XL
「皮肉なものだな。最後に残るのが、皆を必死に守ろうとしていた、守だなんて」
僕はそう呟くと、大きく息を吸い込んで、目を開いた。
そこは、ごく普通の和室だった。黄ばんだ畳に、使い古されたちゃぶ台。天井の埃っぽい照明は、かすみがかった光を吐いている。襖の横にある壁掛け時計は、あと少しで時刻が午後八時を回ることを知らせてくれていた。
背後の液晶テレビから、見知らぬタレントの幸せそうな笑い声が聞こえてきた。
ミシ、ミシ……ミシッ!
来た。ボロ雑巾みたいなTシャツと短パンを身に纏った僕は、思わずブルっと身震いをした。
勢いよく襖が開かれる。とたんに、ツンと鼻を刺すアルコールの匂いが和室に流れ込んでくる。襖の向こう側、うす闇の中にぼんやり佇んでいる人影は、見間違えるはずもない、小雨鈴虫、その人に違いなかった。
ボサボサに乱れた髪の毛に、毛穴の開き切った肌。輝きを失っているようで、ギラギラと光を放つ瞳。伸びきった髭に隠された口元からは、魚の腐ったような匂いが漂ってくる。
左手には、焼酎の瓶が、まるで重たい鉛でも持っているかのように、必要以上に強く握られていた。
これが、僕のパパ。昔はカッコよかった、だけれど今は、みすぼらしい姿になってしまったパパ。昔は変幻自在に格好を変えて、職を転々としていたパパ。ママに見捨てられて、仕事もしなくなって、世間の目から逃げるようにして、このかしいだ団地に住み着くようになった、パパ。
「なんだよその顔は。文句でもあんのか? ゴラア!」
パパ。小雨鈴虫。美しい音色を奏でる二枚の羽。だけど空を飛べない、役立たずな二枚の羽。羽の音は、受話器の周波数からはじかれてしまって、電話では絶対に聞き取ることができない。リンリン、リンリ……。
ボカス。頭が大きく揺れる。目の前に火花が散った。ボカス。ハンマーみたいな拳が左肩にめり込む。ボカスッ! 指先を尖らせた足が左腹に撃ち込まれる。
僕は、都会の空を舞うビニール袋みたいに、ちゃぶ台まで吹っ飛ばされた。
パパがリンリン羽を鳴らすときは、いつも左手に酒瓶を握っている。だから、自然と左手左足はお休みになって、パパにとっては向かって右側、つまり僕の左半身にだけ、鈴虫の鳴いた跡が残される。
綺麗な右半身は、ホントの僕じゃない。適当に表面を取り繕っただけの、ウソの僕に過ぎない……。そう教え込むように、パパは、僕に悲しみの羽音を聞かせる。
ママに置き去りにされて、カッコよさを失って、忘れ物の不幸な人生を送ることになったすべての責任は、僕にあるのだと。そう自分に言い聞かせるようにして、リンリン、リンリン、役立たずな二枚の羽を一生懸命に震わせ、僕だけに聞き取れる音色で演奏してみせる。
「誰が飯を食わせてやってると思ってんだ! わかったかボケ!」
もはやなんの意味も成さない言葉の羅列は、青痣と切り傷だらけの左耳から、ツルンとした真っ白い右耳へと、ツーと通り抜けていく。
ようやくパパは、二枚の羽を閉じて、今夜の演奏を終えたらしかった。焼酎瓶をちゃぷちゃぷ揺らしながら、上機嫌に和室を立ち去るパパ。襖が勢いよく閉じられた。
焼かれるような痛みが左半身に走り、思考をかく乱されながらも、僕は、顔を上げて、壁掛け時計が指し示す時刻を確認した。
七時三十八分。僕は、束の間の安堵感に包まれる。あと少しで、パパは外へ出かけるに違いなかった。
夜の八時に家を出て、みんな寝静まって寂しくなった街を、飽きもせずにふらついて、朝の八時に帰ってくる。これが、パパの日課だった。
その間だけは、誰からも邪魔されず、家に一人でいられる。
だから僕は、その合間を縫って、念入りにパパを殺すリハーサルをした。
うす暗くて冷たい空にぼんやり陽の光が滲んだ、薄明の頃。夜と朝の入り混じった夢みたいなその時間帯は、まるで世界に僕一人しかいなくなったみたいに、穏やかで、静かで、かしいでいて、よく作業が捗った。
実際を想定しながら、色々な方法を試した。だが、どれも失敗に終わってしまった。やはり、子供一人の力だけで大人の男を殺すのは、相当に困難な仕事らしかった。
しかし、ようやく僕は、内的世界の準備を終えることができたのだ。今夜は、計画を実行するうえで、またとない好機に違いない。次に計画を実行しようと思った時には、すでに新たな交代人格が産まれていて、僕の計画を邪魔されかねないのだ。
勝負は一度きり。失敗すれば、容赦のない返り討ちに遭い、おそらく無事では済まされないだろう。もちろん覚悟はできている。しんしんとぼた雪の降る、あの日から、僕の信念は一度たりとも揺らいだことがなかった。
計画通りパパを殺して、なんとしてでも、自力で新しい安心の世界を創り上げる。僕なりの『幸せ』を掴み取るために。先生の想いを、伝言ゲームみたいに繋げるために……。
僕は、パパに気づかれないように、そっと襖を開けた。
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