さみしい場所が好きという話

hibana

さみしい場所が好きという話

 どうやら夢を見ているらしいな、と気づいたのはその場所で一日かあるいは二日過ごしてからだった。


 私は知らない場所でシャワーを浴び、ベッドで眠り、朝はパンにバターを塗って、そんなことを二度ほど繰り返して不意に『これは夢だ』という風に感じた。こういうのを、明晰夢というのだと思う。


 おそらく夢から覚めることはたやすかろうが、私は自分の睡眠時間を削るわけにはいかなかった。この夢を見ている限り現実の私は眠りを継続しているはずで、それが健全なことであるかどうかは別として、慢性的な睡眠不足を抱えている私にとってはとても大きな問題だったのだ。


 なるべく睡眠時間を伸ばすために、それは記録に挑むような気持ちだったが、私は夢の手綱を握ろうと考えた。


 私が今いる場所は、小綺麗なホテルの一室か、あるいは越してきたばかりのマンションの一室のようなところだった。ホテルだというには、ダイニングキッチンがしっかりしすぎている。マンションだというには、生活感がなさすぎる。少なくとも客をもてなすための家というか、別荘のような雰囲気があった。それとも私の存在が異物すぎて、馴染めていないだけなのだろうか。

 部屋にはさほど違和感はないものの、よくよく考えてみればベッドが部屋の真ん中に堂々とある。ベッドというのはどこかしらが壁とくっついていることが多いように思うが、この部屋のベッドは真ん中だ。それから、この部屋には押し入れなどの収納スペースがない。私が感じた生活感のなさというのはここら辺から来ていると思う。


 床は、つるつるとした石でできていた。壁も、冷たく滑らかな石だ。大きな窓がひとつあり、レースのカーテンがかかっている。窓を開け放てば、涼しい風が吹き込んだ。


 私はコーヒーを淹れ、パンを焼き、それをみながらぼんやりと考える。

 外に出てみよう。いい天気だ、と。






 軽い気持ちで、私は部屋を出た。

 長い長い廊下を先の方まで見ると、いくつも同じようなドアが並んでいる。やはりというか、マンションというよりはホテルに近そうだった。

 ふかふかの赤い絨毯は高級感がある。歩いているうちになんだか気持ちまでふわふわして、不思議な感覚だった。


 エレベーターはない。なぜだか階段だけがやけに安っぽくて、外の光など射しこむ隙もない湿っぽい階段だった。灯りは今にも消えそうな蛍光灯で、避難口誘導灯の方が明るいくらいだ。階段を降りる足音がうるさいくらい遠くまで響いた。昔家族で泊まったビジネスホテルの階段がこんな感じだったと思う。

 どこまでも続く階段を、無心で降り続ける。タン、タン、と足音が響き続ける。冷たく湿った無機質な階段を降り続ける。


 これは私の夢なので、階段に終わりがなくても仕方がないなと思い始めた頃、唐突にそれは終わりを告げた。一階にたどり着いたようだ。


 一階は、エントランスらしい豪華な造りだ。普通、エントランスには人がいてしかるべきだが誰もいない。というかこのホテルには人がいない。気配もない。どこかで物音がするとか、影が動くとか、そういうことが一切ない。

 絨毯の上を歩くと、それこそ何の音もしなかった。完全な無だ。私はその静寂を大切にしながら、ゆっくり出口へと向かう。


 そうして私は途方に暮れる。透明なガラスのドアの向こう側。外はどう見ても水で満たされている。首を傾げてしばらく考えたけれど、“このホテルは水に沈んでいる”という答えしか出なかった。

 ドアに手を触れ、耳をつける。ごうっと何かうごめくような音がした。おそらく水には流れがあって物音を立てているのだろう。それは生きた海の音だった。


 私がいた部屋からは空が見えたので、無心で階段を降り続けているうちにどこかで水平線を超えたのだろうと思われる。このホテルは、どこからか海に沈んでいるのだ。


 瞬きをして、私は踵を返す。ここから外に出ることは出来そうにない。

 エントランスのカウンターから中に入ってみた。おそらく従業員以外立ち入り禁止の場所であろうが、そもそもその従業員すら一人もいない。

 私は、暗い、ほとんど何も見えない道を歩いた。


 大きな扉を両手で開けると、柔らかな光が満ちている。そこは厨房のようだった。

 人の影など一切ないのに、鍋や皿には湯気すら立つ出来たての料理がある。厨房を突っ切ると、食堂だ。バイキングだろうか。様々な料理が、あたたかいままでそこにある。

 皿に載せたスクランブルエッグをちょっとずつ口に運びながら、私はため息を吐く。カトラリーはカチャカチャいって、それ以外の沈黙を際立たせる。

 このたくさんの料理は、私のために用意されたものではない。料理だけじゃなく、全てだ。このホテルの全ては、私のために整えられたものではない。私は異物だ。まるで、遺跡を探索する冒険者だ。

 たぶんホテルはホテルらしくあろうとしているだけで、部外者の私だけが部外者のくせにそれを好き勝手つまみ食いしている。

 それのどこに問題があるかといえば、別にないようにも思う。石油が湧くのは誰のためでもないけれど、誰のためでもない石油で私たちは繁栄している。それとこれとは別かな。私はこのさみしい建物を独り占めしているのだから。


 立ち上がる。

 食堂を抜けると、また暗い廊下があった。一応非常灯がついていて、足元と周辺だけは見えるようだ。そのまま歩いて行くと、三段ほどの階段があったので降りた。金属のドアがある。なんでだか私は、そのドアを見たことがあると思った。

 しばらく考えて、思い出す。

 学校で見た。それも小学校の、プールに向かうドアだった。まさかと思いながらドアを開ける。目に染みるほど、塩素の匂いがした。






 室内プールは、静かに揺れながら光っている。安っぽい蛍光灯がしばらく点灯して、消えて、またしばらくついて、というのを繰り返していた。


 随分と広いな、と私は思う。プールの水は人肌よりは少し低いくらいの温度だった。私は靴を脱ぎ、プールサイドに腰かける。素足を突っ込むと、存外心地よかった。

 そのままごろんと仰向けになり、ぼうっと天井を見る。


 子どもの頃、体育館の天井を見るのが好きだったなと思い出す。あの広くて高い、どこか緩やかにカーブを描く天井。あれを見ていると、自分がどんどん浮かんで天井に近づいていくような気がして、妙に気持ちよく感じた。

 それとよく似た天井が、目の前にある。大人になると、自分の部屋以外で寝転がってまで天井なんて見なくなるものだ。こんなに広い天井はそれこそ子どもの頃ぶりだと思う。眩暈がするほど大きなものを見るのはいい。頭がすっきりする。


 蛍光灯が完全に切れてしまった。それでも辺りは仄かに明るい。どうもプールの底の方が光っているようだ。この広い空間の中で、プールだけが四角く光っている。足を動かせば、水温が心地よく響いた。


 靴を片手に、私は立ち上がる。プールサイドを素足で歩いて行く。私の身長ほどの小さなドアがあり、開けるとその先にもまたプールはあった。

 今度は子供用というか、小さなウォータースライダーのついたプールだった。やはり淡く光っていて、絶え間なく水が流れては飛沫が上がっている。浮き輪やボールがぷかぷか浮かび、先ほどまで誰かが遊んでいたかのように散らかっていた。

 私はまたプールサイドを歩いて行き、ドアを見つけた。


 ドアを開けると、そこはもはや歩く道のない、長い長いプールだった。否、どうやらそれが道らしい。足首までの浅いプールが、川のようにずっと流れている。

 私はどんどん、上流の方を目指して歩いて行った。


 慣れれば、それはプールというよりはやはり道だった。仄かに足元が光っている道だ。もちろん足は濡れるけれど、流れも緩やかで大したことはない。そんなことよりも、本当に長い道なのが気になった。それでも歩いて行くしかない。戻ろうにもあきれるくらい歩いてきたのだ。


 そのうち、ようやく終わりが見えた。私はドアに手を伸ばし、ノブを捻り、押した。カラリと軽い音で開いたにしては、そのドアを挟んで向こう側は別世界だった。






 水族館の、トンネル水槽を知っているだろうか。

 それを何キロメートルも引き延ばしたような場所が、目の前にあった。そのトンネルを横切るだけでも確実に数分はかかるだろういうほど広い。ただただ広い。外側はもちろんというか、海だ。海の中を長くて広い透明なトンネルが通っている。


 私は呆気にとられながらも、浮足立ちながらトンネルの真ん中を歩いた。照明は白っぽく、真ん中だけを照らしている。


 何も聴こえない。ただ私が歩いた分だけ、カツ、カツ、と足音が響くだけだ。歩いているはずだが、自分が移動しているのかどうかわからない。足を動かしているだけで、景色はどこまでもどこまでも変わりない。

 立ち止まる。ガラスの表面には、こちらの灯りがうつっている。私の影と共に。


 こんな時に、どうしてそんなことを思い出すのだろうと自分でも思うけれど、私は幼い頃に父に連れられた車の店を思い出していた。あの、売り物の車が綺麗に整列させられた敷地を行くと、小さな小さな事務所がある。事務所の中は不必要なほど暖かく、つまりあれは冬のことだったと思うけれど、父とディーラーが話をしているあいだ小さな私は事務所の中で待たされた。他に客は誰もいなかった。

 四個目のキャンディと、三杯目のココア。手持ち無沙汰な私は、外で話し込んでいるはずの父の姿が見えないかと外を見たけれど、もう辺りは真っ暗で、ガラスには中からの灯りと私の顔しかうつらなかった。

 押しつけがましいほどの暖かさ、甘いココアの香り、しんと静まり返った、私以外誰もいない部屋。カチリと時計の針が進む音だけが時折響いた。


 ハッとする。少しばかり気が遠のいていたようだった。夢の中で気が遠くなるというのもおかしな話だが。


 とにもかくにも、歩くしかない。私は先ほどのホテルに戻る気はなかった。散歩でもなんでも、私は行きと帰りに同じ景色を歩くのが嫌いだった。

 まるで時間がゆっくりになったようだ。もしかしたら時間なんてとうに止まってしまったのかもしれない。ふと『現実では今何時だろう』と考えそうになってすぐにやめた。そんなことを考えたらこの夢から覚めてしまうだろうと思った。


 不意に、電気がちかちかと点滅する。それから一瞬で、全ての電灯が消えてしまった。私は歩みを止め、上の方を見る。

 真っ暗で何も見えないだろうと思ったが、不思議と海の方で光が瞬いている。星のようだ、と思った。あるいはそれは海であり、空だった。

 先ほどまでは聞こえなかった、海の声が聴こえる。ごうごうと囁くような音が聴こえる。

 何か大きなものが頭上を横切ると思ったら、それは鯨だった。本当に大きな鯨だった。この広いトンネルからしても、姿をとらえきれないほどに大きな鯨だった。そしてその大きさは、いつまでも視界から消えないほどだった。


 遅れて、トンネルが揺れる。私は少し体勢を崩して、その場にぺたんと尻もちをついた。下を見ると、光も射さない海底がある。あまりにも深くて、暗くて、眩暈がする。このずっと奥に、何もない場所があったらいいなと思った。生き物もいない、光も射さない、誰もたどり着けない場所が、本当に底の底の方にあったらいいなと思って、目を閉じた。


 私は立ち上がり、歩き出す。いまだトンネルは微かに揺れている。地震の後でまだ揺れているように錯覚するようなものかもしれなかったが。


 本当に、長かった。そのうち私は自分がどこかへ辿り着きたいのか、それともこのままずっとここを歩いていたいのかすら見失った。私はこの場所が好きだけれど、終わらない道は私の頭をおかしくさせるだろう。やはり私はここじゃないどこかへ辿り着きたいのだと思った頃に、ようやくトンネルは終わりを告げた。

 そこにはまた扉があった。

 妙に寒い。いつのまにか、歯がかちかち鳴るほど寒さを感じていた。


 扉を開ける。私は「あっ」と声を漏らす。開けた瞬間、そこにはキッチンがあり、キッチンの前にはテーブルがある。

 そこは家だった。私が幼い頃育った、小さな家だった。






 テーブルの上にはチキンと、ケーキと、黄金色の飲み物が注がれたグラス。テーブルの横にはツリーと、ささやかな電飾。壁には飾りがある。

 クリスマスだった。私はひどくみっともないというか、憐れみに似た感情を覚え、椅子に腰かけた。


 痛いほどの静寂が部屋に降り積もる。

 なぜ憐れみを覚えたのか考えた。

 たぶん、この部屋の全てが努力だったからだろう。チキンもケーキも、部屋の飾りも、やろうと思えば準備に何時間もかかる。今この部屋にあるものは、全てが努力なのだ。

 いつしか私たちは、それをやめてしまった。


 クリスマスが好きだった。大好きだった。

 幸せというものがよくわからない人間でも、形から入れる幸福なイベントだから好きだった。私たちはみんな、何が素晴らしいのかを本質的には何もわからないまま、ただ“クリスマス”という形だけを固めてごっこ遊びをしていた。『いつも色々あるけれど、私たちは幸せな家族だ』と確認しあえるイベントがクリスマスだった。

 だから、このケーキひとかけ、チキンひとつ、飾りひとつ、努力の結晶だった。頑張ったね、と思う。私たちは幸せになりたくて頑張っていたね、と。

 事実、クリスマスの私たちは幸福だったのだ。私たちは幸せのためにまだこれだけ努力ができるという証明だったから。そして、結局はその努力を続けることができなかった。年に一度、たった一日すら幸せのために頑張ることができなくなっていった。


 家の中を見て回る。浴槽にはお湯が張ってあり、キッチンには作り立てのスープが鍋一杯にあった。先ほどまで確かに誰かいたはずなのに、この世界には誰もいない。

 それから、子供部屋には真ん中にベッド……今の私が寝そべったら確実に足が出るほど小さな。リビングのテレビではホームアローンが映されていた。この映画の、ひとりぼっちの家が羨ましくて、最初の方だけ繰り返し見たっけな。

 しばらく、ソファに座って映画を観ていた。スープはいつまでもあたたかい。映画は中盤、騒動が起きるところで席を立った。





 家を出ようと玄関のドアを開ける。ようやくというか、ドアの向こうは外だった。雪が降っている。見知らぬ街だ。しかしそこもまたクリスマスであろうことが伺えた。街はイルミネーションとクリスマスの飾りで華やかだった。

 しんしんと降り積もっているように見えた雪だが、どうも空中で止まっている。降っているというよりは、浮いていた。周りを見回しながら歩く。クリスマス飾りに雪は積もっておらず、鮮やかな色彩を放っていた。


 陽気なクリスマスソングが、繰り返し繰り返し流れている。私を置いてけぼりにして、サンタクロースだけひっきりなしにせわしなく飛び回っているような、そんな幻想を抱いた。


 通りにはおもちゃ屋があり、小さなオルガンがショーウィンドウに飾られている。

 ふと、子どもの頃はオルガンも欲しかったなと思った。


 子どもの頃は、欲しいものが本当にたくさんあった。おもちゃ屋に行けば何を選んでいいか迷い、その場で固まってしまうほどだった。

 いつからか、何かを欲しがるのが面倒になっていた。おもちゃを買い与えられるまではいいものの、すさまじく飽き性の私は同じおもちゃで遊び続けることができず、母から『もう飽きたの?』『あのおもちゃはどうしたの?』と聞かれるたびに罪悪感があり、わずらわしかった。母としては、勿体ないという気持ちがあったろうし、自分の贈ったものをいつまでも愛していてほしいという想いもあっただろう。

 そのうち私は本ばかり欲しがった。私にとってはおもちゃも本も同じ、一度や二度体験できれば十分手に入れた価値のあるものだったが、なぜだか本はそれでよくておもちゃはそうではないらしいと気づいてから、私は本ばかり欲しがった。

 やがて私は、そもそも自分のためにお金を使ってもらうこと自体を申し訳なく思い、本を欲しがることもなくなった。大人になった今、何でも自分のお金で買えるようになっても誰かに申し訳ない気がして、無駄遣いばかりしているような気がして、何かを欲しがるのが億劫だった。それはそれでよいと思う。むやみにお金を使う人の方が苦労すると思うから。


 でも、欲しいものがたくさんあってどれも手に入らなかったあの頃の方が、世界はきらきら輝いていたようにも思う。あれもこれも欲しい気がしていたあの頃の方が。


 おもちゃ屋のドアを開く。妙に明るいクリスマスソングが流れだす。赤鼻のトナカイのオルゴールアレンジだった。

 おもちゃ屋のなかは、しつこいほど暖かい風が天井から吹いていた。子どもの頃なら片っぱしから遊んで回っただろうおもちゃが、たくさん並んでいる。

 赤鼻のトナカイを口ずさみながら、店内を真っ直ぐ歩いた。明るい店の中でもうるさいほど電飾が点滅している。私は小さな頃、動けなくなるほど分厚いコートとブーツを履いて親に引きずられるようにして歩いた日のことを思いだし、なんだか動きづらいような気さえしていた。


 真っ赤なお鼻のトナカイさん。

 いいなあトナカイさんは、とぼんやり思う。

 私も私のままで、誰かに役に立つと思われたい。

 誰かに愛されたいとは思わない。愛されるのってきっとすごく億劫だ。嫌われたくなくて、いつも無理をすることになる。だから、愛されないままで、私は私のままで、誰かに役に立つと思われたい。赤鼻のトナカイさんみたいに。


 圧迫されるような暖かさから逃げようと、店の奥のドアを開けた。ごうっと音を立てて、吹雪が舞い込む。





 風に揺れてギイギイと音を立てているのは、遊園地の看板だ。私は呆気にとられながら、金網のフェンスを力いっぱい押した。ギシギシいいながら機械のパレードが遠ざかっていく。愉快な音楽がそこらじゅうに満ちている。


 遊園地だ。見たこともない遊園地だ。


 ピカピカの観覧車、パステルカラーの回転木馬、今は動きを止めているジェットコースター。機械のピエロが風船を誰かに配ろうとして、手を離した瞬間に飛んでいく。

 積もった雪に足を取られながら、私はメリーゴーランドの前まで歩いて行った。


 愛らしい顔をしたポニーの乗り物がゆっくり上下しながら回っている。完全に規則正しい動きをして、私のことなど意に介さず回っている。やわらかな光が青から緑、緑から橙、橙から白、そしてまた青くなった。ポニーは誰もその背に乗せないまま、のびのびと飛び回っている。


 それを見ながら、なぜだか私は泣いていた。

 その場に膝をつき、うずくまって。子どもみたいにわあわあ泣いていた。それは私にとっても、全く意味不明な感情の高まりだった。私はメリーゴーランドの前でひとしきり泣いて、それから不意にすんと落ち着いて涙を拭いた。


 鼻水をすすりながら私は遊園地のなかを歩き回る。

 遊園地は好きだが、いつか帰らなければならないから嫌いだ。

 夢はどんなに楽しくてもいつか覚めるから嫌いだ。夢だとわかっている夢なんて最悪だ。


 機械のパレードがまた横切っていく。誰に手を振っているのかわからないけれど、振り返してみた。私のことなんかちょっとも見ずに遠ざかっていく。


 歩いて行くと、頂上が見えないほど高い塔があった。電波塔だろうか、そんな造形だった。側面の梯子を掴み、足をかける。登り始めると、カンカン音がした。


 ふと後ろを向くと、遊園地のアトラクションたちがみんな宙に浮かんでいた。


 ピカピカの観覧車も、パステルカラーの回転木馬も、今は動きを止めているジェットコースターも。

 全部全部、ピエロが手を離してしまった風船みたいに飛んでいく。色とりどりに光を放ちながら、ゆっくり空に吸い込まれていく。


 私は口をあんぐり開けながらそれを見ていた。重力がひっくり返ったみたいだ。

 大きな建物が、音もなく飛んでいく。ちょっと言葉を失くすぐらい、その光景が綺麗で。


 空に消えてくアトラクションたちを、追いかけるように必死に塔を登った。カンカンと音を立てて登った。下を見ると、何もない。ただ真っ暗だ。闇が波のように寄せてはかえす。空は眩いほど綺麗だ。メリーゴーランドは空でもその秩序を失わず、光りながら回っている。まるで星座みたいだ。


 無心で塔を登っていくと、ついに頂上にたどり着いた。

 息を切らしながら見下ろすと、やはり何もない闇が広がっていた。飛んでいった建物もすでに見えない。塔以外の全てが真っ暗だ。

 私はにわかに怖くなって、塔の一番上にあったドアを開けて逃げ込んだ。





 いきなり朝日が射し込んで、私は目を閉じる。潮風が鼻をくすぐった。

 ゆっくり瞳を開ける。銀色の透明なガラスの上に立っている。周りを見渡すと、海が見える、空が見える。

 私が立っているのは、何だろう。ビルの屋上みたいだ。周りは海。海のど真ん中に立っている建物のよう。

 否、だった。


 どうやら、最初にいたホテルに戻ってきてしまったらしい。見渡す限り海に終わりはなく、世界の果てみたいなところで空の青と溶け合っている。

 私は屋上の端に腰かけ、両足を投げだした。風が心地よい。絵に描いた太陽みたいに、朝日が生まれたてのまま水平線から顔を出している。


 何もせずに海を見ていた。時折風が私の髪をもてあそんで、耳元をくすぐる。


 なんだかこういう夢を見るたびに、私は『そうだね』と思う。


『そうだね、仲直りしようか』という気持ちになる。私は世界と、喧嘩というほどでもないけれど疎遠になったりして、縁を切りたい気持ちになることがある。そんな時に世界の方から仲直りを持ちかけるように、こんな夢を見る。


 私は立ち上がり、ほんの少し勢いをつけてジャンプした。風の抵抗を受けながら、真っ逆さまに落ちていく。朝日に照らされて、何もかもが白くキラキラ輝いていた。

 足先が水に触れ、破裂するような音がする。その後全身が水の中に沈み、くぐもった音になった。


 重力に従い、海の中に沈む。ゆっくり、ゆっくり。海の底は暗いのに、水面は朝日に照らされてひどく明るい。私の身体は、底なしの真っ暗と、ぼんやりした光の境界線みたいなところでしばらく漂った。

 何も聴こえない。腕一本動かすのさえ重いくせに、身震いするほど自由な気がした。

 私の漏らした息が、泡となって立ち上っていく。


 やがて落ちるところまで落ちて、今度はゆっくり浮かんでいた。光が近づいてくる。

 私は、沈め沈めと思ったけれど、どこかで仕方ないと諦めてもいた。仕方ないのだ。私は浮かんで、やがて海から顔を出すだろう。もっとゆっくり、と思うけれど、それでもいつまでも沈んでいるわけにはいかないのだ。


 私は手足を動かす。右手を、光の方へ伸ばす。指先が海の向こうの、空気に触れた。私は海を押しのけ、顔を出す。





 目を開けた私は、そこが自分の部屋であると正しく認識する。水中から顔を出すように布団から這い出し、カーテンを開けた。朝日が眩しく、どこかでカラスが鳴いている。


 おはよう、と呟いた。

 おはよう世界。今日もきっと、いつも通りなんだろうけど。でも部屋から見える朝日が夢の中とおんなじだったから、なんだかちょっといつもよりかは綺麗に見えて、私はしばらくそれに見惚れていた。

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