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「完全に想定外な出来事も起こった。僕の精神に負荷がかかり過ぎたのか、ゲームの開始直後に、新しい交代人格が産まれてしまったんだ。幸いゲームの進行には、特に支障はなかった。君たちが、うまく役回りを分担していたおかげだよ」
そう、自らを『主人格』と名乗る灰色の人物も含め、この場にいる十人全員の容貌が、まったく一緒なのだ。これまでは服装や髪型、立ち振る舞いなどでカモフラージュされて、一切気づくことができなかった。だが、こうして狭い部屋で一度に皆を見比べてみると、その奇妙な一致は、またたく間に浮き彫りとなったのである。
ああ、そうか。他の参加者と自分の顔が一致していることを気づかれないように、この『家』には、どこにも鏡が設置されていなかったのだ。
パチ、パチ、パチ……。すると、ブラウン管のテレビから、雨の降るような拍手の音が聞こえてきた。見ると、『英雄ポロネーズ』の演奏を終えた一初が、コンサートホールの観客に向かって、お辞儀をしている最中だった。
「僕の名前を言い忘れていたね。僕は、小雨陸。普段は僕が表に立っているから、僕の暮らしぶりを知っている交代人格は、一人もいないだろうね」
そう言うと、灰色の人物は、左半分だけ傷つけられた乳白色の体を、うすい布の下で震わせながら、それぞれ壁に並んだ七人と俺たち二人を、達観したような目つきで見渡した。
「そろそろ、このゲームにも決着がつく。八回も鐘を鳴らす必要はなかったようだね」
ミシ、ミシ、ミシ……。襖の向こう側から、すすり泣くような、古い床の軋む音が聞こえてきた。静まり返った和室に、何者かがこちらへ近づいて来ることを知らせる、不気味な足音だけが響く。
「ほら、もうすぐやって来る。これを耐え凌げば、ようやくなにもかもが、お終いになるんだ」
ミシ、ミシ、ミシ……。徐々に足音は大きくなってゆく。すき間なく閉じられた奥の襖が、パースを無視して膨張していくような幻覚が俺を襲う。
「あのエレベーターは、四階までのフロアーに誰もいないことを感知すると、一階へ戻る仕様になっているんだ。通常運転時だったら水没の心配はないけど、今は、そうじゃない。ランプは緑色に点灯しているはずだからね」
その言葉に、俺はふと、思い出した。一階へ潜る際、エレベーターの差込口に紙を二枚投入したこと。そして、俺の腰には今、命綱用のロープが巻かれたままであること。
マズい! と予感した時にはすでに、俺の体はくの字に折りたたまれ、ガクンと勢いよく後方へ吹き飛ばされていた。恐怖に目が見開かれた守の顔が、ぐんぐんと遠ざかっていく。無感動な顔でこちらをじっと見下ろす、箒を持った七人が、別れを告げる間もなく、視界から消える。
必死に腰のロープを解こうとするも、強烈な力で引きずられているせいで、指先がうまく使えない。
体のあちこちをぶつけながら、俺はあっという間に、四階まで引きずり下ろされた。
焦りによって思考が空振りし、ロープを解こうとする手の動きよりも速く、俺はエレベーターの扉の方へ引きずり込まれてゆく。
あれは……かえでか? 箒を持ったかえでが、エレベーターの両扉をこじ開けようとしているのか?
間髪入れずに激しく景色の入れ替わる視界が、とつぜん暗闇に覆われた。ふわっと心地いい浮遊感に襲われると……ザッブン! 墨よりも黒い水へ落下する。
俺は、成す術もなく、水中へ引きずり込まれていく。光すらも届かない、深い、深い、水の底へ……。
水面の方から、なぜだか陽光のような温もりを感じて、俺は、顔を上げた。そこに浮かんでいたのは、水着姿の見知らぬ女性。溌溂とした笑顔に、八重歯がキュートな小顔。高身長でスタイル抜群という、実に輝かしい容姿をしていた。
どうして俺は、死の間際に、あんなにも美しくて、神々しい女性の幻影を見せられているんだろう。
……ああ、そうか。俺は一人納得して、顔を下げた。
いつまでも彼女が浮かんでいられるように、代わりに俺が、沈んでいるんだ。
肺一杯に満たされた水は、甘じょっぱい、涙の味がした。
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