第32話

 俺たちはこの街を出ることにした。観光には悪くないが、食事には向かない街だった。


 タイムリミットまで僅かだ。隣町に移動して、そこで標的を探すしかない。

 宿への近道を探し、細い路地に足を踏み入れる。トタンの補修だらけの壁に両脇を挟まれた、陰気な路地だった。 


「ちょっとそこのお嬢さん」


 突然、若い男の声がかけられた。ナンパか。まぁ仕方ない。ベルカくらいの美少女なら良くあることだ。そんな呑気なことを考えていた俺は、男の服装を目にしてぞっとした。


 黒い詰め襟に金縁の制帽、腰に短剣。警官だ。


「その制服、深松女学院の学生さんですね? こんな時間にこんな場所で、何をしているのかな? 最近は物騒だ、ご家族が心配するよ?」


 警官は質問を畳みかけてくる。ベルカに何らかの疑いをもっている気配がした。質問の答えより、ベルカがどう反応するかに注目している。そんな気がした。


 ▽家に帰る途中だと言え。

「家に帰る途中です」


「こんな時間に?」


 ▽先生の手伝いをしていて、遅くなった。

「先生の手伝いをしていたら、遅くなってしまって……」


 申し訳なさそうに顔を俯かせるベルカに、警官は微笑みを浮かべる。


「それは偉いね。どうだろう、こんな時間にひと気のない場所を女学生さん一人で歩かせるのは物騒だ。本官がお宅までお供しよう。ご自宅はどちらかな?」


 俺はとっさに調べた、周辺の住宅でこの道を通学路にしそうな住所をベルカに教える。適当な場所まで付き添わせれば、相手も満足するだろう。そう思った。


「本郷三丁目の、アパルトマンです」


 滑らかなベルカの受け答えに、ふんふん、と警官は頷く。そして懐から取り出した書類を見つめながら首を傾げた。


「おかしいな。深松女学院の学生名簿には、そんな住所に住んでいる学生さんは一人も居ないぞ」


 ▽コイツ、はじめから……! ベルカ、逃げるぞ。

「うん、」


「おっと、待ってくださいお嬢さん」


 索敵範囲を拡大した俺は愕然とする。路地の出口には、既に大勢の警官が待機していた。電力をケチって周辺警戒を怠っていた自分の無能加減にうんざりする。


「あなたには聞きたいことがたくさんあるんですよ。どうして制服まで盗んで、凶悪事件の犯人や被害者の家を訪れたりしたのか、とか」


 全て、見られていた。いつからだ、いつから監視されていた? いや、そんなことなど今はどうでも良い。とにかくここから逃げなくては。

 だが、この包囲網を突破するには電力を多く消費する。これ以上、無駄な出費は避けたいってのに……!


「ユーリ……」

「さっきから、誰と話しているんです?」


 警官が口を挟む。ベルカがはっとして警官を見てしまう。バカ……!


「これまで何回も、誰かと話していましたよね。相手は《大学》側の人間ですか? 何にしても、詳しい話を伺いたいものですね」


 相変わらず警官は笑顔を浮かべているが、楽しそうでも、嬉しそうでもない。僅かに目尻が引きつって震えている。明らかにベルカを警戒して、怯えを隠そうとしている。


「あなたのような可愛らしい娘さんまで《大学》思想に穢されているなんて、本当に反吐が出ますね。でもね、私は騙されませんよ。あなたのような工作員が、我々の平和を脅かしているんだ。だから、この前みたいな悲惨な事件が起きるんです。我々はあなたたち《大学》側の非道を許しません。これ以上、この街で好き勝手はさせませんよ。この血に飢えた化け物が」


 この若い警官の中では、ベルカは大学側の工作員ということで決まりらしい。引きつった笑みを顔面に貼り付けて、警官は自分の言葉に血圧を上げていく。右手が腰に吊った短刀に伸びる。


「さぁ、ご同行願います。無駄な抵抗はしないで下さいよ」


 警官が近づいてきて、ベルカの腕を掴んだ。反射的にベルカが身を捩ると、警官は気の毒なほど怯えた表情になった。


「抵抗するなと言ったでしょう!?」


 ガツッ、と衝撃が走った。警官が振るった腕が、ベルカの頬を殴りつけて被っていた帽子が宙を舞った。


「ったく、これは正当防衛ですからね。また変なことをしたら……」


 短剣の柄に手を掛けた警官の言葉が途切れる。彼の視線が、ベルカの顔に向けられている。いや、正確には頭の上、そこにある俺の姿に。


「……なんですか、それ」


 警官はぽかんと呟いた。本当に理解できていない顔だった。


「耳? なんでそんな、お嬢さん、あんた一体……」


 混乱する警官を、俺たちは黙って見つめていた。

 揺れていた警官の瞳が、はた、と止まった。


「まさか、お前、人喰い妖精──」


 ▽ベルカ、

「……うん」


 警官の手が震えている。震えながら、必死に短剣の留め金をはずそうと親指が動いている。だが慌てれば慌てるほど、指は留め金の上で滑る。

 慌てふためく警官の前で、ベルカは制服の上着を脱ぎ、ジャンパースカートを留めていたボタンを外す。

 すとん、と脱ぎ捨てられたスカートがベルカの足下で輪っかを作った。


 警官はベルカの行動を、呆気にとられて見つめていた。

 ベルカはリボンタイを解く、ブラウスのボタンを外し、するりと肩から落とす。靴を脱いで、靴下を脱いで、下着も脱ぎ捨てた。


「お、おまえ、な、なにを」


 警官の言葉が止まる。質問の答えが、始まってしまったから。


 すべすべしたベルカの白い腹が裂ける。赤い肉の華が咲くように、亀裂は広がり、足に、腕に、首に、顔に広がっていく。

 肉は膨らみ、絡み合い、強靱な筋組織となって再び皮膚に包まれる。もはやそれは乙女の柔肌ではなく、黒い獣毛に覆われている。


 暗闇に溶け込む異形の姿となったベルカが、標的を見下ろす。


 ▽捕食形態への移行完了。やれ、ベルカ。

「だ、だれか、誰か助──」


 警官が悲鳴を上げる前に、巨大な顎が彼の頭部を粉砕した。 





    * * *





 暗い森の中で、一糸纏わぬ姿のベルカがうずくまっている。


 口を目一杯開き喉に指を押し込んで、胃の中身を吐き出そうと藻掻いている。

 ベルカがえずく。だが何も出ない。当たり前だ。彼女の胃の中に、吐き出すものなど何一つ無いのだから。


 捕食形態で喰い殺した人間は、即座に有機転換炉で電力に変えられ、物質としては完全に消滅する。余剰は生まれない。血の一滴も残らないし、胃の中に肉の塊が収まっているわけでもない。


 だが、ベルカは喉に指を入れる。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、唾液だけを無闇に溢れさせる。

 やがて、ベルカは沢の水で手を洗い、口をすすぐ。口元を拭って、倒れこむように岩に腰を下ろした。


 ▽もういいのか?

「うん。だいじょうぶ」


 ベルカにとって、吐瀉しようとする行為は、自分にのしかかる罪悪感を洗い流すための儀式だった。

 本当は喰いたくなかった、できることなら吐き出したいのだと、身をもって証明できる言い訳が、ベルカには必要だった。


 ▽ずいぶん早かったな。


 前回、人を喰い殺したとき、ベルカは一晩中喉に指を入れ続けていた。あまりの剣幕に、最後は俺が無理矢理やめさせたのだが。 


「だって、今度は違ったから」

 ▽違った……?

「自分で、喰い殺そうって、決められたから」

 ▽いや、でもお前……


 俺は口籠もる。ベルカが警官を喰い殺す直前、俺はベルカに「やれ」と言ってしまった。散々偉そうに説教しておきながら、一番大事なところでベルカの命令者になってしまった。


 ベルカの指が、俺に触れる。艶やかな毛並みを撫でる感触が伝わってくる。


「ユーリが言っても言わなくても、ぼくはあの人を喰い殺すつもりだったよ。だって、決めたんだから」

 ▽決めたって、何を。


 月光が木々のすき間から射し込む。青白い光がベルカと俺を照らし出す。


「ユーリ、ぼくはきみが好きだ。何も知らなかったぼくに、ユーリはいろんなことを教えてくれた。世界の美しいもの、醜いもの、楽しいもの、嫌なもの……。

 世界を旅するなんて、ユーリと出会わなかったら考えもしなかった。一生、《獣堕ち》するまでさまよっていたと思う。

 ぼくはね、ユーリを守りたい。ユーリには生きていて欲しい。そのために、ぼくは死ぬわけにはいかない。ユーリを守れるように、ユーリと旅を続けられるように、ユーリにもっと教えてもらうために。

 そのために、どんなに汚いことでも、自分の手を血に染めてでも、非難されても石を投げつけられても、ぼくは生きることを諦めない」


 誇らしげに言い切ったベルカの頬は、月のように青ざめていた。そこを白い雫が伝う。


「だから、ぼくは、この後悔からも逃げない。あの人は確かに、あの時ぼくたちの敵だった。でもだからってあの人が殺されて良い理由にはならない。でも……ぼくは殺したんだ。生きるために、名前も知らないあの人を喰い殺したんだ」


 刷り込まれた反射で、ベルカの背中が跳ねる。えずいて空虚な嘔吐をしそうになる身体を、力一杯抱きしめベルカは堪える。


 ▽おい、無理するな。

「無理するよ。これ以上、言い訳はしたくないから」


 真っ青になりながら、ベルカは身体をくの字に折る。腹に指を食い込ませ、弱々しい呼吸を繰り返す。

 しばらくして、ベルカは身を起こした。


「みてよ、ユーリ。あと120日も、ぼくらは生きていける」


 傷だらけの声で、ベルカが言う。バイタルステータスは俺たちの安泰を示していた。人を殺め、奪い、圧縮した120日という数字を。


 ▽ああ。お前のおかげだ。ありがとうな、ベルカ。

「は、は……はは、ははは、あはははは」


 ベルカが笑う。ぎりぎりの緊張から解放されて。心から安堵して。


「今のぼくをひとが見たら、きっと化け物だって言うよね。人を喰い殺しておいて、笑っているんだもの」


 ▽……そんなことないさ。


 俺の言葉を単なる気休めと取ったのか、ベルカはまた静かに笑った。肩を揺らして、眉根を下げて、頬を濡らして、泣いているような声で、ベルカは笑った。


 その姿が俺にはどうしても、人間くさく見えてしまうのだった。




 第二章 可害者 Looking for a Scapegoat 完

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