日谷津鶴


 入り組んだ雑居ビルの隙間を先生から渡された宛にならない地図を頼りに迷い続けている。


 どこの国の言葉か分からない外国語がさざめきのように飛び交い続ける狭い路地。ダクトから流れてくる油臭い蒸気。


 薄汚れたモルタルの壁にはアートに昇華したとは言いがたい落書きが色ばかりとりどりのスプレーで走り書かれていた。


 何かを踏む。足の裏を覗く。誰かが噛んだべたついたガム。側溝に溜まった大量の煙草の吸殻。誰かの肺を通った空気。


 私はランドセルを背負い直してプリントと味の無いパンが詰まった袋を握って野上君の住んでいるアパートを探した。


 私が通っていた小学校は歓楽街と市役所と県内の一等地が近いアンバランスな土地に建っていた。


 役所や高層ビルが凛然と立っている大通りから少し抜けた場所にその歓楽街はあった。


 昼間は眠ったように静かだ。けれど加工され尽くした写真、のっぺりとして顔の凹凸を全て潰された顔のホステスや同じような顔のホストの写真が並んだ看板を見ればここが歓楽街であることは子供でも分かる。


 同級生には色々な子がいた。新築のタワーマンションから一斉に登校する子供たち。それは図鑑の写真で目にした巣箱から飛び立つ鳩にどこか似ていた。


 しょっちゅう学校を休む野上君にプリントを届けるように、と担任の先生は告げた。可哀想なお友だちは哀れまなければいけない。教室の中に漂白する薄気味の悪いルールに私は従う。


 ようやく辿り着いたアパートは二階建てで1階と2階に一部屋ずつしか無かった。どちらが野上君の家なのだろうか。先生は号室すら書いてはくれなかった。


 私の頭の上に何かが落ちる。見上げると階段の上で笑っている野上君がいた。

「ばーか。」

彼が落としたビニール袋はあっという間にどこかに飛んでいった。


 錆びて崩落しそうな階段を登る。何だか怒る気になれない。洗濯機の前に野上君は胡座をかいて座っていた。


 日焼けなのか垢なのか分からない浅黒い肌にタンクトップ。そして野上君の顔の額から目の下に掛けて赤い痣があった。傷、瘢痕、大きなほくろ。誰かの顔の瑕疵に気づくと見てはいけない、だけどそれを指の腹で撫でてどんな手触りなのか確かめたい衝動に駆られるのは私だけなのだろうか。


 右手を固く握ってその痣から目を逸らしながらプリントと給食のパンを差し出す。


 野上君は授業参観のお知らせのプリントで鼻をかんでからパンの袋を破ってその場で齧りつく。今日も大量に残っていた人気の無いパン。その味気無さを私は気に入っていた。


 私は隣に座る。野上君はクラスで一番の早食いだ。おまけに先生に叱られる程大食いで女子が呆れる程お代わりをする。


 水も無いのに噎せることも無く1個のパンはあっという間に野上君の胃袋に流れ落ちた。


「具合どう?」

「何の話?」

「出席の時先生が風邪だって。」

「うつしてやろうか。」

野上君は私に顔を近付けて咳の真似をする。

「やめてよ。」

 私が嫌がる様子に野上君は砂埃でざらざらしたコンクリートの廊下に寝っ転がって手足をばたばたさせて笑った。


「静かにせんがねこのがきんちょ!!遊んでねえでとっとと学校さ行け!」


 腰の曲がった山姥のようなお祖母さんが階段の下からこっちを睨んでいた。思わず野上君の後ろに隠れる。


「はーい。」


野上君の気のない返事にぶつぶつと口の中で何かを唱えておばあさんは下の部屋に引っ込んでいった。


「下のババア。頭おかしいんだよ。」


 野上君はそう言ってまた洗濯機の上によじ登って廊下の天井の電球を指差す。


「これ、もう付かねえんだ。」

「管理会社に電話したら?」


 私はすぐさまそう答えた。私の家族はマンションで何かあればすぐに管理会社に電話を掛ける。


 そこに電話すると禿げ頭のおじさんが着てぺこぺこと頭を下げて貼り紙を貼ったりすぐに業者の人が来て水栓からアルミの面格子まで直してくれる。


「馬鹿じゃねえの。こんなボロ家直してどうするよ。」


野上君は呆れた様子でそう言った。


「だって野上君のお家でしょ。」


「電気なんて点かなくても死なねえだろ。俺暗いところでも目え見えるんだ

ぜ。」


「そんなの嘘だよ。」


「本当だっつーの。」


 あっという間に日が陰っていく。雑居ビルのけばけばしいネオンが明滅を始める。夜が迫る気配。真昼間の終焉。


「ほら、もう帰れよ。特別に近道おしえてやっから。」


「本当に?」


「うん。誰にも言うなよ。ついてきな。」


 野上君は階段をかけ降りて一階の扉が開いてまたおばあさんが怒鳴って今度は庭にタライに張った水を撒き散らす。


 走りながら謝ると、野上君はくそばばあ、と言ってあかんべえと舌を出す。


 錆びたワイヤーフェンスの下の破れた隙間を野上君はするりと通る。土を掘ったのは野上君なのだろうか。


「ランドセルがつっかえちゃう。」


「こっちに投げてから通るんだよ。」


 さも当然と言わんばかりに野上君は手を広げる。私は力いっぱいランドセルを投げる。


「お、ナイスピッチング!」

ランドセルは野上君の腕の中に落ちる。


「ナイスキャッチ!」


 私が上げた歓声に野上君は親指を立てて笑う。私はなんだか恥ずかしいような浮き足だったような気分でフェンスの下を潜った。土と錆びの匂い。秘密の抜け穴。


「あーあ、泥だらけだ。母ちゃんに怒られるんじゃねえの。」


 自分の服を見るとシャツも買ってもらったばかりのスカートも泥だらけだった。肩を落としていると野上くんは路地の向こうの道を指差して私の胸にランドセルを押し付ける。


「真っ直ぐ行けば役所の前に出るぜ。じゃあな。」

野上君はそう言って素早くフェンスの向こう側に戻って行ってしまった。


 生ゴミの異臭とダクトから流れる熱風と美味しそうな匂いが混じった気持ち悪い空気の道を歩く。本当に役所の前に出るのだろうか。知らないアジアの雑踏に繋がっていても何ら不思議じゃない。何かを踏んづける。蟹の鋏だった。色のついた米を鳩が啄む。


 そのまま進むと本当に区役所の前の大通りに出た。狐につままれたような気持ちで辺りを見回す。


 中華料理屋のガラス戸にはカニチャーハンのポスターが貼り付けれレテOLや会社員たちが仕事はもう終わったのにスーツや制服を着込んでおとなしく整列していた。


 区役所から繁華街の入り口のアーチに向かって沢山の背広を来たサラリーマンが流れ込んでいく。私は自分の家があるタワーマンションを見上げてそこを目指して歩き出す。


 泥だらけの服を母に怒られるんじゃないか、怯えながら知らない人たちとエレベーターに乗りこむ。


 502号室の表札と母の作った不格好なトールペイントの表札を確認してから私はいつも鍵を差して回した。


「お友達と遊んでたの?」

「うん。」


 私の予想に反して母は怒らなかった。きっと一人遊びじゃないからだろう。


「誰と遊んでいたの?」

「野上君。」

「男の子?」

「うん。」

「どんな子?」

 

 一問一答の詰問。お節介でお喋りな母と無口な私のいつもの会話。私は野上君のことを話した。


「そう。可哀想な子ね。芽以、あんた仲良くしてあげなさい。そうだ、今度行くときクッキーを焼くから持っていってあげたら。」


 母は勝手に盛り上がってクッキーのレシピ本を開いて私に見せた。それからも母はあれこれ野上君のことを尋ねてきた。


 野上君のアパートの下にはくそばばあが住んでいると話したら母に汚い言葉を使うんじゃありませんと怒られてしまった。


 帰りの遅い父を待たずに食卓を囲んで寝る前にふと電気を消した真っ暗の部屋の真ん中に立ってみた。


 野上君なら棚の上のぬいぐるみも教科書の背表紙も見えるのかもしれない。


 学校で会った野上君と特に話すことはなかった。五年に上がってから初めてクラスにヒビが入るような事件が起こった。


 女子が落としたポーチを男子が拾って中を覗いた。男子はその包みをぺりぺりと開けて担任の先生に見せた。


「先生、教室におむつが落ちてた。」


 広げられた生理用のナプキンを見た先生はその場で男子にビンタをして正座させた。


 ポーチを落としたのはクラスで一番背の高いのっぽの加藤さんだった。


 彼女はかわいそうな程泣いて女子がたちまち集まってすかさず周りを取り囲む。


 普段から神経質な先生はついに癇癪を起こしてクラスの男子全員が正座させて加藤さんに謝らせた。


 彼女が怯えていたのは男子だったのか。それとも先生だったのか。当の本人が悲しみに浸る余地を奪い、騒ぎ立てる女子だったのか。教室の隅の私には分からない。


 一方的な仕打ちに男子が納得する筈もなく放課後に区役所の近くの広い公園にクラス全員が集められた。


 誰ともなく裁判官や弁護士役を言い出して勝手に学級裁判が始まった。ちょうどアイドルが出演している法廷ドラマが放送されていた。勢揃いするきらびやかなスター。オーバーな演技。クラスメイトは皆その中の誰かに身をやつすように糺弾が始める。


「誰のか分からねえから開けてみるしかなかったんだよ。」


「第一学校にそんな派手なポーチ持ってくる女子が悪いと思います。」


「すぐ先生に言えばよかったのに?中開けるなんてサイテー。」


「だって女子がオムツ履いてるなんて知らなかったんだよ」


「生理のことあんたたちも授業でやってたでしょ。」


 確かにそうだ。ピンと来ていないのは男子も女子も同じだったけれど。私まだ生理というのはよく分からない。それが来れば毎月血が滴って、何かが変わってしまうのだろうか。なら生理なんて来ないままでいいのに。


 その授業で外部から来た先生はピンクのネームプレートを首から下げて生理の仕組みと女の子の体が如何に大切で守るべき存在かを男子に説いて去って行った。担任が送る熱狂的な拍手に誰もついていけなかった。


「知るかよ、女子のどこが弱いんだよ。工藤なんてゴリラじゃねえか。」


「だーれがゴリラよ!!」


 気の強い工藤さんは男子を殴って喧嘩になった。


 その騒ぎの間で被害者の役を押し付けられた加藤さんは膝に顔を埋めて泣いていた。


 彼女を泣かせたのはこの中の誰なのだろう。何度も考える。通りかかった中年のサラリーマンが事情が分からないまま喧嘩は両方が良くない、と仲裁して逃げ出すように全員が家に帰った。


 それ以来女子と男子は互いに口を利かないという暗黙のルールができた。


 トイレで加藤さんとすれ違った時に彼女が持っているポーチが目に入る。ピンクが好きな彼女が持っていた大人が持つような真っ黒のポーチ。あの時のキャラクター物のポーチの行方を私は頭の中に描いては消す。

 

 その日私は母に無理矢理持たされたクッキーを隠していた。教室で野上君に渡せば勝手に囃し立てられて騒がれるのは間違いない。


 だから放課後にこっそり後をつけてあのアパートの近くで話しかけることを決めた。私は探偵の真似をして野上君を追いかける。あのドラマに出ている、地味な探偵のおじさんになりきる。私のお気に入りのキャラクター。


  野上君はヒビだらけの黒いランドセルを引きずって歩いてあの中華料理屋の路地に入っていく。フェンスの前で野上くんが振り返って通せんぼをする。


「何でついてくんだよ。ストーカーストーカー。」

「不謹慎だよ。今日の新聞見た?」

「知らねえ。」

「区役所の職員さんがストーカー男に殺されたんだって。」

「そんな男に目ぇつけられる方が間抜けなんだよ。」

「お母さんに頼まれたからこれあげる。」

 私はクッキーの袋を差し出した。野上君は一つつまんで口の中に入れた瞬間吐き出した。

「まじい、ゲロの味。何これ?」

「ヨーグルトと人参のクッキー」


 野上君はクッキーを地面に放り投げた。電線に鈴なりに止まっていたハトが群がって後に来たカラスに追い払われながら場所を譲ろうとしない。野上君はハトを捕まえて抱き上げる。暴れていたハトは次第に大人しくなった。

「ほれ、触ったことないだろ。」

恐る恐るハトを抱き締める。腕の中で羽ばたき、すぐに逃げ出す。鳩ってこんな手触りがするんだ。図鑑を百篇読んでも知り得ないもの。


 野上君はクッキーをダシに次々と鳩を捕まえては放してを繰り返した。額の痣に押し付けるように抱き締められたハトは血の粒のような赤い目玉をきょとんとさせて鳴いた。


「どうだった、クッキー。」

玄関先で待ち構えた母が真っ先にそう訪ねる。

「ゲロの味だってさ。もういらないって。」

正直に答えると母の化粧もしていないボサボサの眉がみるみると吊り上がった。

「なんて失礼な子なの。やっぱり水商売女の子ね。」

「水商売?」

歴史資料館で見た二つの樽を釣った水売りの蝋人形のおじいさんを思い浮かべる。

「あんたが知らなくていいことよ。もう野上君とは遊んじゃ行けません。」

「こないだは仲良くしなさいって言ってたでしょ。」

「いいから、ダメなものはダメなのよほら、お風呂入ってらっしゃい。」


 風呂に入る時に服を脱ぐとはらりと鳩の羽が落ちて私はそれを宝箱にしている海苔の缶に納めた。


 また野上君が学校を休んで私は先生の言い付けで例のアパートに向かう。

 

 近道を通るとびっくりする位すぐに着いた。先生は大人だからここは通れないのだろう。

 一階のドアの前がやたら賑やかでその人だかりに野上君もいた。

「おい、あのババア孤独死したって。」

「ええ?死んじゃったの?」

「うん。そういや最近怒鳴りに来ないと思ったら死んでたんだよ。」

 警察官の後ろから現れた禿げ頭のおじさんに見覚えがあった。それは私が住んでいるマンションの管理会社のいつものおじさんだった。顔を合わせれば住人に愛想よく挨拶をして、電話一本ですぐ来てくれる優しいおじさん。おじさんが手配すれば風呂の栓も立て付けの悪い戸も何もかも直る。

 

 おじさん、と声を掛けようとするとおじさんは警察官を睨んで舌打ちをする。

「死体の立ち会いは不動産の仕事じゃありませんから。呼ばれても困りますよ。」

「いえねえ。親族と連絡が取れない以上来てもらう他無いんです。顔だけでもいいのでご確認願います。」


 おじさんは部屋に上がってから走って戻って煙草に火をつける。


「ちくしょう、死ぬなら余所で死ねよ。ただでさえボロ家だってのに。」

 

 普段見せるにこにこした顔と違って禿げた頭は茹で蛸のように赤くて私は野上君の後ろに隠れた。おじさんは野上君を見つけて長3の封筒で彼の頭を軽くはたく。


「これ、お母さんに渡して。いい加減家賃払ってもらわないと出ていってもらうよ。まったくこれだから母子家庭には貸したくなかったんだ。」

「うるせーハゲ。二度と来んなテメーが死ね。」

 野上君がそう言うとおじさんは舌打ちして向かいの雑居ビルのモルタルを蹴飛ばして吸殻を捨てて去った。担架に乗せられて布を掛けられた膨らみは酷いにおいがした。野上君はそれを捲り上げて私はぎゅっと目を瞑る。


「やめなさい、子供が見るもんじゃない。」

「間違いねえ、下のババアだ。」

「身元確認は大人じゃないと出来ないんだ。事情を聞きたいから君のお母さんの連絡先を教えてくれるかい?」

「どうせ繋がんないよ。」


 野上君はそう言ってフェンスの外に逃げるように走っていった。

「置いてかないで!」

 私はそう叫んで追いかけた。野上君は封筒をびりびりに破いて

「ババアが一応成仏できますようにー!」

と金切り声で空に向かって叫んだ。うるさい、という声はもう二度としなかった。


 前にも増して休みがちになった野上君に私は週に一度はプリントを届けるようになった。もう道に迷うこともない。いつもの路地だ。


 その日は小雨が降っていて空き地からアパートを見上げると野上君の家のドアが開くと一人の女の人が現れる。


「陸、お金置いてくから。後はよろしくね。」

「分かった。行ってらっしゃい。」

 普段の悪態からは想像できないくらい野上君は大人しく返事をした。


 女の人はミニスカートを履いてコツコツと階段を降りる。後ろから誰かに肩をぶつけられて私は尻餅をつく。


 それは金髪の若い男の人で私を見て面倒くさそうに舌打ちをした。女の人は両手を広げて男の人に抱きついて二人は腕を絡めて歩き出す。私は女の人の背に呼び掛ける。


「野上君のお母さんですか。」

「そうだけど。何?」

「授業参観のプリントです。」


 私はお母さんにプリントを両手で付き出した。藁半紙にぽたぽたと雨が落ちてたちまち染みが出来る。男の人が覗き込む。


「へー。算数の授業だってよ。ミチルも一緒に受ければ?」

「嫌よ。あたし学校嫌いだもの。要らないから落書き帳にでもすれば。」

 

 お母さんはそう言って私にプリントを突き返して男の人と歩いていった。遠くで二人がキスする姿が見えた。


 私は何だか悲しくなってその場でしゃがみこんで泣いた。その背を乱暴に叩かれた。そこには野上君がいた。


「ばか。余計なことすんなよ。」

「だって。だって授業参観だったから。」

「その日は絶対に学校なんて行かねえ。お前らが自分のブサイクな母ちゃんと仲良しごっこしてる所なんて見たくねえ。」

「そうだよ。お母さんお化粧もしてないしブサイクで頑固なおばさんだよ。だけどお母さんなんだよ。」


 野上君のお母さんはお母さんしていない。それを目の当たりにして私は泣いた。野上君は茶封筒からお札を二枚取り出す。


「これ、母ちゃんから貰ったんだ。お前、こんなに小遣い貰ってないだろ。」

「月に五百円は貰ってる。」

「は、貧乏じゃねえか。俺はお前らと違ってこんなに貰ってるから今日は牛丼でも食いにいくからお前は母ちゃんのゲロ味のクッキーでも食べてな。」

 

 野上君はそう言ってしっし、と私を手で追い払う。泥だらけのフェンスを潜って家に帰った。傘は持っていたけれど差す気分になれなかった。


 マンションの1階で住民のおばさんににこやかに話している例の不動産のおじさんを横目にエレベーターで5階まで登った。出てきた母に私は泣いて抱きついた。

「どうしたの?学校でいじめられたの?」

 理由も話さずそのまま泣いた。母は何も言わずに私の頭を撫でていた。


 授業参観の日に野上君は休んでPTAが行われている間に私は加藤さんと校庭でボール遊びをしていた。この間も一人でボールを散歩させていたら加藤さんが一緒に遊んでもいい?と声を掛けてくれてそれからなんとなく一緒につるむようになった。


 背の高い加藤さんのトスは放射線を描いて私の頭を越える。

「ごめん、飛ばしちゃった。」

 いいよー、と答えて私はボールを取りに行く。一人より二人。先生の言う耳障りなお説教も一理ある、と少し思えた。


 最終下校時刻のチャイムが鳴ってめいいっぱいお洒落をしたお母さんやスーツを来たお父さんが昇降口から出てきた。


 加藤さんもお母さんの所に走っていく。加藤さんはお母さんよりも背が高い。私を見て軽く会釈をして二人は先に帰っていった。


「芽以、こっちよ。」

私は自分のお母さんを見つける。

「先生とお話があるから一緒に行きましょう。」

 母はそう言って手を繋いで二人で教室に行った。担任の先生はにこやかに私たちに礼をした。


「今まで田辺さんには野上君のお家にプリントを届けてもらって大変感謝しております。田辺さんは優しい子でご家庭の教育の賜物ですわ。」


「いえいえ。私の知り合いのお母さんも皆伊藤先生に担任してもらえれば間違いなしって評判ですわ。」

「とんでもありません。」

二人のつまらない会話に私が飽きかけていた時にそれは突然告げられる。


「だからね、田辺さん。もう野上君の係はおしまいよ。」

「係?」

「プリント係よ。今度からファックスで送るからもう大丈夫よ。」

「パンは?」

「食中毒の時期だから学校全体で休んだ子のパンは処分することになったの。」

「暑いとお弁当が駄目になって小蝿がたかって嫌になりますね。」

母がすかさず口を挟んだ。係になった覚えは無いのに辞めさせられてしまった。


 話が終わった帰り道の母は不満たっぷりと言った表情で眉間に皺を寄せて毒づきはじめる。


「まったく、生徒にあんな場所に行かせるなんてとんでもない学校だわ。」

「いい先生って言ってたのに。」

「あんなことが無ければね。学級会であんただけに行かせるなんて不平等だから順番にしろって言ったら他のお家も皆嫌がったのよ。当然よね。家庭崩壊してるお家なんて。」

「私嫌じゃなかったよ。野上君悪い子じゃないよ。」


母は私の両肩に手を置く。

「今はいい子かもしれない。だけど十年後、二十年後になったら野上君は悪い人になるわ。それにあの子と仲良くしてたら加藤さんのお宅にも嫌われるかもしれないのよ。」


 せっかく仲良くなった加藤さんに嫌われることと野上君と話せないことが頭の中のシーソーで揺れ続ける。


「…分かった。」

「その内あんたにも分かるようになるから。今はお母さんの言うことを聞いて。今日は疲れたわね。そうだ、パフェでも食べましょう。お父さんには内緒よ。」

「うん。」


 区役所の前の大通りをお母さんと手を繋いで歩いた。繁盛している中華料理店の前を通って繁華街の近くのファミレスに入った。

「あれ?田辺さんだ。」

入り口に近いボックス席から加藤さんが顔を出す。あら、とお母さん同士で挨拶が始まってそのまま一緒に食事をすることになった。大人もまぜてもらうことがあるのか、と考えながら運ばれてきたハンバーグをぎこちないフォーク遣いで割る。

「加藤さん。これおいしいね。」

「雪子でいいよ、芽以ちゃん。ねえ、今度の土曜日水族館に行かない?」

「いいの?」

「うん。いいよねお母さん。」

「もちろんよ。うちの子といつも仲良くしてくれてありがとう。」

「こちらこそうちの芽以はこの通りボーッとしてるから友達ができて本当にありがたい限りですわ。」

 

 母にぽんぽんと頭を叩かれて雪子ちゃんはくすくすと笑って何だかそれが嬉しかった。


 月曜日の朝会で野上君が突然転校したことを知らされた。

「野上君はお家の事情で転校されました。皆さん、野上君のことを忘れないようにね。」

言葉に反して先生の顔はどこか晴れやかだった。

「野上、転校だって」

  男子の声に工藤さんがやったーと手を上げる。教室の中にどこかほっとしたような安堵が広がっていた。


 放課後に私は真っ先に中華料理屋の路地に体を押し付けてランドセルを置いてフェンスを潜った。アパートのドアの前には殆どおじいさんと言ってもいいお巡りさんと禿頭の不動産のおじさんがいた。私はおじさんに尋ねる。


「野上君は?ここのお家の人はどこですか?」

「…夜逃げだよ。ちくしょう、これじゃあ家賃踏み倒しだよ。まあ中で心中されるよりましだ。」

 

 おじさんはそれだけじゃ言い足りないらしくて口の中でぶつぶつ文句を言い続ける。保険、解約、清算、資産価値。分からない単語を念仏のように唱え続けている。


次にお巡りさんに聞く。

「野上君はどこに居るんですか。」

「分からないんだ。」

 お巡りさんはそう言って帽子の鍔をつかんで項垂れた。私は母の目を盗んで水族館で買った野上くんへのお土産のキーホルダーをドアに掛ける。

「ちょっと、困るよ。空室にするんだから。」

「だって。帰ってくるかもしれない。」

お巡りさんが私の前に割って入る。

「お嬢ちゃん。私が預かっておくよ。野上君が見つかったら必ず渡すから。…だから今日はもう帰りなさい。」

 

 私はお巡りさんに連れられてフェンスの穴を潜らない遠回りで大通りまで送ってもらった。


「きっと野上君も喜んでるよ。君みたいなお友達がいて。またいつか会えるさ。」

「そんな訳ない。」

「え?」

「怒ってる。裏切ったから。」


 お巡りさんは何も言わなかった。どうてか分からないが私が野上君じゃなくて加藤さんと仲良くしていたバチが当たったような気がしていた。だから野上君とはもう会えなくなってしまった。


 一ヶ月後にあのアパートに行くと上下階の窓に空室、とでかでかと張り紙が張ってあった。洗濯機も無くなっている。


 フェンスの穴は塞がれて遠回りの繁華街を歩くしかなかった。夕暮れの町。けばけばしく着飾った女の人を見る度に顔も髪型も違う全員が野上君のお母さんに見えた。


 大学を出て数年が経ち私は出張で大都市に来ていた。寂れてしまった地元のあの繁華街と違ってその街は賑わっていた。


 大人になった今なら分かる。野上君が一人の子供としての扱いを誰からもされていなかったことを。


 担任の先生から自分の親を初めてとする保護者から不動産屋まで大勢の人間がその事実に勘づきながら誰も通報しなかった。助けようとも思わずに野上君を汚い野良犬のように見ないフリをした。そして私もその付和雷同の尻尾に繋がっていた。知らない、分からないという罪で。


 あきらかにヤクザの類いの人が歩いてきて私は他の人と同じように道の脇に逸れる。その真ん中の男の顔を見て身がすくむ。顔の赤い痣。私は飛び出して声を掛ける。


「野上君、でしょ。覚えてる?梶川第三小学校で一緒だった…」

男は首を振る。

「知らん。姉ちゃん、どきな。」

取り巻きらしい男たちに囲まれて痣の男は歩き出した。

「なあ、知ってるか。お前ら。ニンジンとヨーグルトのクッキー。ありゃあゲロの味だぜ。男は一際大きい声でそう吐き捨てる。

「へえ、酷い食いもんですね」

 夜に飛ぶはずのない鳩は要領の得ない相槌と共に雑踏に紛れて消えていった。


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