第1話 アウレーシャ・バルワここにあり
シャマル王国の貴族たちのあいだをそんな噂が駆け抜けた。きっかけはシャマル国王府から発行された
『バルワ伯爵家令嬢アウレーシャ・バルワ嬢、恩赦により修道院での
たった2文はあっという間に噂好きの者たちの話題の中心になった。そしてそのことが俗世から切り離された修道院に聴こえてくる程度には、貴族たちの間はその話で持ち切りだった。
しかし。
「私のことが噂になっているのは気にしていません、修道院長」
当のアウレーシャ・バルワはさっぱりした声で言い切ると、
穴が開くほど読んだ3つのそれは『ヒサール領』と題された項目の切り抜きだ。それぞれ違う年に出されたものだが、どれも西方辺境領ヒサール領現領主のアドラフェル卿にまつわる内容だった。
「私にはなすべきことがありますもの」
アウレーシャはそう言って、切り抜きの見出しに添えられた若きアドラフェル卿の悲壮な決意のにじむ肖像をそっと撫でる。一瞬感傷的な表情を浮かべた彼女だったが、パタンとファイルを閉じて顔を上げ、明るい声で言った。
「社交界デビューと同時にやらかして一生修道院暮らしだったはずの小娘が10年ぶり戻ってくるともなれば、誰でも噂をしたくなるというものです」
すでに僧籍を返還した元修道女はみすぼらしく見えない程度に簡素なワンピースを身にまとい、深紅の髪を頭の上の方で丸く結い上げ、手にはファイルを仕舞いこんだ旅行鞄を携えている。
「ですから平気です、修道院長」
よく通る声でそう言って己の師ともいうべき老女に向き直る。
出会ったばかりの頃はまだ14歳の少女だったこの弟子は、最低限とはいえ貴族教育を終えた淑女である。こと魔法を使った戦闘術では国内でもトップクラスの使い手になっているはずだ。アウレーシャが生まれ持った膨大な、そしてかつてはただ放出するだけだった魔力をコントロールできるように訓練を施したのは修道院長自身である。
その10年間を思い出し、皺のある手で弟子の肩を抱き語り掛ける。
「アウレーシャ、魔王が倒され魔界との扉が封じられ、平和になって久しいこの国だけれどここ数年凶悪な魔獣が人を襲うという話も聞きます。あなたのその魔力がきっと必要な時がくる……祈っているわ、その時あなたが大事な人を守れるように」
おまじないのように「あなたならきっと大丈夫」と囁いた。
「……ありがとうございます、院長」
わずかに涙のにじんだ目をごまかすようにアウレーシャはにっこりと笑ってから見送りに背を向けて歩き出す。
温かな春の昼下がり、修道院の庭は薬草が花を咲かせ、そこかしこを蝶たちが行きかう。時折吹き抜けるまだ少し冷たい風にスカートの裾を躍らせながら、アウレーシャはただ真っ直ぐに修道院の大門を目指す。
修道院大門の向こう側には妙に豪華な
(ここまでくるといっそ清々しい)
14歳の娘が修道院送りになった際の見送りもしなければ、それから10年のあいだ1度も手紙を寄越さなかったあの両親のこと、ここで迎えを寄越さないというのは行動に一貫性があって感心すら覚えてしまう。
数年前ならともかく、今のアウレーシャにはそう思えた。
馬車の中からは噂好きの貴族たちが、実家から迎えの来ない
だがアウレーシャ・バルワは怯まなかった。
僧籍を返上すると決めた時点で覚悟していたことだった。
そして何より、いまのアウレーシャには夢があった。否、夢などという柔らかな言葉では足りない。
(私は、アディとナーヒャとの約束を必ず果たす)
それは、己自身に課した固い誓い。
(それさえ叶うのなら他はもう何でもいい、二人があの約束を忘れていたっていい)
ただアウレーシャが彼女自身のわがままで果たす約束。
(だからもう、誰が何を言っても構いはしない)
あの思い出の輝かしさに、それ以外の何もかもが眩む。その眩暈のするような感覚すら彼女にはいっそ心地よく感じられた。
アウレーシャの足が修道院の大門を越える。
過去の
強く風が吹く。
魔力の象徴たる輝く深紅の長髪が煽られて巻き上がる。
その様は、さながら炎。かつてその強烈すぎる魔力でシャマル王国上層部を震撼させたあの女がそこにいる。
人々はいま、それを知る。
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