ある温泉の怪異譚

雨沢花名


 凍えるように寒い日だった。温泉は洗い場でさえ湯気が立ち込め、他の客の姿がぼんやりと見え隠れしている。まるで濃い霧の中にいるような心地で、俺は目の前に隆文が来たのにもしばらく気が付かなかった。

 「温泉なんていつぶりかな、なあ湊」

隆文はそう言って、シャワーのお湯で顔を流した。俺は頭の中にも湯気がかかったような気持ちになって、曖昧に返事をした。正直今は、何も考えたくなかった。

「おまえ、まだ落ち込んでんのかよ。温泉くらいゆっくりしろよ」

隆文の言う通り、俺はひどく落ち込んでいた。一週間ほどまえ、同僚が亡くなったのだ。心不全だった。葬式などがバタバタと過ぎていき、やっと、今日はこうして職場近くの温泉に来られるくらいに落ち着いたのだった。隆文は俺を励ますように続けた。

「この町はさ、どんどん人が死んでくんだから。気にしてたらキリがないって」

「ああ、分かってる」

隆文の言葉は薄情に聞こえるが、確かにその通りだった。ある人は工場の排煙のせいだと言い、ある人は隣国の陰謀だと言う。実際のところは分からないし、知りたくもない。ただここ数年で死者数がぐっと上がったのは紛れもない事実だ。同じことを考えていたのか、隆文が言う。

「工場のせいではないと思うんだよな、時期的に。でも他国のせいでっていうのもおかしいよな。案外、この温泉が原因だったりするんじゃないか、なんて」

隆文が、俺を励ましたいのだろう、困ったような笑顔で言う。俺が相当落ち込んでいるように見えるのだろう、周囲の客も俺たち2人のほうを見て小声で何かを言っている。これ以上気を使わせるのも悪いな、と思い俺も笑って答える。

「きっとそうだな、なんか有害なのが出てんだよ」

何も、本気で思っていったわけではなかった。そうじゃないことは皆わかっているが、温泉のせいにでもしないと気が休まらなかった。オカルトチックな話にすることで、現実から目を背けるしかなかった。温泉が原因なら仕方ないか、そう笑っていたかったのだ。

 「なあ。おまえはさ、この温泉が原因って、ほんとに思ってるか? 」

実はな……と、冗談で返そうとして隆文の顔を見る。しかし、予想外に真面目な顔つきに思わず口ごもった。隆文は続けた。

「俺の話、聞いてくれないか」

真剣な口ぶりに、俺は思わず頷いていた。


 隆文は、体を流しながらぽつぽつと話し始めた。

「おとといさ、後藤と俺、この温泉に来たんだよ。で、二人して今みたいに向かい合ってシャワー浴びてたわけ」

なぜか、強烈な違和感が押し寄せてきた。隆文は嘘をついているのではないかと半ば直感的に思い、だんだんと違和感の正体に気が付く。さっき隆文は、温泉なんていつぶりだろう、と言っていなかったっけ。一昨日も行ったのなら、その言い方はおかしい。そもそも後藤は……。おれは思わず話を遮った。

「おまえ、何言ってるの。さっき、温泉なんていつぶりかなあって言ってたじゃん。そもそも」

「いいから聞けって」

隆文が強い口調で言った。騙したり、ふざけたりするのが目的ではないのだと察した俺は、ともかく最後まで聞くことにした。

「露天風呂行こうぜって声かけようとしたら、後藤さ、鏡と喋ってんの。なんか神妙な面持ちで頷いたりして。最近ストレスも多いし、メンタル系のなんかかなって思って、でもなんもできなくてただ見てたわけ。だっておかしいだろ」

おかしいことだらけだ。鏡の中の自分と話し込んでいる後藤を想像し、思わず身震いした。支離滅裂な話をしている隆文が気味悪くなってきたが、さっきから足に力が入らない。

「おい後藤、大丈夫か。って言ったらさ、隆文さんどうしたんですか、田中と喋ってるだけですよって。田中って覚えてるか、2か月前に死んだ奴」

もちろん覚えている。でもお前、それ以前に。

「でも、鏡には普通に後藤が映っててさ。で、鏡の中の田中? とか、こっちの後藤とか、もう全部怖くなってきちゃって、逃げようとしたんだけど足に力が入らないの」

「それって」

俺が言いかけると隆文は、分かってる、といってい頷いた。いつの間にか周囲の客は消え、俺たち二人だけが洗い場にいた。

「そうなんだよ、俺もさ、死んだ奴と鏡で喋った奴が次に死ぬのかな、なんて不謹慎なこと考えちゃってさ。田中の次は後藤なのかって思った」

隆文が一呼吸置き、泣き笑いのような困った顔で言う。

「で、気がついちゃったんだよね。俺さ、鏡の中の後藤と喋ってたの。だってもう、一週間前に後藤は死んでんだよ」

そう。後藤は一週間前死んだ。鏡と喋っていたのは隆文だ。いくらなんでも現実にそんなことがあるわけがない。ぞわぞわと嫌な気持ちになるのを必死で抑え、冷静になろうとした。俺は、いったん落ち着こう、立て続けに人が死んで嫌な夢でもみたんじゃないか、といって隆文の肩を叩いた。


 隆文の肩の、ひんやりとした感触に思わず手を離す。目の前には、手形のついた鏡があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある温泉の怪異譚 雨沢花名 @minatsu_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ