまって、というよりは騎兵らが足を止めていることに気がついて、彼も息を切らしながら直下の地面に錨を下ろすように足を突き刺して止まった。

 トヴルトコはまるでトレーラーの荷台にいるかのように感じていた。ルジャがあまりにも地面を揺らすからだった。ルジャがあまりにもいかづちを撒き散らすからだった。ルジャが、あまりにも残虐に、破壊の嵐を弱々しい朝日の中で振り回しているからだった。風が吹くと汗が冷やされて、トヴルトコは急に寒気を覚えた。

 ルジャの笑い声が爆音の隙間から漏れ出続けていた。おそらく、そのうちのいくらかは何か魔法のための呪文だったのだろうが、そこに区別を付けることはできなかった。その音が耳を間断なく痛めつけていくのと同時に、トヴルトコは結んだルジャとの協力関係が、少なくとも彼女の口上においてまったく保護にされているのに気づかないわけにはいかなくなった。

 ルジャは言っていた。西方の流儀では、魔法は感情の満足からつくられる、と。それであれば――彼女がいま、こんなに優れた雷光を轟かせ続けているのであれば――叫び声のことを、本心でないと思うことはトヴルトコにはどうしてもできなかった。彼女は、王国ではなく共和国を選んだ。南方スクラ人の一体性よりもベラ人としての誇りを優先した。それは彼女の感情の昂りから即座に導かれる事実――そして、トヴルトコの、敵。

 ルジャの笑い声がまた響いてきた。トヴルトコは、もう彼女のことを裏切り者だと思っていた。

「魔女め」

そう言ったのはトヴルトコではなかったはずだが、彼はその言葉が自分の口を突いて出たという錯覚に囚われた。それも次の瞬間には整わされた。不意に、彼女が練兵場で叫んだ言葉、『進歩万歳』――それを思い出したからだった。

 自由と進歩、いやしくも現代の先進的な思想を持つ国と自称するのであれば、その要件が無くては話にならないだろう。それはトヴルトコの愛するものであったし、ルジャも叫んでいた。叫んでいることの意味は、確かにトヴルトコの中に説明付けられていた。確実に、同じ理念を共有できる。そのことを拒否するのは、しかし、今この瞬間では全然難しいことではなかった。頭の中を憎しみで塗りつぶせば、それで良いのだから。

 トヴルトコは背中に背負っていたライフル銃を構えた。驚くほどに落ち着いて装弾が為されて、その銃口はまっすぐ、

「魔女め……ルジャ・ミレンコヴィチ……裏切り者は……滅びろ!」

彼女に向けられた。

 銃口は光った。撃ち出された銃弾はトヴルトコの魔法の力を受けて空中にあってさえさらに加速し、ルジャへと突進し――彼女の少し手前でその軌道が捻じ曲げられ、彼女に当たることはなかった。それから銃弾は虚空で幼子のように爆発した。ルジャはそのことをかけらほども気にしていないようだったので、トヴルトコの気にますます障った。その気も、もう一度銃口を向けるころには溶けて消滅してしまっていた。

 土埃が辺りを覆い尽くしていく中で、トヴルトコはルジャの姿も見失った。その声と、空気と地面の震えが彼女の暴力の存在を日の影のように示していたが、それも突然収まった。土埃が晴れたときには彼女は無く、ただ徹底的に破壊し尽くされた、建物の残骸と呼ぶにも躊躇があるような、しかし遺跡にしてはあまりにも焼け跡の新しくて焦げ臭いもの、それだけがそこにはあった。

 魔女の脅威はすっかり去った。去ってしまった。トヴルトコは一歩を踏み出して、ざくりと地面が鳴るのを聞き逃しそうになった。なんとか耳に入ったそれが、白昼夢のような轟音の大渦からはもう抜け出していることを示していて、突然緊張が終わったことを知ったので彼は尻もちをついてしまった。

 トヴルトコは陽の光を強く感じた。まっすぐ目に入ってきて、顔をそらしてもそこだけは視界が少しの間欠けてしまっていた。

 もしかしたら、彼女ともっと意気投合して協働するためのやり方があったのではないか、という気持ちが彼の脳裏をかすめた。後ろにいた同じ小隊の隊員にどやされて立ち上がったとき、もう彼の頭には何も残っていなかった。

 何か不発弾でもあったのだろう、彼女の置き土産のような爆発がどこかで一回起こり、それを合図にして、呆然としていた兵たちはまた皆ぞろぞろと歩き始めた。

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