epilogue...

 学級日誌に赤ペンで花丸を書き入れると、俺は、教員机から立ち上がった。サクリ、と紙の落ちる音がした。見ると、なにやら足元に折り紙が落ちている。拾い上げてみた。

 それは、人型に折られた折り紙だった。生徒が机の書類に挟んでおいたのだろう。顔には鉛筆で俺の似顔絵が描かれている。胸にはご丁寧に『小雨陸先生』と書き込まれていた。裏返すと、溌溂とした文字で『お誕生日おめでとう!』とあった。

「バカ、一週間早いわ」

 シャツの胸ポケットに折り紙を大切にしまい込むと、俺は教室の出口へと急ぐ。そろそろ職員会議がはじまる時刻だ。

 教室の窓から、しんしんと雪が降っているのが見えた。

 ……十六年前。粛々と雪の降り続いていた、あの日。暴走族が解散するきっかけとなった悲惨な事故が、すぐ下の正門前で起こったのだ。

 そんなことを考えながら、ドアに手をかけたところで、ふいに足元を、ふわっと生暖かい風が通り抜けた。

 とっさにふり返る。雪の舞い散る教室の窓は、すき間なく閉じられている。暖房の類は置かれていない。

 気を取り直して、ふたたび教室を立ち去ろうとしたところで、俺はふと黒板の文字を消し忘れていたことに気づいた。  

 箇条書きで連ねられた『明日の連絡事項』を黒板消しで丁寧に消していく。一通り作業を終えたところで、俺は、二度目の奇妙な出来事に襲われた。

 なぜだか、白い円で囲まれた『幸』の一文字だけが、消えてくれないのだ。どんなに根気よく黒板消しでこすっても、その漢字だけが、しぶとく黒板の上に残り続ける。この一文字だけ、白の油性ペンで書いた? いや、そんなはずはない。そもそも、『幸』の文字を円で囲んだろうか。まったく身に覚えがないのだ。

 俺の視線は、『幸』を囲んだ円の中に吸い寄せられてゆく。重たく湿ったぼた雪が窓ガラスにぶつかり、教室の空気を震わせる。

 俺はそっと、黒板の上に手を触れた。

 すると……とたんに意識が、優雅に現実世界を飛び立つ!

 気がつくと、そこは、水に沈んだ『家』の一階だった。

 八脚案に釘で固定された九体の紙人形が、提灯みたいにぼんやり白く光っている。周囲はうす暗い水で満たされているというのに、なぜだか呼吸は、一切苦しくなかった。

 正八角形状に並んだ黒い岩は、塗装が剝げて岩肌が露出しており、岩に巻かれた紙垂は、赤茶け変色してしまっている。床はすっかりカビに浸食され、土壁は、今にも崩れ落ちてしまいそうなほどヒビ割れている。壁際に並んだアーケードゲームの筐体や自動販売機、本棚などは、ことごとく錆びて朽ちてしまっている。一階全体を見渡すと、果てしなく長い時の経過を感じさせる、まるで海底に眠る沈没船のような有様であった。

 役目を終え、徐々に忘れ去られて、静止した時間の中に閉じ込められていたこの『家』は、あれから十六年の月日が経ち……一杯の涙と一緒に、ゆっくりと、だが着実に風化していったのだ。 

 時間の流れから弾き出されてしまった孤独な空間を、夢見るように漂い、ただ静かに現実の脅威が過ぎ去るのを待つ。常にふわふわとして、どこか足元がおぼつかない、だけれども常に恐怖と隣り合わせの、久しく味わう感覚だった。

 とつぜん、部屋の中央から、陽光のような光が差し込んできた。たちまち目が眩んで、俺は腕で顔を覆い隠す。しばらくして、目が明るさに慣れてくると、俺は腕を下げた。

 そこには、天井から白い光が煌々と降り注ぐ、十六年前とまったく変わらない一階の光景が広がっていた。

 眩い陽光が、溜まりきった十六年分の埃や垢を綺麗サッパリ洗い流してしまったのだろうか。壁際に並んだ物品は、元の新品同様の状態に戻っている。どこを見渡しても、キズや錆びの一つも見当たらない。あれだけ一杯に満たされていた黒い水も、どこかへ消え去ってしまった。

『おはようございまーす』

 なんの前触れもなく、ひどくくぐもった声が、『家』の一階に響き渡った。俺は半ば反射的に、ビクンと体を震わせる。

『ボクの声が聞こえていますかー』

 嫌な予感がして、背筋にゾクッと寒気が走った。

『よかった。問題なさそうだね。改めまして、こんばんは。今から、ゲームのルール説明をするから、よーく聞いてね』

 ……一言一句、まったく違わないのだ。十六年前の、あの時のアナウンスと。

 まさか、今度は俺自身がゲームの参加者として、十六年前のゲームの舞台であるこの『家』に連れてこられたのか。なぜ今更になって? 今日は、恩師である川崎先生の命日だから? あるいは、今年が先生の十七回忌にあたる年だからであろうか。わからない。

『みんなには、今からここで……って嘘。冗談よ、陸くん』

 くぐもった声が、とつぜん聞き覚えのある女性の声に変化した。

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