epilogue...
すると、八脚案に釘打ちされた紙人形の一体が、なにやら怪しげに白く光りはじめた。人形の表面から、白く濁ったシャボン玉のような泡が浮き出てくる。みるみるうちに泡は膨らんでゆき、やがて紙人形から千切れて離れると、徐々に形を変えながら、床の上に漂い浮遊する。泡が人型に変身すると、表面の質感が変化して……。
「ちょっと、驚かせてみようと思ってね」
そこに現れたのは、黒ぶちの丸眼鏡から小粒な眼をのぞかせて、ペチャっと潰れた鼻に、サイズの合っていないスリッパを履いた人物。ああ、忘れるはずもなかった。
「先生……川崎先生ですか?」
「久しぶりね。元気にしてた?」
十六年ぶりの恩師との再会に、思わず俺は言葉を失ってしまう。そんな俺を見かねて、先生は、俺と固く抱擁を交わす。熱は伝わってこないけれど、心の中がポカポカ温まってゆく。カメラのシャッターを切られたみたいに、僕と先生は一瞬だけ、顔を見合わせる。
「今、陸くんが何を考えていたのか、先生が当ててあげようか」
先生は、ここが肝要だよ、と言わんばかりに、人差し指をプイと振りかざすと、続けた。
「どうして、私がここにいるのか。どう? 当たってるでしょ」
十六年ぶりに披露された先生のエスパー技に、僕は涙ぐみながら顔を綻ばせてみせた。
「彼らの同意を得て、お邪魔させてもらったの。陸くんを迎えに来るためにね」
そう言うと先生は、背を向け、エレベーターの方へパカ、パカと歩みはじめた。
「ついて来て。待っている人がいる」
魔法にでもかけられたように、僕は先生の後を追う。エレベーターに乗り込むと、先生は、操作盤の最上部にある空欄のボタンを押下した。
扉が閉まると、カゴの中は、僕と先生の二人きりになった。
ええっと……なにから言い出そうか。言いたいことが山のようにあふれて、口に出す前に、ポロポロ地面へこぼれ落ちていく。
「先生。僕は将来、先生みたいな素晴らしい教師になれるでしょうか」
散々考えたあげく、僕は、そんなことを絞り出していた。先生は、閉じた扉を見つめながら、迷うことなく告げた。
「知ってるよ。陸くんが、これまで三人も不登校の生徒を救ってきたこと」
僕も閉じた扉を見つめながら、内緒の照れ笑いをした。
「それにね、陸くんは、人一倍に他人の痛みや苦しみを理解することができる。それって、傘もささず一人で雨に打たれている人を救い出すことのできる、稀有な才能の持ち主ってことでしょ? だから……」
ガクンと慣性に揺らされる。どうやら目的地に到着したらしかった。
「自分を信じて。絶対に大丈夫だからね。今も、これからも」
扉が開くと、そこは、深海のように静かな、うす暗い和室だった。ちゃぶ台やブラウン管のテレビは、時が止まったように沈黙している。奥の襖から、わずかに光が漏れ出ていた。
僕はおそるおそる、和室へ一歩、踏み出した。ふり向くと、なぜだか先生は、一歩も動こうとせず、エレベーターの中からこちらをじっと見つめていた。
「先生、着きましたよ」
先生は、首を横に二回、振ってみせた。
「残念だけど、私が陸くんの世界に足を踏み入れることは、できないの」
そう言うと、神妙な面持ちで、そっと操作盤に手を触れる。
「もう、お別れなんですか……」
「違う。私はいつまでも、陸くんの胸の中で生き続ける。めぐり合ったもの同士が、遠く離れてしまっても、めぐり合った、その事実が消えることは決してない。繋げようとする想いが、時代を越え、制約を超えて、やがて大きな幸せをもたらしてくれるから」
にこり微笑む先生の顔が、閉じゆくエレベーターの扉に、徐々に覆い隠されてしまう。
「辛いことがあれば、ここへおいでね。先生、いつでも待っている」
エレベーターの扉が、すき間なく閉じられる。それきり、先生の声が聞こえることは、二度となかった。
俺は、ギュッと唇を嚙みしめると、絶対にふり返らないと心に決めて、和室を歩みはじめた。
襖の手前の位置に、ぼんやり二つの人影が浮かんでいる。導かれるようにして、人影の方へ近づく。その正体が判明した瞬間、俺は驚きのあまり、ハッと息をのんだ。
「遅いぞ、陸。いつまで待たせるつもりだ」
「もう、陸ったら。待ちくたびれちゃったわ」
髭を剃り髪を綺麗にまとめ上げて、スーツを着込んだ小雨鈴虫。昔のかっこいい姿に戻ったパパ。
そして、パパの横に立っているのは……白いワンピースを着て、太陽のような明るい笑顔を咲かせる、国民の憧れの的。京葉晴。つまり、偉大なママだった!
「パパ、それにママまで……」
小刻みに震える俺の肩に、ママは、そっと手を添えてくれた。
「読んだわ、手紙。小学校の先生になったのね。とっても陸に似合っていると思う。お母さん、応援しているからね。いずれ誰にも邪魔されない所で二人きりになれたら、これまでの半生を、ゆっくり語り合いましょう。陸とお母さんとの、約束」
ママは、俺が送った花柄の手紙を嬉しそうに広げてみせると、大きく息を吸い込んで、続けた。
「ごめんね。こんな、お母さんで」
僕は、首を横に二回、振ってみせた。
「僕は、そんなママを、誇らしく思ってる。ファンの……いや、世界の誰よりも。画面越しでしか、見てなかったけど」
「……ありがとう」
ママが僕だけに見せた笑顔は、人気アイドル、京葉晴に負けず劣らず、美しく輝いていた。
今度は、ママの隣で気まずそうに顔を逸らすパパに、そっと声をかけてやった。
「なんだよ、親父。身なりを整えれば案外、悪くない見た目してるじゃんか。最初から、そうしていれば良かったのに」
「う、うるせえボケ!」
顔を真っ赤にしながら、わざとらしく声を張り上げるパパ。じめじめと湿った和室に、ロウソクの火がぽっと灯るように、三つの笑顔が光り輝いた。
するとママは、ふっと真剣な表情に戻って、唐突に言い出した。
「実は母さんね、陸に助けてほしい人がいて、陸をここへ呼んだの」
「……助けてほしい人?」
悟ったような顔つきで、パパが続けた。
「そう。陸は、体も心もすっかり大人になった」
「あれから随分と時間が経って、もう彼と向き合えるはず。そう思ったの」
「俺みたいに道を踏み外してほしくない。だからどうか、彼を宥めてやってくれ」
ママとパパは、示し合わせたように、同時に襖に手をかける。視線で俺に合図を送ると、息を合わせて、一斉に襖を開けた。
とたんに和室に、眩い光が流れ込んでくる。湿ったうす闇が一瞬にして退けられた。襖の向こうには、ああ、すっかり忘れてしまっていた、懐かしき光景が広がっていた。
屋上ドアへと続く、半ば物置小屋と化してしまった短い階段。木目の美しい、頭に埃を被った柱時計が、追いやられるようにして置かれている。
そして、柱時計の前に、うすい灰色の布を羽織った何者かが立っていた。
その人物は、小枝のようにか細い指で、柱時計の文字盤の秒針を、狂ったようになんども『Ⅻ』の位置に戻している。進む秒針を強引に巻き戻す。まるで、過ぎ去った時間を取り戻すかのように、なんども、なんども……。
「川崎先生は、もう帰ってこない」
俺の言葉に、灰色の人物はピタリと動きを止め、怯えるように身を縮こまらせながら、ふり返った。
灰色の布の下からのぞかせる華奢な体の左半分には、青痣や痛々しい傷跡がびっしり刻まれている。その人物は、紛うことなき、幼少期の俺そのものであった。
「なぜここへ来た?」
不思議と俺は、迷わずに答えることができた。
「先生に呼ばれたんだ。お前を助けるために。もうそこで、一人で閉じこもっている必要はない」
「噓つけ。長いあいだ、僕のことを忘れていただろ?」
「いいや、ずっと覚えていたさ。忘れたように、自分自身を騙していただけだ」
灰色の人物は、ニヒルな笑みを浮かべると、スッと腕を高く持ち上げ、屋上ドアを指さした。
「お前、教師をしているらしいな」
屋上ドアの窓ガラスの表面には、大勢の生徒たちを前に授業をおこなう俺の様子が、プロジェクターで映像を投影したみたく、まざまざと映し出されていた。
「ああ。おかげさまで、幸せに暮らせているよ」
すると、胸ポケットにしまい込んだ折り紙が、カサリと音を立てた。
「生徒たちが呼んでいる。そろそろ行かないと」
俺は、灰色の人物の許へ、ゆっくりと歩み寄る。
「一緒に来ないか。明るい外の世界へ」
灰色の人物の前に立ち止まると、そっと手を差し伸べた。灰色の人物は、俺の大きな手のひらを逡巡するようにじっと眺めると、やがて、きっぱりと言い放った。
「僕は、ここに残るよ。暗くて湿っていたほうが、安心できる」
「……そうか」
俺は灰色の人物を横切ると、屋上ドアへと続く短い階段を一段ずつ、慎重にのぼっていく。
「ただ静かに時を刻み続けるほど、惨めでつまらないことはない」
階段の半ばで、俺はふと思い出したように、そう呟いた。
「ここには、お前の他に、九人の住人が居たはずだ。そうだろう、皆?」
その言葉を合図に、周囲が眩い光に包まれて……見覚えのある人物が、煙のように続々と現れた。明菜、カガチ、陌阡隝、カベイラ、かえで、一初、guren、守、そして秋菊。彼らは、忘れるはずもない、辛い幼少期を共に過ごし、励まし合いながら困難を乗り越えた、大切な仲間たちに違いなかった。
「言ったろう? もう一人で閉じこもっている必要はない」
灰色の人物は、仲間たちに囲まれながら、涙交じりに、ただ小さくウンと頷いた。
ティック、タク。ティック、タク。
ティック、タク。ティック、タク。
柱時計の秒針は、ただ静かに時を刻み続ける。
どんなことがあっても、表情一つ変えずに。決して自分のペースを乱さずに……。
俺は順調に、階段をのぼっていく。
「君の活躍を、ここから皆で見守っておく」
ついに階段をのぼり切ったところで、灰色の人物は、俺を見上げながら、そう叫んだ。
「きっと素晴らしい景色を見せてやるから、期待していてくれ」
俺は、屋上ドアのドアノブに手をかける。
「小雨の降る景色を見せないでくれよ」
灰色の人物は、名残惜しそうに、だけれども希望に満ちた表情で、そう笑ってみせた。彼だけではない。九人の仲間たち、それに二人一緒に並んで佇むパパやママまでもが、晴れ渡った表情で、俺を見送ってくれていた。
「この先にはきっと、春初の柔らかい陽光が降り注ぐような、とびきり幸せな景色が続いているんだ。だから、俺は、俺でいることを諦めない。この先、どんなことがあっても」
俺は、かつての俺たちに背中を押されながら、力強く屋上ドアを潜った。
ペルソナ∞ゲーム 東島和希🍼🎀 @higasizima
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます