第25話
小屋の居間に場所を変え、ルゥは契約書を俺たちに手渡した。
書面の内容は、小屋の賃貸契約書。
ルゥの身体の一部――つまりビルの一部である小屋――を間借りすることを、俺はルゥに要求した。
「別に、譲渡でもいいのよ? この契約だと、少ないけど家賃も払うことになるけど」
▽いや、これでいいんだ。
「そう? まあ、ユーリがいいなら、あたしはそれでいいけど」
「ユーリ……」
▽どうした?
やりとりの間中ずっと黙り込んでいたベルカが、口を開いた。
「ユーリ……、ひょっとして、ユーリは……」
ベルカの声は震えていた。
「旅を、やめたいの?」
そこで俺はようやく気づく。
ベルカが、まるで親に捨てられた子どものように、不安と恐怖の色に瞳を染めていることに。
「ユーリは、ここに住むの? ルゥなら、そういうことができるの? ユーリは、ぼくと離れて、ひとりで、ここに」
ベルカの口から言葉が溢れ出してくる。
「ねえ……そうなの……やっぱり、ユーリは、ぼくのこと……」
そこで言葉が止まる。ベルカの両眼に涙が溜まり、零れ落ちる。ひどく冷たい涙だった。
「嫌い、なの?」
▽な、何言っているんだ、お前……
何かが引っかかっている。何かを忘れているか、思い違いをしている。そんな僅かな引っかかりが、どこかにあった。
「ユーリは言ったよね、「もし身体があったら」って」
存在しない頭を、殴られた気分だった。
あぁ、ベルカはやっぱり覚えていた。忘れるはずがない。それくらい、ベルカにとって重要な話題だったのだ。
「ユーリの身体は、ぼくが奪った。ユーリの身体は、もうない。だから、ユーリは、嫌でもぼくと一緒に居なきゃいけなくて、それが嫌で、そんな風にしたぼくのことが嫌いで、離れたくて……」
▽嫌いなんかじゃない!
「でも、じゃあ、なんで……」
▽羨ましかったんだ。ルゥがお前を抱きしめるのが。俺には手も足もない。口を利くことしか出来ない。お前がどんなに辛くても、抱きしめることも、頭を撫でてやることも出来ない。それが出来るルゥが、羨ましかったんだ。
▽でも、だからってお前を嫌ったり恨んだりはしない。できるはずがない。だってそうだろ? お前があのとき俺を喰わなければ、俺は今ここにいない。お前だってきっと飢え死にしていた。だったらあの時の選択は、何一つ間違っちゃいない!
叫びながら、俺は後悔する。思い知る。
なんと言おうが、俺がベルカを傷つけた事実はなくならない。俺の不用意な言葉のせいで、ベルカの心に影を落としてしまった。
必死になって説明すればするほど、本当に大切なものが零れ落ちていく気がした。ベルカが遠のいていくような気がした。
「ちょっと待って」
突然、ルゥが声を上げた。
「話がこんがらがっている気がするの。すこし整理させて。ユーリ、あなたは旅をやめたいわけじゃなくて、ただ小屋が欲しいだけなのね?」
▽そうだ。俺はただ……
「ただ?」
▽戻る場所が欲しかったんだ。
「戻る場所?」
▽このビルなら、ルゥがずっと管理してくれる。今回の出来事みたいに、誰かに奪われたりしない。
▽それに……これが一番大事なんだが、俺たちの事情を知っていて、気づかってくれる人がいる。そんな場所、簡単には見つからない。
▽俺たちは一箇所に留まれない。でも、同じ場所に戻って、立ち寄って、軽くお茶することならできる。
▽俺たちはいつ死ぬか分からない。そして、死んだらきっと俺のことを覚えている人間はほとんど、いない。
▽俺一人なら、それでも構わない。でも今はベルカがいる。もし俺とベルカが死んでしまったら、ベルカを覚えている人は誰もいない。ベルカのことを思い出し、懐かしみ、もしも訃報が届けば悲しんでくれる。そんな存在がいて欲しいんだ。
この小屋を俺とベルカが借りれば、ルゥはここを管理する義務がある。
住人がきちんと家賃を払えているか、その生存や状態を気にする必然性が生まれる。たとえ、俺たちとの関わり合いをこれ以上望んでいないとしても、ビルの管理AIとして刻まれた命令がそれを許さない。
▽押しつけがましくて、ルゥにとって迷惑な理由かもしれない。だけど、ベルカと俺のことを覚えてくれている人が「おかえり」って言ってくれる場所が欲しいんだ。
自分勝手な言い分なのは百も承知だ。百パーセント、俺のわがままでしかない。
「旅をやめたいからじゃなくて、旅を続けたいからこそ、ってことね」
▽あぁ。
不安に押しつぶされそうになりながら、俺はルゥの返答を待つ。
ルゥが微笑む。
「「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」は、あたしにとって一番たいせつな言葉よ。それを言う機会が増えるなら大歓迎」
どっと、肩の荷が下りた気がした。俺に肩はないから、気だけだが。
▽ありがとう。
「どう、ベルカ? ユーリの言いたいこと、解った?」
「……うん。でも、」
ベルカはまだ納得できていない。ベルカはまだ安心出来ていない。
「それじゃ、次。ベルカは、ユーリがあなたのことを嫌っていると、そう思ったのね?」
他人からはっきり言われると、かなり堪える。
怯えたまま、ちいさくベルカは頷く。
「でも、ユーリはそんな風には思ってない。そうでしょ? ユーリ」
▽ああ、そうだ。
「ね? でも、これだけじゃベルカも安心出来ないよね。言葉だけじゃなくて身体で、ユーリの気持ちを感じなきゃ」
ベルカが上目遣いでルゥを見て、首を傾げる。
「ベルカを抱きしめたい、っていうユーリの気持ち自体は本物なんだもの。それを叶えてあげなきゃ、二人ともモヤモヤが残るんじゃない?」
「それは、そうだけど……でも」
ベルカが言い淀む。ルゥの言うことは正論だ。でも、それを叶える方法がない。俺に腕がない以上、ベルカを抱きしめることはできないんだ。
「方法なら、あるわ」
▽は?
ポカンとする俺たちに、ルゥが色っぽくウィンクする。
「あたしのカラダ、好きにさせてあげる」
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