XLII

 目を開くと、そこは、ぽつぽつ小雨の降る、団地の駐車場だった。

 街灯の心許ない光が、落下する雨のしずくをコマ送りのように、ぼんやり夜闇に浮き上がらせている。すぐ目の前には、雑草の生い茂る柔らかい土があった。どうやら土の上に着地することで、奇跡的に無事だったらしかった。

 起き上がろうと手を地面につくと、そこに、誰かが寝そべっていた。パパだった。雨でずぶ濡れになって、顔の血もなにもかも洗い流されてしまったパパが、ぐったりと地面に倒れ込んでいた。

 僕は、パパの胸元にゆっくりと耳を貼り付ける。サーと雨の降る音に混じって、うっすら鼓動の音が聞こえてきた。

「……いるのか、そこに」

 すっかり色味を失ったパパの唇が、かすかに震えた。

「うん。ちゃんと、ここにいるよ」

 雨をぜんぶ体で受け止めながら、僕はそう答えた。

「そうか……」

 ピクンとパパの体が跳ねる。ハーと深いため息が漏れる。起き上がろうと体に力を入れたが、あまりの激痛で諦めたらしかった。

「時間が、巻き戻ればいいのになぁ」

 とつぜんパパが、なんの脈絡もなく、そう口にした。握手会で知り合った超人気アイドル京葉晴と密会を繰り返していた、まだパパがカッコよかったあの頃へ、時間が巻き戻れば……。

 そんなことしたら、僕の存在自体が、消えて無くなっちゃうよ。

 喉元まで出かかったその言葉を飲み込もうとした時、ふたたびパパの唇が、力なく震えた。

「病院でママとこっそりお七夜を祝った、あの夜に」

 僕が聞き返そうとするよりも早く、パパは虫の息で続けた。

「いいか。時間が過ぎ去るってのは、残酷なことだ。ただ静かに時を刻み続けるほど、惨めでつまらないことはない」

 言い終わると、パパは力を使い果たしたみたいに、トロンと目を閉じてしまう。

 それきり、パパが唇を震わすことは二度となかった。どんなに耳を澄ましてみても、鈴虫の羽音は聞こえてこない。目の前にあるのは、雨の音と、水に濡れて蠟人形のように怪しく光る、仰向けに寝転んだパパだけ。役立たずな二枚の羽を広げ、頼んでもいないのに、僕だけに聞こえる音色で勝手に演奏をして、しまいには、血も苦痛も現実もなにもかも雨に流してしまったみたいな穏やかな表情で沈黙する、パパだけ……。

 ねえ、小雨鈴虫。小雨陸は、これから一体、どうすればいいんだよ……。

 冷たい雨に一人、打たれながら、僕を覚えている数少ない人が、手の届く距離で消えて無くなってゆく。ただの忘れ物が、もっと忘れ去られて、ビニール袋みたいに風に吹かれてしまう。こんな世界、嫌だ。沢山だ。もう散々だ。耐えられない。いや、耐え続けることに、耐えられないんだ。わからない。これから僕はどうすればいいのか、わからない……。

 とたんに僕の頭の中が『わからない』の文字で埋め尽くされる。なんだか知らないが、勝手に涙が溢れ出てくる。一度溢れてしまうと、もう我慢ができなくて、僕は降る雨よりも大粒の涙をこぼす。パパからもぎ取った役立たずの二枚の羽を、川崎先生から授かった安心の空間で、不器用に震わせてみる。リンリ、リンリ……。誰にも聞こえない音色で、雨なんかよりもさらに土砂降りな涙を、僕はこぼし続ける。

 演奏する気力も枯れ果てたところで、ふと、妙なことに気づいた。

 背中から、雨の冷たさが伝わってこないのだ。ついに雨が止んだのだろうか。いや、心許ない街灯の光は、雨の降る様子を夜闇に照らし出し続けている。

 僕の頭上だけ、雨が降っていない? 

 そんな考えが頭をよぎった瞬間、ふいに足元を、ふわっと生暖かい風が通り抜けた。

「……守? そこにいるの?」

 ふり返ると、そこには、黄色のカーディガンとラフなチノパンをびっしょり濡らした、守が立っていた。守は、さも当然のように、僕の頭上に両手を重ねて置いている。ああ、そうか。守が、僕の代わりになって、雨に打たれていたんだ。

 すると、守の横に、別の人影が浮かび上がってきた。リボンの付いた制服……明菜じゃないか! 守と明菜だけではない。外套に身を包んだグレン。金髪でゴスロリ調のカベイラ。小さな園児服のかえで。白のシャツに紺のパンツの一初。上下赤のスーツ姿のグレン。それに、ジーンズのショートパンツにうさ耳の黒パーカーの秋菊まで、計九人の交代人格たちが、僕のまわりをグルっと取り囲むようにして、一斉に立ち現れたのだ。

 九人はただ黙って、僕の頭上に両手を差し出してくれる。なりふり構わず、冷たい雨風を、ぜんぶ受け止め切ってくれる。おかげで僕は、まったく濡れていない。寒さなんて、ちっとも感じない……。

「陸くん? そこにいるのは、陸くんなの?」

 すると、とつぜん身に覚えのない女性の声が、遠くの夜闇から聞こえてきた。ビシャ、ビシャ。水溜りを踏みしめる足音が、着実にこちらへ近づいてくる。

「た、大変! 救急車、救急車を呼ばなくっちゃ!」

 夜闇にぼんやり浮かんだ人影は、無残に羽のもげてしまった小雨鈴虫を見て、なにやらそう叫び出す。

 誰だ? スマホを操作しているらしい人影は、相変わらず夜闇に包まれて、その正体が判然としない。

 パカ、パカ、パカ……。

 こんどはハッキリとわかった。川崎先生がサイズの合っていないスリッパを引きずる音!

 すると、僕の周囲に立っている九人の交代人格たちが、示し合わせたように、両手を天高くふり上げた。雨のしずくが、月光を透かして、星屑みたいに輝いた。

 同じ九つの顔が、僕と目を合わせながら、ウンと小さく頷く。……お別れなんだ。もう二度と、会えないかもしれないんだ。

 僕がそう悟ったのを確認して、安心したように、九人は、静かに雨の降る夜空へ溶け込んでいった。

 パカ、パカ……パカッ! 気づくと、僕の目の前に、黒色のセーターに黒色のパンツに身を包んだ川崎先生が、誇らしげな顔をして立っていた。

「川崎先生。僕、パパを、この手で……」

 二回、首を横に振ってみせる先生。

「大丈夫。陸くんは結局、最後まで、お父さんにとどめを刺すことはできなかった。それにね……すべての事は、繋がっていく」

 そう言うと、先生は人影の方に視線を向けた。

「あの方は、私の代わりに赴任した担任の先生。陸くん、最近ずっと学校を休んでいたでしょ? だから、陸くんのことが心配になって、お家を訪問しに来たのよ。パパが家に帰ってくる八時以降にね。私が偶然、出席簿のメモ欄に残していた『陸くんは、八時に帰るパパをニワトリ小屋の前で待っている』って言葉を見つけて、新しい担任の先生が、陸くんを助けに来た」

 人影は、雨に打たれる僕を気にしながら、倒れ込んだパパの体をなんども揺さぶっていた。

「ほら、ここでも繋がっている。私がいなくても、私の想いが繋がって、新しい先生を、ここまで導いてくれた」

 先生は、ここが肝要だよ、と言わんばかりに人差し指をプイと振りかざして、続けた。

「……よく聞いてね。これからの人生、たっくさん不安なことや辛いことに出くわすと思う。でもね、絶対に大丈夫だから。めぐり合ったすべての出来事は、必ず最後には、繋がってくれる。意味のない苦しみなんて、なに一つ存在しない。だから、安心してね」

 そう言い残すと先生は、クルっと背を向け、歩き去っていった。手も届かないほど遠い夜闇の方へ。パカ、パカ、パカ……。雨の降りしきる月夜に、そんな別れの挨拶を滲ませながら。

 なんだか頭がぼうっとしてきて、僕は、空を仰ぎ見た。体に打ち付ける雨の冷たさが、やけに心地よく感じられた。

 うっすらと救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

 パトカーのサイレンだったらよかったのに、と一人呟いた。

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