流星の音
hibana
流星の音
六歳の北村怜は舞台の袖で、「いやだ。いやだ。出たくない」と泣いていた。母親が腕を引っ張る。「あんたにいくらかけてると思ってるの。我儘言わずに弾きなさい。ピアノ弾きなさい」と怒鳴る。
怜は泣きべそをかきながら舞台の真ん中の大きなピアノの前に立った。椅子に腰掛け、鍵盤の上に手を置く。押し殺した声の代わりに音を鳴らす。誰もが彼を見ていた。誰も彼を見ていなかった。
神童と謳われた北村怜という少年は、この頃から急速に“個”を失くしていく。それと比例するかのように、才能は開花していった。
そして北村怜、十六歳。その頃にはもう彼は、すっかり自分の声というものを失くしていた。
当然のように友人も恋人もいない。子供の頃比較的仲の良かった同じピアノ教室の子供たちは、今ではみんな怜のことを目の敵にしている。誰もが『同じコンクールに出ないでほしい』としか思っていないようだった。
ピアノというものに、勝ち負けがあるせいだと怜は考えていた。そもそも怜には、ピアノの上手い下手がわからない。確かにつまらない演奏というものは存在するけれど、周囲の話を聞く限りそれは上手いか下手かとは全く別の話らしかった。
ピアノは嫌いじゃない。むしろ怜の人生において、一番楽しいのはピアノを弾いている時間だった。そこには多分に消去法による取捨選択があったが、とにかくピアノを弾いている時間だけは楽しかった。
ピアノを弾く。それ以外にやることがない。ピアノを弾く。自分が思う一番美しい音を。
学校には通っていた。誰もが彼を腫れ物扱いし、教師ですらほとんど彼に声をかけなかった。母親がすぐに口出ししてくるといった理由もある。
ただ授業を聞き、時々テストを受け、進級する。どこでも出来ることを、彼はわざわざ学校まで足を運んで行っていた。不良の同級生に絡まれたこともあったが、怜が殴られるなどすれば途端に母親がすごい剣幕で学校に押しかけるせいで直接的な暴力などはなくなった。それ以外は、心底どうでもいい。
学校へ行き、家に帰り、運が良ければ用意されている夕飯を食べ、そうでなければ弁当でも買って食べて、ピアノを弾いて寝る。それだけの毎日だった。退屈なピアノの音色みたいな日々だった。
怜の出なくなった声について、一応というか医者がついている。それは恐らく精神的なものだろうとされており、治すためというよりは悪化しないよう定期的に現状を確認する儀式のように思われたが、診察を受けていた。
ある日の診察の帰り、怜は病院の中庭を訪れた。この病院の中庭は緑が多く涼しいため、かなり気に入っている。何より小さなピアノが置いてあった。
ほとんど野ざらしの、旋律も何もしていないだろうピアノ。もちろん弾いたりはしない。ただ妙な親愛の情を持ちながら、怜はそれを眺めていた。
「おにーさん、ずっとそれ見てるね。ピアノ弾く人?」
あまりに仰天して息を呑む。まさかと思ったが、少女がこちらを見て話しかけてきていた。なぜ自分に? という疑問でいっぱいになり、反応が遅れる。
「ピアノ、弾く人?」
再度問いかけがあった。怜はゆっくり後退する。それからダッシュで逃げた。
病院の外まで行ったところで、怜は呼吸を整える。肺が痛かった。久方ぶりに全力で走ったせいだ。
それから頭を抱える。ほとんどパニックになっていた。なぜだか『見つかった』という思いで恐怖すら覚えている。
なぜ彼女は自分に声をかけてきたのか。
ゆっくりと息をする。自分の中にある恐怖が、とんだ勘違いからたんを発することに気づく。怜は自身について、ある意味で透明な存在であるかのような幻想を抱いていた。見知らぬ人間に声をかけられるわけがないと。そして、そうではなかった。それだけの話だ。
それだけの話であるなら、自分はこんなところで何をしているのか。『ピアノが弾けるのか』という問いにすら答えられないのなら、自分に一体何が残るだろうか。
何も、残りはしないだろうな。
踵を返し、恐る恐る病院の中庭まで戻る。少女の影はない。見つかる前に一曲だけ弾いて帰ろうと思った。完全なる自己満足である。ピアノの蓋に触れた瞬間、背後から「おにーさん」と声をかけられた。今度こそ飛び上がる。
「急に話しかけちゃってごめんなさい。戻ってきてくれたの?」
怜は小さくうなづいた。それから、自分は君の言う通りピアノを弾けるのだと伝えようとする。しかしながら相変わらず声は出ないし、北村怜という人間はコミュニティの一切から排除されコミュニティの一切を排除したばっかりに筆記用具の一つも持たず、携帯電話の必要性も理解していなかった。
いいよ、と少女は言ってこの場にそぐわない色彩の何かを差し出した。それは、どうやらピエロの顔のお面のようだった。
「ピエロって普通喋らないでしょ? だから、それつけてたら喋らなくてもおかしくないよ」
まずその理屈がおかしい。ピエロの面を被った男は、普通病院に出没しない。
しかし怜は────その状況を何とか打開したいばかりにその面をつけた。それからぎこちなくお辞儀をし、ピアノの蓋を開ける。鍵盤に触れた。さすがに掃除ぐらいしているのか、それほど汚くはなかった。
ベートーヴェン、バガテル第25番『エリーゼのために』
音が鳴る。酷い音だ。しかし聴けない程ではない。たっぷり三分。丁寧に弾く。余韻と共にゆっくり手を離せば、澄んだ拍手が響いた。
「え、おにーさんガチの人?」
少女は目を輝かせている。怜は頭を掻いた。『じゃあ僕はこれで』という仕草で帰ろうとする。待って、と少女に腕を掴まれた。
「ここで“エリーゼのために”を弾かれるとは大層ロマンチストの方とお見受けしました」
怜はぽかんとする。お面のせいでその表情は見えていなかっただろうが。
「クラシック以外も弾ける?」
ちょっと考えて、頷く。童謡なら全般的に弾ける。子どもの頃には課題曲の多くが童謡であったりした。
すると少女は嬉しそうな顔で「これ弾ける?」と携帯電話を見せてくる。どうやらアニメ映画の主題歌のようだ。怜は困惑した。この映画は観たことがない。黙り込んでしまった怜を見て、少女も察したのか「見たことないですか? いい映画ですよ」と言った。
綺麗な音楽が流れる。携帯電話を持つ必要性を感じていなかったが、どこでも音楽が聴けるのはいいなとちょっと思った。
少女が「あっ」と声を出す。「このあと検査なんだった。また後で」と言って去って行ってしまった。仮面を返す暇もなかった。
家への帰り道、怜はぼんやりと空を見ながら歩いた。
『大層ロマンチストな方とお見受けしました』
ロマンチスト、とは。不思議な響きだと感じる。そもそも怜はこれまで、自身の個に対する特徴というものをほとんど“ピアノ”と“なぜか喋らないやつ”ぐらいしか持ち合わせていなかった。ロマンチスト――――なのだろうか、自分は。考えたこともなかった。
家に帰ると、母の話し声が聞こえた。誰かと電話をしているようだ。
「そうよ。ほんとよ。あんな大きくなっちゃって。神童だなんだってちやほやされてたのって、まだ可愛かったからじゃない? もう無理よ、可愛くないもの。売り方考えないと。腕だけはあるんだから。そんなこと言って、実際あんなのの親になったら大変よ。喋りもしないんだから。ほんと世話が焼ける。うん……そうね。ありがと。もうちょっと頑張ってみる。うん。またね」
母が振り返り、そこに立っている怜を見て小さく悲鳴を漏らした。それから目を怒らせて「何突っ立ってるのよ。帰ってきたんならただいまぐらい言ったらどうなの?」と言って目の前を通り過ぎて行った。
今夜は夕飯はないようだ。部屋に戻ってカップラーメンを食べることにする。
ピアノを弾く。いつからか電球が一つ切れていて、部屋は少し薄暗い。ピアノを弾く。自分の思う、一等美しい音を。
ダンッと鍵盤を叩いた。聞くに堪えない醜い音が響く。怜はそのまま頭を抱えて、出もしない声を押し殺す。縋りつくように紙とペンを取り、ぐちゃぐちゃにインクを消費する。何枚も何枚も、紙を丸めて捨てた。
最後に震える字で、『お母さん』と書いた。
『お母さん 僕は、誰も傷つけずに死ねたら幸せです』と。
いつの間にか、ピアノの蓋に突っ伏して寝ていた。部屋は柔らかな朝日に満ちている。寝不足の目をこすりながら、ピアノの蓋を開けた。
あの子が聴かせてくれたあの曲を、僕が弾いて聴かせたら喜んでくれるだろうか?
怜はピエロの仮面を被り、その日も病院を訪れた。中庭には誰もいない。何も言わず、例の曲を弾く。正直、一度聴いただけの曲で自信はない。映画も観ていない。観るすべがない。
8分ほどの曲だったはずだが、よく覚えていなかったのでサビしか弾けなかった。一度弾き、誰も来ないのでもう一度弾いた。三度目。馬鹿馬鹿しかった。どうして自分がこんなにも、自分のピアノを人に聴かせたがっているかわからなかった。
そして立ち去ろうとしたその時、「待って!」と声が聞こえた。
「ありがとう! 本当にありがとう! とっても素敵だった」
その少女の顔を見た瞬間、怜はこの曲の全てを覚えて弾かなかったことを恥じた。どうせならちゃんと、聴いてほしかった。
少女は慌てた風に中庭を突っ切ってきて、怜の手を握る。
「昨日初めて聴いた曲だよね? 練習してきてくれたの?」
怜は頷く。少女は目をキラキラと輝かせて、「よかったら、一緒にこの映画観ませんか? DVDがあるから」と提案してきた。それはつまり、彼女の病室に入るということだろうか。さすがに驚いて、拒否しようとする。しかし身振り手振りが勘違いされたのか、少女は嬉しそうに「こっちです」と怜の手を引いて歩いた。
少女の病室は個室だった。女の子の部屋に入った気まずさで汗が止まらなかった。しかし少女は、まるで当然のようにベッドの横のテレビをつけてDVDを入れる。怜が何か言う暇もなく(何も言えやしないのだが)映画が再生される。
確かにいい映画だった。アニメーションの技術も、声優も、ストーリーも、何より音楽がとても美しい作品だった。
エンドロールを見ながら、少女は言う。「世界って勝手には変わらないんですよね。自分で変えようと思わなきゃ」と。
ふと、病室の扉が開く。年配の男性が入ってきた。少女が『げっ』という顔をして、「お父さん……なんでこんな時間に?」と聞く。少女の父らしき男性は怪訝そうな顔をして「その子は誰だ? その妙ちくりんな仮面、お前のだろ。なんでつけさせてる?」と怜を見咎めた。怜はただぺこぺことお辞儀をして、そのまま病室を出た。背後から「あーあ」という少女の声が聞こえた。
ピアノを弾く。暗い自室で一人。もうすぐまたコンクールがある。
今度のは地元のテレビ局で生放送するからいつも通り優勝してね、頑張ってね、と母が上機嫌に言っていた。勝つために弾くということがそもそもわからない。基本的に怜にとってピアノは何のために弾くものでもなかった。本当に、他にすることがなかったから弾いていたのだ。
ふと、少女から渡されたピエロの仮面を手に取る。それを被って、またピアノを弾いた。ピエロなら、誰かを楽しませなければならない。こんな風に弾けば陽気だろうか、こんな風に弾いたら楽しいだろうか。どこか海外の大きな広場で踊るようにピアノを弾くピエロを想像する。
案外、誰かを楽しませるために弾くピアノは、自分のことすら楽しませるのかもしれなかった。
その日から怜はピエロの面をつけて日常生活を送るようになった。彼はそれをつけている間、自分の内面ではなく外側を向くことができ、『誰かを楽しませるピエロ』というキャラクターになりきることができた。それで喋れなくても、あの少女の言う通りピエロというキャラクターの妥当性で誤魔化すことさえできた。
もちろん母は彼を異様なものとして見て、彼の主治医に強く訴えた。しかし彼の主治医は、『悪化しているようには見えない。むしろ好転にすら見える』と話した。やがて母は無関心となり、「案外ウケがいいかもね」と言い出すようになった。
級友たちの反応は様々で、面白がって絡んでくるタイプであれば怜も面白おかしく身振り手振りで返すようにした。ピエロだから、そうすべきだと思った。中にはやはり面白く思わずに、悪し様に言う生徒もいた。直接的に暴力を振るってくる者もいたが、怜は決して仮面を外さなかった。恐らく学校内外から『あんなものをつけて登校することを許しているなんて公平でない』という声は上がったろうが、それで学校から怜の方に話があったことはなかった。
ピエロであればピアノの他に大道芸が出来た方がいいのではないかと思い、本を買ってバルーンアートを覚えた。それを少女の前で披露すると、少女は豪快に笑って「ストイックですねえ」と言った。どうやら自分はストイックらしかった。
少女とはあれ以降も親交を持っていた。さすがに病室まではいかなかったが、彼女の前でピアノを弾いたり、彼女が勧める本を読んだりした。怜が喋れなくなってからというもの、初めての友人だった。
彼女と一緒にいる時間は心地よかった。会話ができないゆえに通常早いうちに知るはずの情報――――つまり名前や歳などそういった情報をお互いに知らなかったが、それでも楽しかった。毎日会いたかった。いつも学校が終わるのが待ち遠しかった。
ある日少女は言った。「私、明日手術を受けるんです。頭の手術」と。
「失敗したら死ぬか、目が覚めないかも。成功したらその時の状況によって他の病院に移る。どちらにしても、もうこの病院で会えなくなっちゃった」
ショックだった。怜はうろたえながらも、その時には持ち運ぶようになっていたペンと紙で『頑張って』と書いた。
『頑張って。きっと成功する。絶対に』
少女はそれを見て、うんうんと頷いて見せる。
沈黙が辺りを包んだ。「あのっ」と彼女の声が上ずる。
「携帯持ってますか? メール……アドレス、交換しませんか」
怜は仰天し、それからひどく自分を情けなく思った。現在に至るまで怜は他人とのコミュニケーションを必要とせず、それを所持するに至っていなかったのだ。『ごめん、携帯は持ってない』と書けば、今度は少女の方が大きなショックを受けたようだった。それから口をパクパクさせて、「……ですかぁ。そっか。ごめんなさい、変なこと言っちゃって」と立ち上がる。
「じゃあ、また」
去って行く少女の背中を見ながら、怜は呆然とした。そして、彼女が勘違いをしていることに気付く。恐らく彼女は怜が本当に携帯電話を持っていない、とは思わなかったのだろう。怜の返答を、今後の関係に対する拒絶と取ったのだ。
追いかけなければならない、と思った。そうではないのだ。ただこれは、ただ今まで怜が、人と本気で向き合ったことがないという証左でしかないのだ。
病院の受付で、何とか紙に書いて見せる。彼女の名前も知らないので、外見の特徴と、明日手術を受けるらしいことだけを書いて『この人と話したい』と訴えた。そんなもの取り合ってもらえるはずもなく、ただ受付の女性を困らせただけだった。
「お兄さん」
ハッとして振り返る。少女が立っていて、何か紙を差し出していた。彼女の名前、それからメールアドレスらしい文字列と、電話番号が書いてある。
「携帯もなくて、パソコンもないの?」
頷く。
「じゃあメールは無理だね。電話……してくれますか?」
怜は悩んだ。なぜ今までこの問題を本気で考えてこなかったのかと自省する。少女はその紙を怜の手に握らせながら、「私は手術を受けるためにずっと遠くから来たから、手術のあとどこにいるか私自身もわからない。元いたところに戻るかもしれないし、こっちの方に引っ越すことになるかも。私、もし無言の電話がかかってきたら今自分がどこにいるか言います。それがあなただったら、会いに来て」と話した。
怜は顔を上げて、彼女の目を見る。それがどれほどリスクのあることか、怜にもわかる。彼女にそんなことを言わせた情けなさで拳を握った。彼女はふっと息を吐いて「しばらくはそれで我慢しますから、早いところ携帯持ってくださいね」と笑う。怜は何度も頷いた。
家に帰って、母に『携帯電話が欲しい』と訴えた。母は何でもないように「いいわよ」と答える。
「ああ、でも今度のコンクールで一番になったらにしましょっか。一応ね」
怜は了承した。恐らく、母にとっては心底どうでもいいのだろう。契約が面倒という程度の気持ちしかないに違いない。ここでごねてもいいことは何もない。コンクールは一週間後だ。それくらいは待てる。
次の日、公衆電話から彼女の番号にかけたが繋がらなかった。手術はどうだっただろうか。コンクールなんかよりもそれが気になって仕方ない。病院に聞きに行ったがもちろん教えてもらえるようなものではなく、ただ毎日電話をかけるしかなかった。
コンクールの前日、電話が繋がった。『もしもし』と聴こえた声が彼女のものではなかったため、怜は軽くパニックになった。黙っていると、受話器の向こうから『……ずっと非通知でかけてきているのはあなた?』と落ち着いた女性の声が響く。
『あなたは、誰?』
答えられなかった。
『……娘は、まだ目を覚ましていないのよ。あなた、ピエロの子ね?』
電話越しに頷く。それが伝わったはずもないが、電話の相手はほんのり涙まじりの声で『どうか、また電話をしてきてちょうだい。迷惑ではないから』と言った。
時間が来て、電話が切れる。怜は受話器を握りしめたまま俯いた。涙が頬を伝う。自分がなぜ泣いているのかわからなかった。一言でいえば、不安だろうか。不安という感情がここまで心臓に絡みつくような痛みを伴うことを、怜は知らなかった。
コンクールの当日、怜は正装に着替えて舞台の袖にいた。ピエロの面をつけて、である。
正直に言えば、心ここにあらずであった。舞台に上がる前に「あんた話聞いてんの?」と母が話しかけてきたほどだ。そもそも今日この日を、楽しいと思えていなかった。一体誰に聴かせようというのか。誰が聴いているというのか、怜のピアノを。
前の参加者が終わったところだった。彼は幼い頃、怜の友人だった。今ではすれ違っても話すらしない。大変に憎まれていることを知っていた。
彼の今日の演奏は怜からすれば悪いものではなかったが、本人はひどく落ち込んだ様子で、周囲も妙に気を使って『次がある』と励ましていた。ふと、目が合う。彼は不思議と醒めた目でこちらを見ていた。どうすればいいかわからなかった。かつて確かに友人だったのだ。ここで無視をしては、今までと同じだと思った。ピエロの面を取ろうとして、少しだけ彼から視線を外す。
「何してるのっ、やめなさい!」と、人の怒鳴り声が聞こえた。
瞬間、どんっと力強く押されて尻もちをつく。仮面が転がっていった。腹が熱い。赤い。服が一気に濡れる。包丁が刺さっているのだと認識した瞬間に――――なぜだろうか。心がすっと軽くなった。
「なんだそれはきみっ、きみがっ、なんだそのっ、変なピエロの……ばかにっ、ばかにしやがって。お前以外はみんな真剣にやってんだよッ。それなのに、おまっ、お前は! 真剣にやってても、ぼくはお前に勝てない!」
少年はすぐ取り押さえられた。「救急車呼んで」と怒声が飛ぶ。
怜は自分で包丁を抜いて、立ち上がった。ピエロの面を拾う。それからゆっくり、光の差す方へ歩いた。赤い滴がぽたぽたと落ちる。
観客の前で、怜はピエロらしく深々とお辞儀をした。ざわついているのは怜の赤く染まった服が見えているからなのか、怜がピエロの面をつけているからなのか、声の質からすると後者だろう。
ピアノの前に腰かける。鍵盤に手を置いて、一呼吸置いた。
ベートーヴェン。エリーゼのために。
ピアノを弾く。ひとりで弾く。自分の思う、一等美しい音を。
君が聴いてくれたらいいな。とても素敵だな。僕の人生において、君の前で弾いたピアノが一番美しかった。あの、調律も滅茶苦茶で音から古ぼけていた小さなピアノの、それでも僕の至高だった。
一つ一つの音が輝く。繋ぎ合わせて、透明な水のようになる。エリーゼのために。情熱をひた隠すかのように穏やかな、しかしどこかで燃え上がりたそうな、美しい愛の音。
曲は終わっている。一瞬の沈黙の後、鍵盤を鳴らす。瞬くように煌めく。今度の曲は、モーツァルト。ハ長調 K. 265――――きらきら星変奏曲。
この曲は元々、フランスで流行っていた恋のうただった。『"Ah! Vous dirais-je, Maman"(あのね、お母さん)』それが元の曲だ。お母さん、聞いてほしいの。私が何に苦しんでいるか。恋が心をくすぐると、こんなに甘い気持ちがする。
それがやがて英語で替え歌が作られ、『"Twinkle, twinkle, little star"(きらめく小さなお星様)』となった。煌めく煌めく小さな星よ、あなたはいったい何者なの?
日本ではこうだ。『きらきらひかる、おそらのほしよ。まばたきしては、みんなをみてる』『きらきらひかる、おそらのほしよ。みんなのうたがとどくといいな』
全て君にあげよう。だからきっと目を覚まして、僕のお星様。君に届きますように。
十分。彼は最期の十分をそこに捧げた。本当はもっと弾きたかったが、時間がなかった。
拍手が起こる。いい演奏だったろ? と怜自身思った。
立ち上がると、体が大きく傾く。平衡感覚が保てない。血だまりに足を滑らせて、椅子ごと倒れ込んだ。
何も聞こえない。なぜかこんな時に役立たずの喉が震えて、声が出た。「きらきらひかる、おそらのほしよ」とかすれた声が。
幕が下りてゆく。ピエロらしく最後のお辞儀が出来なかった。仮面が転がっているのが見える。手を伸ばしたが届かなかった。
「あー、楽しかった」
本気でそう思った。
お母さん。僕は、きっと知らずに誰かを傷つけ続けたけれど、それでも誰かのためにピアノが弾けて、とっても――――とっても、幸せでした。
流星の音 hibana @hibana
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます