漫ろ雨ーⅡ

『続いてのニュースです。多くの人々を人食いへと変える未知のウイルス。他国に比べて被害の多い日本は、他国からのバイオテロではないかと疑念を抱いており、官邸は遺憾の意を示しております』


 人為的疫災バイオテロ

 生物学的危害バイオハザード

 様々な憶測が飛び交っているが、真相は定かではない。


 いつからか、世界各国で流行り出した病。

 精神的負荷ストレスを受けて繁殖し、人を犯す病原菌は、人を人ならざる者へと変質させた。


 同族を食い殺す人食いとして。

 もしくは、人食いに立ち向かえる力。異能を発現させる異能者として。

 病に負ければ人としては死に、病に勝っても人ならざる人と戦う事を強いられる。

 そんな非常識が常識として罷り通るようになってから、問題が解決せぬまま月日が経ち過ぎて、人々はもう不条理とさえ思わなくなってしまった。


 異能者は異能を操る証として首にチョーカーを付けられ、自分の手で外す事が出来ない。

 人食いの近くにいれば、否応なしに戦う事を強いられる。

 だから常人にとってだけではない。戦いを恐れる気の弱い異能者からしても、彼は救世主だった。


 名は、レインウォーカー。


 雨と共に現れ、雨と共に去る最強の異能者。

 経歴不明。詳細な異能の内容も不明。

 何処からともなく現れて、雨のように戦場を洗い流す孤高の戦士。

 彼に憧れ、人食いと戦う勇気を貰った異能者も少なくない。


 そんな日本の救世主は、今日も戦いの始まりを自らに告げるルーティンとして、例の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。


「今日も雨、強いですね。いつも同じ傘を使ってるみたいですけど、買い替えたりは?」


 首を横に振る。

 式守しきもりは嬉しそうにしてからカウンターの奥に消えると、レインウォーカーの名前――本名のイニシャルが入った傘を持って来て、手渡して来た。


「どうぞ。日頃の御礼です」

「……あなたを助けたのは、一度だけです。貰えません」

「でもいつも、多くの人を助けているでしょう? 全員が全員御礼を出来てるわけではないので、是非」

「……いくらですか」

「四八〇円ですよ」

「コーヒーじゃなくて、傘です」

「御礼なんですから、御代なんて頂きませんよ。御礼じゃなくなっちゃいます」

「……ありがとう、ございます。ごちそうさまでした」

「フフッ、久し振りにたくさん話しましたね。あめ――レインウォーカーさん」


 コーヒー代だけを置いて、喫茶店を後にする。

 水溜りから戦場へと飛んだレインウォーカーは、自分のイニシャルが入った傘を暫く見つめた後で、水溜りへと視線を落とす。


 幾つもの戦場、人食いの蔓延る場所があったが、最も過酷で最も熾烈極める戦線を選ばねばならない。いつしかそう言った戦場を選ばないと、後で色々と選ばれるようになってしまった。


 持っていたビニール傘を捨て、貰った方の傘を持って跳躍。

 水溜りで見た光景に見覚えがあった事から、水溜り経由で跳ぶより走っていく方が速いと考えて、雨粒を足蹴にして走って行った。


 ガラス張りのオフィスビルに、白いレインコートの像が映る。

 立て籠っていた人々は救世主の登場に喜び、冷静さを欠いてガラスに張り付いた。

 彼らの視線から敵の位置を把握。ビルのガラス窓を足蹴に跳んで、腰に添えた傘を強く握り締めた。


 敵は、多頭の黒犬。

 大きさは五階建てビル相当。胴の長さは六両編成電車並。

 人食いの中でもかなりのサイズだ。大量の人を既に食い、今も尚多くの人を食っている。頭が五つもあるのだ。相当な大食らいだろう。

 多くの人を食らった人食いは、異能を持つ。警戒レベルマックス。一撃で決めんと風を切る。


 頭の一つが持ち上がる。

 空を見上げようとしたその脳天に傘を突き立て、頭蓋を砕いて破裂。詰まっていた脳漿や目玉が周囲に飛び散り、残り四つの頭が激痛で吠え、唸り、血塗れの歯を食いしばった。


 雨と血に塗れた地面を滑り、止まったと同時に跳躍。噛み殺そうと牙を向けて来た犬の下顎を蹴り上げ、血を噴き出しながら持ち上がった首の付け根に刺突を打ち込み、浮かんだ体に斬撃を叩き込む。


 血を噴く四つの頭を順に足蹴にして跳び、頭上より遥か上を取ったレインウォーカーの傘が、一番先に上を向いた頭を縦に両断。

 血で左右にズレて崩壊する顔の半分が、自重に耐え切れず首から千切れ落ちて、激痛に悶える人食いが再び吠えた。


 が、そこで真ん中の犬が目を光らせて吠える。

 すると潰された二つの頭が生えて来て、五つに戻った頭が吠えた。


 再生能力。

 だが、百人近く食った人食いは大抵持っている。そこまで珍しくはない。

 尤も今回の場合は、敵の巨体が厄介になっている。斬るにしても殴るにしても、ダメージとして通用させるにはかなりの威力を必要とするだろう。


 ならば、その威力を出し続けるまで。


「~~」


 最近お気に入りの曲を鼻で歌う。


 傘の柄を持ち、振り回し、ゆっくりと目の前へ歩み出るレインウォーカーにのみ意識を集中させた人食いは、五つの頭で牙を鳴らし、隆々とした筋骨の塊が如き四足を踏み出して迫り来た。

 彼にとってただの害虫でしかなかったろうレインウォーカーが、敵になった瞬間である。


 獣が吠える。

 爪を伸ばして振り下ろした一撃が、小さな体躯を圧し潰した――と、誰もが、人食いすらも錯覚する中、レインウォーカーは雨を足蹴に跳び、人食いの真正面に。

 雨粒を足蹴に真っ直ぐに跳んだレインウォーカーは抜刀。振り払った傘の一撃で上段三つの首を一度に両断し、刎ねた首を空高く吹き飛ばした。


 が、残った頭が吠えると共に刎ねたばかりの首が三つとも生える。

 しかし雨粒を足蹴に翻り、回ったレインウォーカーの二撃目が下段二つの首を一蹴。打ち込まれた斬撃は首を刎ねるに留まらず、胴を穿つように打って吹き飛ばし、巨体に尻餅を突かせた。

 すぐさま三つの首が二つの首を生やすが、五つの顔は同じ光景を見る。


 降り頻る雨の中を跳び、迫り来る血塗れのレインコート。

 白の中に人食いの血の色のである赤紫が入って、異様な様に映る。

 得物にしている傘には刃もなく、鈍器として機能出来るだけの重さもないはず。なのに先から何度も首を刎ね、体を打ち払い、動かして来る。

 再生しても、再生しても、再生しても、同じ――寧ろより重く鋭い一撃で、体を削いで来る。

 自分より小さく、弱いはずの存在に覚える感情はただ一つ。


 恐怖。


 最早記憶もない過去の自分と同じ人間に、搭載されていて許されるのか疑問符さえ浮かぶ圧倒的な力。

 どんな異能かもわからないが、この際どのような異能かなど些事。

 圧倒的膂力と速力から繰り出される斬撃と殴打とが、それらを繰り出す傘が怖い。

 傘を奪おうとしても、その傘によって足が両断され、余計な再生を強いられる。


「――」


 何か言われたが、何と言ったのかわからない。

 言語理解能力を自分が失ったのか、恐怖に負けた心が理解する事を諦めたのか。獣は人食いになって久しく、本能ではなく、理性に従って考えた。


 が、考えれば考えるほどに鮮烈に感じる恐怖。

 考えれば考えるだけ理解出来ず、より深い恐怖へと沈んでいく。


 何度も、何度も、何度も何度も何度も、首を刎ねられる。

 再生した先から刎ねられて、再生しては刎ねられる。そしてまた再生して、刎ねられる。

 やがて戦場は人食いの血と雨とに濡れて、まみれて、汚泥の溜まった砂場のようにドロドロとした物で埋め尽くされていった。


 そうして人食いは、恐怖の中に沈没した。

 恐怖を覚えた人食いの体が、脳が、脊髄が再生を諦め、再生する体力も気力も失った人食いの五つの頭が同時に刎ねられ、吹き飛び、ビルの壁に叩き付けられて落ちる。

 支えを失った体も倒れ、血溜まりへ溶ける。


 雨の中で血は揮発し、肉体は腐って、朽ちて、跡形もなく崩れていく。

 肉体も血も消え失せたのを見て、周囲で見ていた人々は歓喜を上げる。

 だがそこにはもう、彼はいない。彼が去ったのに気付いた時には雨が弱まって、次第に止み始めていた。


 敵を仕留め、雨は止む。

 そしてレインウォーカーは、姿を消す。

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