XLI

 明かりのないダイニング。その奥、引違い窓の前に、パパは背を向けて、ひっそり佇んでいた。

 ダイニングの中央には、木製のテーブルと乱雑に置かれた二脚の椅子。右手には小さなキッチン。パパのすぐ右隣には、びっしり酒の並べられた食器棚がある。パパの足元には、曼荼羅模様の絨毯が敷かれている。部屋の片隅には、錆びて使えなくなった洗濯機が、忘れ去られたように放棄されていた。

 パパは、窓から差し込む淡い月光を浴びて、床にうっすら影を落としながら、窓の外を眺めている。あの位置からは、僕が燃やして灰にしてしまった駐車場の軽自動車が見えるはずだ。怒っているのか。それとも、悲しんでいるのか。月光に照らされたパパの姿からは、判然としなかった。

 僕は姿勢を低くしてパパの方へ歩み寄っていく。殺しの方法は、いまだに思い浮かばない。だが、もう後戻りはできない……。

 左脚に痺れが走り、よろめいた体が、椅子に軽くぶつかってしまう。音に気づいたパパが、弾かれたようにふり向いた。月光で陰ったパパの顔が、みるみるうちに引き攣ってゆく。大きく見開かれた瞳が、激しく揺れ動く。赤くうっ血するほど、焼酎を握った右手に力が込められる。

 ニヤリ、と紫色のうすい唇が、三日月のように歪んだ。

 僕の頭の中で、もろくてか細い糸が、プツンと切れる音がした。

「アアアアァァ!」

 椅子を抱えて、パパへ突進する! 加速して加速して……椅子の脚先をパパの体に突き刺す!

 ぐにゃり、と気色の悪い感触が、手元から伝わってきた。間髪入れずにパパは、お休みになった左腕を椅子に絡みつける。

 僕の体は、抵抗する間もなく、椅子ごと部屋の隅へ吹き飛ばされてしまう。ベターンと壁に背中を打ち付けられ、呼吸の自由を奪われる。苦しい。左半身が痛くて仕方がない。

 それでも決死の思いで顔を上げると、パパは、窓から差す神秘的な月光を浴びて、狂ったようにうすい唇を歪ませながら、こちらを見下ろしていた。

 パパがこの勝負を本気で終わらせようと決め込む前に、次の攻撃を仕掛けなければ……。

 眼球! むき出しになった眼球の一点を狙えば、僕の貧弱な腕力でも、致命傷を与えることができるはず。

 僕は、バラバラに砕け散った椅子を飛び越え、パパに目がけて一直線に突っ込む! 射程圏内に到達した瞬間、右腕を発射! 

 全力で放った人差し指は、銃弾のようにパパの左目へ吸い込まれてゆき、爪先が眼球へ到達する……その寸でのところで、僕の動きがピタッと止まった。下半身に違和感を感じる。見ると、パパの膝頭が、僕の腹に信じられないほどめり込んでいた。

 ……息が、できない。僕に与えられた自由は、粘性のある唾を吐くことだけ。先の比じゃないほどに、苦しい。

 そんな僕をよそに、パパの左手が、なだめるように、ゆっくりと僕の頭を這う。ぐしゃっと頭頂部の髪を鷲掴みにされる。怖い、と思った時にはすでに、垢だらけの足の甲が、風を切っていた。

 ボカス。僕は、ピンと硬直した脚を軸に、その場で二回転半して、パパの方に倒れ込んだ。視界がグラグラ揺れる。思考が、激痛によって鈍化する。しかし僕は、辛うじて生き残っていた動物的本能を頼りに、攻撃することを止めない。木登りするみたいに、パパの腰に両脚を巻き付けて、体を密着させると、毛穴の開き切ったパパの肌を爪で滅茶苦茶に引っ搔きまわす。

 嫌がったパパが、僕を振り落とそうと、思い切り体をねじる。次の瞬間。ふわり、と浮遊感に襲われた。沈没船みたいに、パパの体が傾いてゆく。パパの背後で、絨毯が、魔法でもかけられたように、月光の海を泳いでいた。

 ああ、油だ。なにかの拍子に窓の下へ転落してくれないかと、事前に僕が絨毯の裏に油を塗っていたのだ。それが今、功を奏したらしかった。

 パパと僕は一緒くたに重力に引っ張られて……ガッシャン! 勢いあまって窓ガラスを突き破った。

 粉々になったガラスの破片が外へ飛び散り、嵐のような突風が部屋に吹き荒れる。

 独りでに食器棚の扉が開いて、ボロボロ酒瓶がこぼれ落ちてくる。椅子の残骸が、襖の方まで吹き飛ばされる。紙屑や埃が、吹雪みたく宙を舞う。

 パパの体は、窓枠に押さえつけられ、ヤジロベエのように揺れていた。僕は、馬乗りになる形で、なんとかパパの腰に巻き付いていた。

 僕の動物的本能は……まだ生き残っている。バリバリになった窓ガラスを拳で叩き割って、鋭利なガラスの破片を手にする。高く振りかぶると、パパの顔面めがけてなんども振り下ろす。手のひらが切れて血が滲み出る。そんなことお構いなしに、なんども、なんども、鋭利なガラス片をパパの顔に叩きつける。

「フフ……フハハハハッ!」

 ……笑った。顔面を血で真っ赤に染め上げながら、パパは、腹の底から哄笑したのだ。

「うめえぞ。お前も飲むか? エェ?」

 プルプル震える左手で、そっと焼酎の瓶を口元へ持っていくと、わずかに瓶を傾ける。瓶の口から垂れる濁った液体が、吹き荒れる突風に乗って、白竜のように部屋の奥へ飛翔していく。顔面の鮮血が、しずく状に散って、赤のマスクが涙を流しているように歪んだ。

 徐々にパパの頭が下に垂れてきた。重心の位置が、窓枠を越えた。パパの両足が完全に床を離れた。

 フッと体が弛緩した。冷たい夜風が、月光に照らされて、キラキラ輝いて見える。地面から解放された安心感が、僕を優しく包み込んでくれる。僕とパパは、揉みくちゃに巻きつきながら、月光すらも届かない、深い深い闇の底へ落ちてゆく。

 いつまでもママが水面を泳いでいられるように、置き去りになった僕たちが、代わりに海の底へ沈んでいく。小雨の降り続ける、深海みたいに静かで寂しい世界へ……。

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