シュレディンガーのパパと私

hibana

シュレディンガーのパパと私

 目が覚めて、私は『あーあ、目が覚めちゃった』と残念な気持ちになる。目が覚めてしまった以上、こんな蒸し暑い部屋にはいられない。エアコンの風を求めてリビングへ向かうことにする。


 一階に降りると、テレビを見ている母が「おはよう」と声をかけてきた。

「おはよ」

「あんたにしては早いじゃないの」

「私もそう思う」

 冷蔵庫から牛乳を出しながら「パパは? 仕事?」と尋ねる。ワンテンポ遅れて、母は「……は?」と言ってきた。実の娘に対して治安が悪いな、と思いつつもう一度「パパは仕事なの?」と訊く。


「…………。あんた、何言ってんの? 寝ぼけんのも大概にしなさい」


 そんなに変なことを言っているだろうか。今は夏休み期間中。私はずっと休みだが、父はそうではない。それとも“みんながみんなあんたみたいに暇じゃないんだから仕事に行っているに決まってるでしょ”という意味だろうか。性格悪くない?

 唖然とした母が、不意に私の腕を掴んで引っ張る。物置になっていたはずの和室まで連れていき、母はを私に見せた。


「いい? もう二年経つのよ。変なこと言い出さないでちょうだい」


 は父の遺影と仏壇だった。




@@@@@




 何がどうなってこうなっているのか全くわからない。

 私は母が茹でたそうめんを美味しく頂きながら『これは夢かな』と思っていた。

 ドッキリの線も考えたけれど、母は未だ不機嫌というか何も話したくなさそうにしている。あれが演技であるとは考えづらい。

 そうめんを食べ終え、茶碗を洗い、私はもう一度父の仏壇らしきものを見る。本物なのかと疑ってはみたものの、仏壇の本物も偽物も私に見分けがつくはずはなかった。


 自分の部屋に戻り、パソコンで父の名前を検索する。五分ほど画面を見て、そして閉じた。


 私はベッドに寝転がる。


 二年前、通り魔殺人があった。私も父も利用している駅だった。何人かが怪我をし、何人かが亡くなった。私たちはその日も駅を利用していたが、ちょうどその場には鉢合わせなかった。

 あの日のことはよく覚えている。合流した父は私の手を痛いほど握りしめ、『きみが無事でよかった』と言った。


 その通り魔殺人の被害者が、私たち親子だということになっている。死亡者は一名。父の名前だった。

 ネットの記事はいくつも存在し、ドッキリのためにここまで手の込んだ事が出来るような人は、ちょっと知り合いにはいそうもない。


(覚めろ、直れ、こんな世界間違ってる)


 昨日も父はいつもと変わらず、私のことを穏やかな目で見つめて『きみはもう少し早起きした方がいいね』と言った。私はそれに対し『はいはい』と答え、たぶん、それだけだった。

 空気みたいな人だ。穏やかで口数が少なく、けれど妙なところで頑固な人だ。

 この二年、毎日顔を合わせた。間違いなく父だった。


 死んだなんて嘘だ。これは夢で、起きたらパパはリビングでコーヒーを飲んでいる。そして私は『変な夢を見たよ』と報告する。パパは顔を上げて、僅かに眉をひそめて、『二度寝を控えればそんな夢も見なくて済むよ』と言う。そうに決まっているのだ。


 目を閉じる。眠りに落ちるのを待った。先程目覚めたばかりなので時間がかかったが、やがて扇風機の音が遠くなるのを感じた。


 つかの間、夢を見た。


 私は父のことを待っている。駅前のバス停でバスを降りて、歩きながら父の返信を確認している。父がいつも通りの電車に乗っていれば、あと5分はつかないはずだった。しかし届いていたメッセージには『一本早い電車に乗れたからもうつくよ』とある。

 だから私は後ろから声をかけられた時、最初はそれが父だと思った。それが見知らぬ人だったことで私は少しだけ戸惑う。

 知らない人が何か言う。『泥棒したことある?』だった。そうだ、そんなことを言っていた。私は思わず首を横に振り、ないですと答えた。なぜだかその人は急に声を荒げて『盗んだことがないのかって聞いてんだ、消しゴム一つでも泥棒したことないのかって聞いてんだよ』と絶叫した。私は必死に、ないですと言い続けた。肩を掴まれていて逃げられなかった。


 父がその男の腕を掴んで、『離れろ』と言うのが聞こえた。父の怒鳴り声など、初めて聞いたと思う。


『そこのコンビニに入っていなさい』と言われたけれど、私はその場で腰を抜かしていた。父はそんな私と男の間に立って何か言い合っていた。私からは父の背中しか見えない。『誰か警察の人を呼んできてください』と父は周りに声をかける。

 何か光が反射して、見ていた野次馬たちがどよめいた。赤い液体が飛び散って、私は遅れてそれが血なのではないかと考える。父が男に背を向けて膝をつき、へたりこんでいる私に覆い被さるように抱きしめた。

『誰か』と父は叫んでいた。『娘を頼みます、誰か』と、父の声は震えていた。

 血の匂いがした。父は時折、喉が塞がったように噎せて咳き込む。私からは何も見えない。ただ、父の体がずっと揺れていた。強く私を抱きしめていたのに、ふっと力が抜ける瞬間があった。


 パパ、と呼んだ。返事はなくて、途方に暮れた。

 助け出されたのはもう少し後で、なぜだか涙ぐんだ知らないおばさんが『大丈夫よ』と私の肩を抱いた。何が大丈夫なのかわからなかった。


 気が狂いそうなほど蝉の声が聴こえる。私は父の書斎で、何かを触っていた。縋るようにして触っていた。何とかなるとか何とかするとか、そんなことよりとにかく父に会いたかった。

 不思議な形状の機械は耳障りな音を立てて、光った。




@@@@@




 目を開けて、飛び起きる。

 ひどい夢を見た。ひどい夢のくせに現実みたいだった。

 部屋を出る。父の仏壇は消えていない。


 ────もし。

 もし、パパが本当に死んでたらどうする?

 私のこの二年間の記憶の方が間違っていて、この世界の方が正しかったら、どうする?


 吐き気をこらえながら、父の書斎に駆け込む。机の下、カーペットをめくる。床はその部分だけくり抜かれていて、中に何かが入っている。

 夢の中で見たのと同じ、不思議な形状の機械だった。それが何なのか、私は知らない。


「お願い。お願いします……」


 何でもよかった。こんな世界から逃げ出したかった。


「パパと会わせて」


 機械は光った。途端に視界が揺れる。突然底が抜けたようで、私は真っ逆さまに落ちた。何か掴もうと伸ばした手が空を切る。


 沈んでいた。父の書斎がすぐに見えなくなる。真っ暗な水の中だ。私は水の底を歩いている。

 怖いよパパ、と私は震えていた。

 泡がちらちらと光る。体が重い。


『きみはもう少し早起きした方がいいね』


 声が聴こえて、顔を上げる。遠くに父と私の姿が見えた。それはまるでシアタールームのようでもあったし、水槽越しに見える景色のようでもあった。


 もう一歩、踏み出す。

『顔を洗っておいで、夏帆』とたしなめる声がした。『髪もひどいぞ』と続ける。私は『家にいる分にはいいじゃん』と言ったと思う。一昨日のことだ。


 一歩進むごと、いつかの日の風景が浮かんでは消える。


 花束を持った父が『誕生日おめでとう』と言う。私は『いらないよ、花なんて』と眉をひそめた。

『じゃあ何が欲しい?』

『おこづかい』

 父は呆れた顔をして、何か紙袋を私に手渡している。私は急いでそれを開けて、『また本!』とうんざりしていた。


 浮かんでは消える。浮かんでは、消える。


 消えないでよ、と私は呟いた。もう何も消えないでよ、と。泡はぶくぶくと水中を上っていく。

 それはこの二年間の、私と父の会話だった。あんなにそばにいたのに、ずっとそばにいたのに、会話といえば驚くほど少ない。


『きみが無事でよかった』


 不意に視界が開ける。風を感じ、たくさんの音が鮮明に耳に飛び込んできた。

 気づけば、私は駅の前に立っていた。




@@@@@




 人の多い夕方の駅は、どことなく空気が薄い気がした。


 ちょうど電車が到着したのか、人の流れが活発になる。立ち尽くしている私に誰かぶつかって、「すみません」と聞こえた。私も慌てて頭を下げて、歩き出す。


 近くで夕焼け小焼けが鳴っている。


 駅の中に入り、辺りを見渡した。いつもと何も変わらない駅だ。

 人混みに流されそうになりながら、私は直感的に、この場所で何をすべきかわかっていた。


「夏帆」


 改札の方から歩いてきた父が、私を見て目を細めている。「コンビニの前で待っているんじゃなかったのか」と首を傾げた。私はぼうっとしてしまって、「パパに早く会いたくて」と呟く。

「随分嬉しいことを言うんだな。今度は何が欲しいんだ?」

「……お小遣い上げてください」

「協議が必要なようだ」

 何も変わらない、いつも通りの会話だった。


「帰ろう、パパ」と私は手を伸ばす。父は眩しげに私を見て、「ごめん」と言った。それから私の腕を掴み、引き寄せる。

 私は父の腕の中から、見覚えのある顔が横切るのを見た。姿


「…………え?」


 見間違えるはずはなかった。

 私は呆然としながら頭上の父の顔を見上げる。父は瞬きをし、「誰に似たのか、きみがここまで強情だとは思わなかった」と言う。


「パパ……?」

「うん」

「向こうにもパパがいる」

「うん」


 父が私から離れ、「まず、きみの事情を訊こうか。今度は一体どうやってここにたどり着いたんだ?」と尋ねてきた。私は混乱しながら口を開く。

「パパ……と、昨日までずっと暮らしてたのに……」

「うん」

「今日になって急に、二年前……パパ……が、死んじゃったって……ことになってて、なんか……ママもそう言うし、ネットの記事とかもそうなってて、家にはパパの仏壇があって……」

「僕の仏壇が」

「そう! そうなの! だから私、こんなのおかしいと思って、だけど夢を見て、パパが死んじゃう夢を見て……夢の中で出てきた機械が現実にもあって……?」

「つまりきみは、僕が生きている世界から僕が死んでいる世界へ突然変わってしまったように感じたわけだね?」

「そう!! さすがパパ!! そんなのおかしいよね!?」

 私は大真面目な顔で「全部夢でした、ってことにならないですか」と言ってみる。父は歯を見せてはにかみながら「ならないな、残念ながら」と答える。

「混乱させてしまって申し訳なかった」

「その口ぶりだと全部パパの仕業??」

「そうだな……きみは今、時間軸の移動……タイムスリップをしたという認識はあるかな?」

「なんとなく……夢じゃないって言うならそれしか考えられないし……夢じゃないならだけど……」

「じゃあ、僕もそうなんだと言ったら信じられるね?」

 少し考えて、私は頷く。ここまで来たら、そんなの全然不思議じゃないのだ。そもそもあの謎の機械は父の書斎にあったのだし、父が先にタイムスリップしていたと考える方が自然ですらある。


「結論から言うと、過去改変はできない」


 そう、きっぱりと父は言った。私は怪訝な顔で父を見て「?」と聞き返す。

 何から話せばいいかな、と父は言う。「少し歩こうか」と、先程父(恐らくこの時代に生きている方の)が歩いていったのと逆方向を指さした。私は戸惑い、「行かなきゃ」とこの時代の父が歩いていった方を指さす。

「行っても何も変わらないよ」

「どうしてそんなこと言うの」

「本当のことだからだ」

「行きたい」

「……わかった」

 私と父は歩き出す。私は走り出したいぐらいだったが、父はのんびりと歩いている。やがて「コペンハーゲン解釈を知っているかな」と父が口を開いた。


「こぺ……? 何? 全然知らない」

「シュレディンガーの猫は?」

「かろうじて……」


 本当に“かろうじて”という感じだったので、私は俯いて「『箱を開けるまで猫が生きてるか死んでるかわからない』みたいな……」と言ってみる。父はといえば一瞬黙って、‪✕‬にするか△にするか考えている様子だった。

「詳細を省いてかなりざっくり言うと、」と父は話し始める。「観測者が観測するまで、生きている猫の状態と死んでいる猫の状態が重なって存在しているのだろうか、というパラドックスだ」と続けた。

「? 生きてる猫と死んでる猫が箱に二匹入ってるってこと?」

「いや……猫は一匹だ。その一匹の猫の“生きている状態”と“死んでいる状態”が、観測されるまで重なっている。観測されることによってどちらかに収束し、生死が確定する」

「そんなわけなくない?」

「うん。でも肯定も否定もしかねる難問だった」


 さて、と父は言う。それはそれとしてここから本題ですが、という響きだった。

「僕たちは……つまり僕ときみは、今日という日を変えまくった」

「変え、まくった??」

「きみは記憶もないはずなのに必ずと言っていいほどぼくの部屋で例の機械を見つけ、理論も何もわからないままタイムスリップし、執念すら覚えるほど毎回過去を変えた。びっくりだ。ぼくがどれほど試行錯誤を重ねてここにいると思っているんだ」

「知らないけど……」

 空咳をした父が、「ぼくの落ち度というか、しょうがない面もあるのでいいとするが」と片目を閉じる。

「それで、大事なのはいくつかの世界……いくつかのルートと言った方がいいのかな。それが発生したことだ。本当はもっと細分化されているんだけど、きみにとって重要であろう四つに絞って説明しようと思う。すなわち、僕が死ぬルート、きみが死ぬルート、僕たち二人が死ぬルート、僕たち二人が生き残るルートだ。これらが発生し、重なり合った。ここまではわかるかな?」

「まあ……なんとなく」

「そしてこれは観測されることによって収束し、一つに確定する」

「観測? って誰が?」

「それは……その答えは現時点で誰も出していない。概念的な話はできるが、今それは重要なことではないんだ」

 大切なのは、と父が瞬きをする。「観測されたら、事象が確定したら、それは二度と変えられなくなるってことだった」と話した。

「……よくわかんないけど、観測ってそんなに時間かかるの?」

「正直に言うと、僕もそれは自信がなかった。しかしきみが言うには二年……二年がかりで世界は統合されたということになる。随分とかかったな。おかげで助かったが」

「観測されたってこと?」

「恐らくそうだろう。世界が統合される時……きみは何かの間違いで“僕たち二人が生き残るルート”の記憶を持ってしまっていた。それで混乱が生じたんだろうが、僕の見立てでは記憶も徐々に統合されて不自然な点もなくなっていくんだろう」

 私は父の言ったことをゆっくり咀嚼し、呑み込む。


「それってさ、」

「うん」

「それって、観測が済んで、パパが死んじゃった世界に確定したってこと?」

「そうなるだろう」

「なんで?」

「そうなるように、僕が望んだからだ」


 立ち止まって、私は父の顔を見る。父は穏やかな表情で、「きみの話を聞いて本当に安心した。よかった、その世界に収束したんだな」と微笑む。


 いつの間にか、駅前のコンビニまで歩いてきていた。少し人だかりができている。中心には、夢で見たのと全く同じ人物の姿────すなわち、へたり込む私と、私の前に立った父と、刃物を持った男がいた。

 すでに父は切りつけられたらしい首を押さえて呆然としていた。指の隙間から血が溢れている。まるで、世界からこんな風に裏切られるとは夢にも思わなかった、というような。見たこともないほどあどけない表情で立ち尽くしていた。父の背中しか見えなかった私が、知るはずもない表情だ。


 その横を通り過ぎながら、私の隣で父が「不運だね」とこの状況を一言で表現した。


 動けないでいる私を引きずるようにして父は歩く。やがて立ち止まった父が、ジェラートショップで「何が食べたい?」と訊いてきた。

「……いらない」

「じゃあ、この苺のやつとメロンのやつをください」

「いらない!」

 短くため息をついた父が「ください」ともう一度店員さんに言う。


 来た道を戻ろうとした私の腕を、父が掴む。強く掴む。私は振りほどこうとして暴れて、でも全然振りほどけなくて、一気に鼻の奥がつんとして、泣いた。

 その場で大声で泣いた。子供みたいにわんわん泣いた。なんで、なんでよパパ、と癇癪起こしたみたいに泣いた。


 ふと父は私を引き寄せ、覆い被さるようにぎゅっと抱きしめた。強く強く抱きしめた。

「僕の娘は華奢だなあ」と言って、一息に私を抱え上げる。

「ダイエットなんてするんじゃない。きみはもう少しふっくらしててもきっと可愛い」

 私はしゃくりあげながら、なんて無責任なことを言うんだろうと思った。そんなのわからないじゃないか。どうせ太ったら太ったで、生活習慣がどうのこうの言うに決まっている。決まっているのだ。パパが生きてさえいれば。

 父はくるりと後ろを向いて、「アイスを受け取って」と言ってきた。私は嗚咽を抑えきれずに震えながら、店員さんが差し出していたカップのアイスを二つ受け取る。店員さんはかなりのプロで、笑顔を崩すことなく「召し上がれ、またどうぞ!」と朗らかに言っていた。


 父に抱き上げられながら移動している。子供の頃から馴染み深い、いわゆる抱っこの体勢だ。「食べていいよ」と父に言われて、私はしゃくりあげつつメロンのアイスを口にした。苺の方を「こっちパパにあげる」と言って父の口元に近づける。父は歩きながらそれをぱくっと食べて、「甘い」と感想を言った。


「きみは子供の頃からママっ子で、僕と二人きりになると必ず泣いた。『誰よあんた! 馴れ馴れしく手なんか握ってこないでよ! 助けてママ!』という勢いで泣いた。きみのママといえば『仕事ばかりしてるパパの顔なんか忘れちゃったのよ』と悲しいことを言うものだから、僕も隠れてちょっと泣いたものだった」

「そんなちっちゃい時のこと言われても」

「こうやって抱き上げるとね、ほんの一瞬きみが『もしかしてこの人、味方なのかも』という顔できょとんとする。でもまたすぐ泣く。アイスクリームは魔法のアイテムだ。それを食べている間、きみはあまりにも夢中で泣くことすら忘れる」


 よいしょ、と言いながら父は私をベンチに座らせる。無言で腰をさすり、なぜか私とは人ひとり分ぐらい間を開けて父も座った。

「私、もう子供じゃないんだよ」と言えば、父は面白そうに笑って「確かに」と頷く。


「随分、大人びたね」


 私は驚いたが、すぐに比較対象が二歳や三歳の頃の自分であることに気づいて不貞腐れた。父はそんな私を目を細めて見ている。

 私が握りしめるように持っていた苺のアイスを父に差し出す。父はそれを受け取って、姿勢よく食べ始めた。私も、自分のアイスを頬張る。


「……どうして、このルートなの? 私もパパも助かるルートだってあったのに」

「まず蓋然性というのがある。あまりに突拍子もないこと……たとえば、タイムスリップしてきた僕があの青年を事前に取り押さえておき、事件は起こらなかったとしよう。だが、突然現れた未来人に襲われるなんて突拍子もないことがまかり通って、そのルートが採用されるかと言われるとそれはさすがに無理がある。その点、この日の僕を一本早い電車に乗らせるだけで収まるべきところに収まるこのルートはまだこじつけがしやすかった」

「先にあの犯人取り押さえるって、実際やってみたの?」

「…………。色々とやれることはやってみた。もっと早く近くの交番のお巡りさんを呼んでくるとか、匿名の通報で事件が起こる前から巡回してもらうとか、そういうことは全部やった上で」


 アイスを口にし、スプーンをくわえたまま父はぼんやりと遠くを指さし「ああやって僕を攻撃させ続けているのが一番被害は少ないということになった」と話す。

「……信じらんないんですけど」

「信じられないかもしれないがそうなんだ」

 私が信じられないのはそんなことを平然と話している父の方だったが、父はアイスクリームを平らげて満足そうな顔をしていた。

「自分がすごい刺されてるの見て、何とも思わないの?」と尋ねれば、父は小気味よく笑って「“うわ、痛そう”と思うよ」と答える。私は呆れ果てて黙った。


 アイスを食べ終えた父が立ち上がり、私から空のカップを回収してゴミ箱に捨てる。

 その頃には私はすっかり落ち着いていて、許されるならずっと泣いていたかったが、どうやら泣いても無駄らしいなと気づき始めていた。父と話しているとこういうことはよくある。父の中に譲れない一線というのがあって、それに触れた時には、気が済むまで駄々をこねたら後は諦めるしかない。


 他になかったの、と私は鼻をすすりながら言う。父は瞬きをして、幾分か表情を和らげた。

「経済的なことなら、気にしなくていい。贅沢な暮らしはできないだろうけど、今まで通りの暮らしであれば、特別苦労することはないだろう。それほど不安になるようなことじゃない」

「そんなこと訊いてない」

「きみは昔からママっ子で、ママもきみのことをとても愛してる。僕ひとりがいなくなったところで、きみときみのママの暮らしが破綻するとは思えない」


 私はちょっと考える。実際のところ、父が死んで二年が経つ世界で、私たちの暮らしは破綻している風ではなかった。私はそのことを悔しく思ったし、悲しく思った。


 父は空気みたいな人だった。

 いてもいなくても変わらないという意味ではなくて、絶対にいなくちゃいけない人だった。私がこの世界で一番、特別に信頼していたのは父だった。この人が誰より正しかった。この人ほど私のことを真剣に考えている人はいないと知っていた。

 その眼差しも、私の名前を呼ぶ声の温度も、私を抱き上げる腕も、私の髪を撫でる指先も、それは一秒も欠けることなく愛だった。父は私をずっと愛していたし、私はそれを知っていたのだ。本当に、疑うことなく知っていたのだ。

 穏やかで口数が少なく、けれど妙なところで頑固な人だった。私はこの人の全てを尊敬していて、大好きだった。


 いなくなっても変わらないなんて、そんなはず絶対にないのに。


 不意に思い出す。こっちに来る前に見た、父の仏壇と遺影のことを。

 私はたまらなく苦しくなって、吐きそうになって、呻いた。膝を抱え、必死にその痛みが過ぎるのを耐えていた。

 パパが死ぬ。死んでいる。たぶん、もう会えない。


 いつの間にか隣に座っていた父が、私の肩を抱き寄せた。私は父の肩に頭を乗せて、「ねえパパ、どうして?」と尋ねた。とっくに答えが出ているのに、それが自分の望むものでなかったからもう一度問いかけたに過ぎない。そして恐らく、もう同じ答えしか出ない。

「混乱させてしまって申し訳なかった」

「それはさっき聞いた。そんなことが聞きたかったんじゃない」

「きみの望む答えを僕は出せなかった」

「…………どうしても?」

「どうしても」

 目を閉じる。静かな失望と、重い絶望が広がる。強い風が吹いて、私の髪をさらっていく。


「私がパパのこと大好きだって知ってた?」

「最初は信じられないと思ったが、どうやらそうらしい」


 ここまでやったら十分だ、と父は穏やかに言う。“ここまで”というのが何を示すのか私にはわからない。

「大好きな人が死んじゃったって急に言われたんだよ?」

「ああ」

「もう手遅れなんだって、たった今手遅れになったんだって、言われてさ」

「そうだね」

「もっと他に、何かいいこと言ってよ。画期的な、全部解決しそうなこと言ってよ。私のパパでしょ」

「ご飯をしっかり食べて、勉強をして、歯磨きをして、よく寝なさい」

「パパなんて大っ嫌い」

 パパなんて大っ嫌いだ、と私はもう一度言う。父は柔らかな声で「うん」とだけ呟いた。


「……パパは、この後どうなるの?」

「きみも知っての通りだ」

「そうじゃなくて、今こうして私と話してるパパはどうなるの? 消えちゃうの?」

「いや…………正しくは、統合されるんだろう。いくつかの世界の夏帆が、きみひとりに統合されたように。僕もそうなるはずだ。傍から見れば消えるのと変わらないかもしれないが」


 サイレンの音が聴こえる。パトカーか救急車か、あるいはそのどちらもが近づいてくる音だ。

 さて、と父が言って立ち上がる。「戻ろうか」と私に手を差し出してきた。私はそれを掴んで、父と歩き出す。


「きみに言っておきたいことがある」

「なに?」

「もしきみのママが、新しく夫となる人を連れてきたら、きみの好き嫌いは別として祝福してあげてくれ。彼女の人生だ」

「それは……保証しかねるかな」

「それで、きみもその人を気に入ったなら、仲良くしてあげなさい。彼女もその方が嬉しいだろう」

「自信がないです」

「いつかきみ自身にいい人ができたなら……そうだな。僕よりきみを大事にする人だと思えなかったらやめておきなさい」

「それじゃ私、結婚なんかできなくなっちゃうよ」


 顔を見合わせる。こんな時なのに、なぜか二人で笑ってしまった。


「謝りたいことがあるの」

「何かな」

「ちょっと一日じゃ足りないくらい。本当は何十年かかけて喋りたいんだけど」

「なるほど。また今度にしようか」

「次に会えるのはいつになる?」

「きみが僕を忘れた頃だ」

「ひどすぎる」


 空咳をして、私は「じゃあ今、一個だけ言っとく」と宣言した。

「パパから貰ったもの、全部素直に喜ばなくてごめん。誕生日プレゼントとか、ほんとはすごく嬉しかったよ」

「えー?」

 なぜだか父は可笑しそうに笑って、「こんな時だからって嘘はよくないな」と言った。

「僕はきみに贈り物をする時、こんなもの喜ばないだろうなってことは知ってたよ。きみが喜びやしないものを贈ると決めていたからね」

「何? 嫌がらせ?」

 こんなことをきみに話すことになろうとは、と父は妙に感慨深そうに独りごちる。「そんなに大したことじゃないんだ」と前置きをして、続けた。

「きみが生まれた時から、『きみが喜ぶものを用意する』という点で僕はきみのママに勝てた試しがなかった。彼女が言うには、そもそも僕にはプレゼントのセンスがないらしい」

「ずっと思ってたんだけど、パパとママってどうして結婚したの?」

「えっ!?」

 珍しくうろたえた父が、「どうでもいいじゃないか、そんなこと」と口ごもる。とにかく、と咳をして話を戻した。

「それなら僕は、きみが一生触れる機会がないかもしれないものをきみにあげようと思ったんだ。きみの世界を広げ続ける役割でいようと。言い訳になるけどね」

「どういうこと?」

「たとえば、きみは子供の頃から花になんかちっとも興味のない女の子だったが、いつか見知らぬ人とも『その花知ってる。パパに貰ったことがある』と話ができたら素敵だなと思った。そんな些細なことでよくて、そんな些細なことで、きみの世界が広がってくれたらなって思ったんだ」

「そんな上手い話あるかな」

「さあ……。少なくとも、好きなものばかり集めた世界は閉じていると僕は思ったし、きみの好きなものであればきみのママが十分に用意していたから、じゃあ僕はきみにとっての未知を集めてこようと考えていただけなんだ。それできみが喜んでくれたらこの上なく嬉しいけど、そうでなくても想定内だった。ここできみに謝られるようなことじゃない」

 私は眉間に皺を寄せてしばらく考え、「今度から私の未知は誰が集めてきてくれるんですか」と尋ねてみる。案の定というか、「自分の手で集めなさい」と一言一句私が想定していた通りの答えが返ってきた。


「遊び場は、広い方が楽しい。広い遊び場には、遊具がたくさんあった方が楽しい。当然のことのようだが、大人になると、それを決めるのは自分なのだということに気づく。知識がないと、そもそも遊び場をそれ以上広げられるということに気づかないし、遊具だって何を置けるのかわからない。忘れないで。きみの未知はいつだって、きみの遊び場で遊具になりうる」

 忘れないでと言っても難しいだろうが、と父は少しだけ寂しそうな顔をした。私は思わず「忘れないよ」と父の手を握る指先に力を込める。「全部忘れないよ」と。

 父は穏やかに頷き、前を向いてまた歩き出す。


「結局のところ、大事なのはそんなところだ。ご飯をしっかり食べて、歯磨きをして、よく寝る。気が済むまで勉強をする。世界を広げ続ける。そしてあまりママを心配させない」

「実績から言うと、今までママを心配させ続けてたのは私よりパパだよ」

「……なるほど」


 彼女には悪いことをした、と父が心底反省した様子で言う。じゃあ家に帰ってきなよ、と言いかけたが言えなかった。代わりに私は、「一つだけ教えて」と父の顔を見上げる。

「過去が変わる前、一番最初に、本当に死んでいたのは誰だったの?」

「…………僕だ。だから、これは正しい世界なんだ」

 嘘だった。そんなはずはない。下手くそで、無意味な嘘だった。それで私は、なんとなく全部わかった気がして、俯いた。


「ねえ、パパ」

「うん?」

「もう何言っても、何やっても、ダメ?」

「うん」


 何も言わず、私は父の胸に抱きついた。“仕方がないね”と父が言ってくれるのを待った。しかし父はまた私を腕に抱き上げて、「僕がこの世界の僕と統合したら、きみはどちらにせよここでひとりぼっちになってしまう。きみはきみの世界に帰りなさい」と言う。

 早足で、父は歩く。私は抵抗せず、かといって従順な態度を取るでもなく、されるがままになっていた。

「またパパに会うにはどうしたらいい?」

「会えない」

「二度と?」

「二度と会えないと思って歩いていきなさい」

「そんなの、耐えられないよ」

「きみはそんなに弱い子じゃない」

「勝手なこと言わないで」

 すると父は私のことを下ろして、私の頬に両手を当てた。私は、すぐ近くにある父の顔を見る。その真剣な瞳を。


 父は言った。「きみは、そんなに、弱い子じゃない」と。


 それは事実を言っているというより、そのような願いを私に込めているというような感触だった。そのような祈りだった。

 私は父を見上げながら、両目から涙がこぼれてゆくのを止められないでいた。わかった、と呟く。「わかったよ、パパ」と。


 父が、私から手を離す。

 私は足元がおぼつかなくなり、下を見る。いつの間にか、暗い海が広がっていた。私は沈みながら、父を見る。


「さよなら僕の可愛い夏帆!」


 父は笑って、手を振っていた。たとえば私が修学旅行にいく日の朝、『楽しんでおいで』と見送ってくれた時とよく似ている。ずっと笑って、ずっと手を振っていた。

 そして瞬きをした次に瞬間には、人ごみに紛れて見えなくなっていた。


 私は泣いて、歩き出す。本当に何もない帰り道、ただ泡だけがキラキラと輝いていた。




@@@@@




 目を開ける。私は起き上がって、周りを見る。どうやら父の書斎らしい。

 どうしてこんなところで寝ていたかわからない。暑さで頭がやられていたんだろうか。

 私はふと、どうしても気になってしまってカーペットの端をめくる。もちろんそこには何もないが、妙に残念な気持ちになった。


 立ち上がって、「あつー」と言いながら階段へ向かった。途中、父の遺影と目が合う。

「パパも暑い? 天国はそんなことないのかな」

 父が死んで二年が経つ。私を守って死んでしまった。あの日のことはよく覚えているし、一生忘れられないだろう。大好きな父が死んだ。耐えられないほど悲しくて、だけど不思議と塞ぎ込むことはなかった。なんでだか、心の奥底で、『そうじゃないよな』と思って歩いてきた。本当に不思議なことだけど。


 自分の部屋に戻り、私は本棚の前に立つ。父の書斎を見たせいか、妙に本を読みたくなっていた。一冊取り出す。これも父に貰ったものだろう。

 裏表紙をめくり、「……あれ?」と呟いた。


 階段を降り、リビングでくつろいでいる母に「これってママに貰ったんだっけ」と尋ねてみる。母は胡乱な目でそれを見て、「私があんたに本なんか買ってきたことある? どうせあんたが読みもしないようなもの、わざわざ買ってくるほど優しくないわよママは」とけんもほろろな対応だった。

「パパに貰ったんでしょう」

「でもこれ、」

 私は本の奥付を見ながら眉をひそめた。「発行日が半年前なんだよ」と言えば、母も僅かに眉をひそめる。

 二年前に死んだ父が、こんなものを買えるはずはない。

「自分で買った、とか」

「こんなの絶対買わない自信がある」

 うーん、と母は記憶を呼び起こそうとし、「おばあちゃんに貰ったんじゃない? なんか……偶然会って」なんて言い出す。おばあちゃん、というのは恐らく父方の祖母のことだろうが、私の記憶では祖母とは父の命日に、つまり一年前に会ったきりだ。


 私はしげしげとその本を眺める。見れば見るほど、父が買ってきそうな本だ。

 諦めてため息をつき、私は本の表紙を撫でる。

「変なの」と言って、ページをめくった。

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