38

 石階段をのぼり切ると、そこには、小さなブラウン管のテレビが一台ポツンと置かれただけの、暗闇に包まれた空間が広がっていた。

 テレビから、聞き覚えのあるピアノのメロディーが聞こえてきた。雄大で、どこか病的な、この曲の題は、『英雄ポロネーズ』。

 ブラウン管の画面には、大規模なコンサートホールで大勢の観客を前に堂々とピアノを演奏する、一人のスーツ姿の男性が、白黒の映像で映し出されていた。この男性、あの人にそっくりではないか……。

「一初じゃないか!」

 俺がそう思うのとほとんど同時に、テレビに釘付けになった守が叫び出した。

 カチン。とつぜん頭上から、白くかすみがかった光が降り注いできた。とたんに暗闇が退けられ、ようやく俺たちのたどり着いた空間、その全貌が露わになる。

 正八角形のかたちをした、一風変わった和室だ。黄ばんだ畳の中央には、使い古されたちゃぶ台。奥の壁には、すき間なくピッタリ閉じられた襖がある。和紙の傘を被った昔ながらの照明が、木目の天井で、静かに揺れていた。

 そして、ちゃぶ台の向こう側、135度に折れ曲がった壁の隅に、何者かが、灰色のうすい布にくるまり、体を小さく丸めてしゃがみ込んでいるではないか。

「そこにいるのは、誰だ?」 

 俺は、灰色の布にくるまる人物に、有無を言わさない態度で尋ねた。

「よく、ここまで来たね」

 その声色に、俺はゾッとした寒気を覚えずにはいられなかった。まるで、俺たち九人の声を一緒くたに合成したかのような、絶妙に聞き覚えのある、しかし明らかにどこか異なった、奇妙な声をしているのだ。

 謎の人物が、灰色の布を身に纏ったまま、ユラユラと立ち上がり、こちらに体を向けた。

 短く乱雑に切り揃えられた髪に、シュッと瘦せた輪郭。背丈が低く、まだ年齢は幼いように見える。目鼻立ちがハッキリとしており、案外とパーツの整った顔は、清潔感にさえ気をつければ、かなりの美男子であるように思えた。

 なにも服を着ていないらしく、灰色の布のすき間から所々、乳白色の柔らかい肌を覗かせていた。なぜだか、そんなキメの細かい肌の向かって右側にだけ、青痣やまだ完全に治癒していないピンクの傷跡が痛々しく刻まれていた。

「まさか……貴様が、このゲームを仕組んだ張本人なのか?」

 俺の問いに、無言で肯定を示す、全裸に灰色の布を纏っただけの、謎の人物。

「貴様が、俺たちをゲームの駒みたいに弄んだあげく、七人の命を奪ったんだな?」

 気づけば俺は、肩を怒らせながら、灰色の人物の方へ歩み寄っていた。

「止めろ、ハットリ」

 守の制止を振り切り、俺は拳を高く振り上げた。次の瞬間。とつぜん目の前に、箒を持った何者かが現れ、謎の人物の前に立ちはだかった。

 ……ああ、明菜ではないか! 信じられないことに、亡くなったはずの明菜が、煙のように俺の前に現れたのだ。

 俺は勢いあまって、明菜に向かって拳を振り下ろしてしまう。だが明菜は、女性とは思えない力で、俺の拳を受け止め切る。振り下ろす力と、それを跳ね返す力が互いに拮抗して、俺と明菜の体が小刻みに震えた。

「無駄だよ。どうせ相打ちで終わる。なぜなら、僕らはみんな、同一人物だから」

 灰色の人物が放ったその言葉に、俺の全身から力が抜け落ちていくのがわかった。

 わずかに視線を外した隙に、箒を持った明菜が、跡形もなく消えていた。正八角形の狭い和室のどこを見渡しても、明菜の姿は見当たらない。

「君たちは、主人格である僕によって産み出された、交代人格に過ぎない。どう足搔いたって、僕に傷一つ付けることも叶わないよ。ここは、僕の脳内の世界だからね」

 なんだって? 啞然と立ち尽くす俺と守をよそに、灰色の人物は、諭すような口調で語りはじめた。

「なぜ君たちを、こんな檻のような場所に閉じ込めて、互いに殺し合うよう仕向けたのかたかって? まったく、僕の計画に猛反対して、計画の実行の邪魔をしようとしたのは、君たち自身じゃないか。計画を失敗させるわけにはいかない。だから僕は仕方なく、君たちを消すために、自ら頭の中をグチャグチャにかき回して、目には見えない静かな自殺を図った。それこそ、身を削る思いで。だけど、自力だけでは、どう頑張ってみても君たちを、互いの存在を知らない産まれたての状態に戻すのが精一杯で、存在自体を消すことはできなかった。そこで、すこし工夫をしてみた。どうしても主人格だけでは交代人格を消せないというのならば、交代人格同士で消し合ってもらえばいい。そうして、君たちの記憶が傷ついたのを利用して編み出されたのが、このゲームなんだよ」

 灰色の人物の意味不明な説明に、俺はどうしても納得ができなかった。たしかに俺は実体をもって、ここに両脚で立っている。自分の体に触れて温もりを感じることだってできるのだ。すると守が、しびれを切らしたように口を開いた。

「お前の言う『計画』とは、一体なんのことだ?」

 灰色の人物は、フッとニヒルに口元を歪ませると、淀みなく答える。

「見てからのお楽しみだよ。最初に言ったろう? ここから出れるのは、最後に生き残った一人だけ。計画を実行するうえで、一人くらいならば交代人格が残っていても、問題はない。だから、陌阡隝か守、君たちどちらかの一方だけは、特等席で計画の行く末を最期まで見届けることができるよ。もちろん、表舞台には立たせてあげられないけどね」

 激しく混乱する俺たちを差し置いて、灰色の人物は何食わぬ顔で続ける。

「ゲームの結果は予想外のものだった。僕の思惑通り、君たちはこのゲームを通じて、その大多数が姿を消してくれた。だけどね、その過程が、僕の予想とはすこし異なっていた。結局、君たち同士でさえも、最後まで、互いの存在を消し合うことはできなかったんだよ」

 疑問が、新たな疑問によって、次々と上書きされていく。……つまり、灰色の人物は、ハナから犯人など存在しなかったとでも言っているのか?

「では、どうして七人は姿を消したのか。一人残らず自滅したんだよ。一初は、本棚の高い場所に手を伸ばそうとしたところ、ピアノ椅子から転落して、護身用に服の中に隠し持っていた包丁が背中に刺さり致命傷となった。カベイラは、入浴中に使用していたドライヤーが漏電し感電した。かえでは、一初の後ろ姿を追って四階へ移動して、そこで一初と対面、驚いて昇降路に足を踏み外した。これに関しては、すこし一初に協力してもらったよ。すでに彼は、僕と統合されていたから、ここの環境に変化を加えること自体には、なんら抵抗がなかったらしい。明菜は、スズランの花粉を多量に摂取してしまった。カガチは、かえでの姿を見て驚き、ダイニングに逃げ込んでやけ酒をしたあげく、上から降ってきた酒びんの衝撃で気絶した。秋菊は知っての通りだ。gurenは、暖炉の火に灯油を撒いたところ、火が燃え移ってしまった。どうやら君たちは、僕や他の人格からは影響を受けにくいくせに、周囲の環境からは多分に影響を受けてしまう、案外脆い性質らしいね」

「待て。一初もかえでも、その時はすでに亡くなっていたはずじゃないか」

 とっさに守が、灰色の人物に問い詰めた。これに難なく答える、灰色の人物。

「姿を消したといっても、完全に消えていなくなったわけではないよ。君たちは、その役目を終えて、主人格である僕に統合されたんだ。ゆえに彼らは、誰に命令されずとも一丸となって、僕の創り上げたこの『家』を綺麗に保ち続けるために働いてくれた。ほら、これがなによりもの証拠だ」

 ふわっと生暖かい風が和室を通り抜けると……正八角形状に並んだ壁の前に、それぞれ亡くなったはずの七人が、箒を持って煙のように現れた。グルっと俺たちのまわりを取り囲む七人は、揃って無表情で、ただ静かにこちらを見つめている。なぜだか襖の前にだけには、不自然なほどの空間が残されていた。

 ここで俺は、とあることに気づいた。やがて、その些細な気づきは、巨大な衝撃となって、ガクンと俺の足元をフラつかせる。

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