9-1

「ミア?」


 不安げな声に呼ばれ、ミレイアははっとする。

 エミリオの目に、気遣うような色があった。


「あまり楽しめなかったかい? ほかにどこか行こうか」

「い、いいえ、楽しかった。感想を考えてて……」


 ミレイアは慌てて言いつくろった。

 久しぶりにエミリオと歌劇を見に来て、劇場から出てきたところだった。

 外は曇りで、昼の光に物憂さがある。


 劇の内容は決してつまらないものではなかった。だが、無邪気に楽しむことはできなかった。


 気を抜くと、あの黒王子の声が耳に、瞼の裏にあの目が蘇ってしまう。

 ほとんど連日のように王宮へ、ラウルのもとに呼び出されては付き合わされる。共に過ごす時間のほとんどはきわめて礼節を保った行動だったが、そもそも付き合うこと自体が正常ではない。


(……忘れなくては)


 せっかくいまは、エミリオと共に過ごす時間なのだ。本来あるべき、安らぎの時間なのだから。

 こんな罪悪感めいたものを抱くなど、おかしい。

 ミレイアは無意識に、手首を押さえた。


 馬車はエミリオの家に向かった。実家を出て王宮勤めになったあと、エミリオ自身が買った小さな邸だった。エミリオと、身の回りの世話をする使用人が二人いる。


 馬車がつくと使用人の一人が恭しく出迎え、ミレイアはエミリオとともに、品の良い調度品に囲まれた書斎に入った。

 大きな書斎机を挟み、向き合うようにして座る。


 香りのよい茶と菓子が運ばれ、しばらく歌劇の感想などを話し合ってから、エミリオは渋い顔をして切り出した。


「あれから、第二王子殿下にご相談して国王陛下と話し合っていただいた。いまのところ、テンペスタ側から、ミアの身柄を引き渡すことを条件に、というようなことはないらしい」

「そう、なの……?」


 安堵とも不安ともわからぬものでミレイアは反応に窮した。

 聖女の身柄引き渡しを条件に、改定に応じるということはミレイアにとってはおそろしいことだった。だがそうであれば、ラウルの行動には納得が行く。


「大臣方や陛下も困惑しているらしい。ラウル本人のほうから、余計な手出しをするなと言ってきたとか。少なくとも、ミアがラウルに嫁ぐよう、陛下や大臣方が命ずるということは……しばらくはないかもしれない」


 それだけは幸いだというように、エミリオは続けた。

 しかしミレイアの困惑はますます深まる。

 ――一連のラウルの言動からすると、政略結婚というより、まるで巷によくある求婚のような行動に思えてくる。


「……そういう趣向を好んでおいでなのかしら」


 思わず、ミレイアはそんな言葉をこぼした。

 兜の下の素顔を見て以来、黒の王子がわからなくなっている。おそろしい黒の死神、勇猛果敢で戦慄すべき敵――でありながら、予測不可能で奔放な行動に出る。


 求婚などという突拍子もないことも、あるいはラウル流の遊び・・なのではないかという気もしてくる。


「ラウル・ヴィクトールは、《力の刻印》が目当てなんだよ。あのテンペスタの王太子で、黒の死神なんだから」


 エミリオは顔を歪め、吐き捨てた。

 ミレイアは知らず、両手を組んで力をこめた。


 ――エミリオの言葉が、おそらく正しい。強大な武力を背景に国土を拡張してきた国だ。より強大な力を求めているのかもしれない。そしてラウル本人もまた、武を好む性格なのはミレイアもよく知っている。


 頭でそう言い聞かせたとたん、ラウルの低いささやきが、眼差しが蘇った。

 射抜くような鋭い目、剣先と同様に躊躇いもなく伸ばされる手。


 ラウルが求めているのは《力の刻印》でしかない。そのはずなのに、もっと別のものを求められている錯覚さえ抱く。


「あの男は刻印のおぞましさもおそろしさも知らないんだ。禁忌のものだとわからないから、便利な武器だとしか考えずに欲しているのかもしれない」


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