8-2
今度は、反論する言葉がすぐには浮かんでこなかった。反発よりももっと深いところで、ラウルの言葉が胸に響く。
――生と死の狭間を行き来する戦場、特に前線にいる者は、魂が剥き出しになる。
兵に命じる声、叫び、鎧の音、剣の音、踏み込み、打ち合い。そのすべてに、言葉よりも雄弁に人間が滲む。
全身を漆黒の鎧で覆い、《王家の剣》をふるうラウルと敵対したとき、ミレイアの前に立ちはだかるのはまさしく暴虐の王だった。敵に恐怖を与え、味方に畏怖と鼓舞を与える黒の死神。
だが一合、二合と斬り合うたびにもっと別の面も見えた。
ラウルは先陣を切って誰よりも速く敵を切り捨てて駆け抜け、一方で、退却も迅速だった。
退却こそ、実はもっとも勇気のいる行動と言ったのは誰であったか。
ラウルが、味方の不要な損耗を嫌っている――ただの蛮勇や戦闘狂でもないことは、ミレイアにもすぐにわかった。
黒の死神は敵からおそれられ、同時に味方の兵が進んで命を捧げるほどの武人なのだ。
だから、ミレイアはすうっと頭の芯が冷える。
そっと目を背ける。自分は、ラウルのような武人とはまったく違う。
「……殿下は誤解しておいでです。私が幾度となくあなたに相対して命を落とさずに済んだのは、ただ《力の刻印》によるものです。私自身の力ではありません」
ラウルはきっと、自分を過大評価している――ミレイアは胸の奥でそう独語する。
「ほう? ではお前は、己がただの非力な女だとでも言うのか? この俺と幾度となく相対し、拮抗した女が」
「……刻印さえなければ、そうです」
ラウルがどんな表情をしているのか、うつむいたミレイアにはわからない。
あるいはラウルは、侮辱と捉え怒りだすかもしれない。だが、それすらも仕方のないことだった。
『そんな力は間違ってる。君は――君は、ごく普通の、か弱い女性じゃないか』
優しい幼馴染の、婚約者になったエミリオの声が頭の中に響く。
(……エミリオの言う通りだわ)
《力の刻印》のせいで、普通の幸せから外れてしまった。冒さなくていい危険を冒さなくてはいけなくなった。エミリオはそう言って自分のことのように憤り、ミレイアが刻印を使うことを疎んでいる。
だからいっそ、ラウルは事実を知って失望し、諦めてくれたらいい。
「なるほど。《力の刻印》というものは大したものらしいな。刻印された際には耐えがたい痛みを伴い、痛みに耐えたとしても刻印を制御できないという」
黒の王太子の声は軽やかだった。
そしてふいに立ち止まる。強い腕に手を触れさせていたミレイアも止まった。
同時に、支えの腕がするりと離れる。
ミレイアの手首を、大きな手がつかんだ。
「――その刻印を四つも受け入れて使いこなす女が、非力だと?」
ミレイアは大きく目を見開いた。
つかまれた手首に、男の指が印をなぞるように撫でていく。
その仕草が得体のしれぬ震えを体に呼び起こし、振り解こうとする。
「何の力もないはずの女が、狂った印を手足に刻んでこの俺と対等に渡り合うか。ああ、実に馬鹿げているな」
「は、なし……っ!」
ミレイアは顔を歪める。
手首に食い込む力は、刻印の力なしには振り解けないほどに強かった。
――刻印をもう不用意に使いたくない。だが自分の力だけでは振り解けない。ただただ、鍛えられた男の力だけで拘束してくる。
男の、おそろしいほど整った顔がぐっと近づく。
その両目と合った時、ミレイアはぐらりと足元が崩れるような気がした。
底のない海。果てのない夜。吸い込まれていくような色――そこにきらめく、鋭利な刃のような輝き。
「ますます欲しくなった」
低く、睦言のようにラウルはささやいた。
ミレイアの肌が粟立つ。――戦場で幾度となく相対したときに何度も起こった感覚。
手首に熱が生じる。
気づけばミレイアは刻印を発動させ、ラウルを振り解いていた。
男を睨む。
どくどくと心臓がうるさく鳴っている。ラウルのこんな反応は予測していなかった。
失望される――そのはずであったのに。
黒の王太子は笑った。
「貴様は、実によく刻印を使いこなしている」
嘲笑でなく称賛すら滲む声に、ミレイアは言葉に詰まった。刻印を使ってしまった後悔か、この男にはじめて浴びせられた称賛への戸惑いか、あるいは別のなにかで、心がかき乱されていた。
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