XXXVII
校舎の外に出てみると、なにやら正門の付近に人だかりができていた。
傘は持っていない。僕は、全身をぼた雪に打たれながら、人だかりの方へ歩み寄っていく。普段ならば、絶対にこんなことはしない。だけれど今は、人知を超えたなにかが、僕を呼んでいる気がしてならなかったのだ。
七色の花畑みたいな傘の集団をかき分けて、人だかりの最前列を目指す。傘に降り積もった雪が肩にかかって、服が冷たく湿っても、構わず先へ進んでいく。ようやく人々の壁をすり抜けた。
人いきれが、雪の寒さに塗り替えれられた瞬間、僕は驚愕のあまり、息をのんだ。
うすく雪の積もったアスファルトの地面に、川崎先生が、頭から血を流してグッタリ倒れ込んでいる。穏やかな眠りに就くように、ギュッと目は閉じられていた。
そして、リーゼントの髪型に特攻服の西園寺竜が、ぼろぼろ大粒の涙を流しながら、神に祈るように跪き、何度も先生の体を揺すっていた。
すこし離れたところに、純白の改造バイクが横倒しになっていた。新品らしくピカピカと輝くバイクのいたる所に鮮血がこびりついていた。
「センコーーーッ! センコーーーッ!」
西園寺の叫びが、ぼた雪をすこしだけ震わせて、音もなく灰色の空へ吸い込まれていった。
先生が着ている黒色のセーターと黒色のパンツが、血の滲んだ雪で、真っ赤に染め上げられていく。遠くの方から、改造バイクに跨った暴走族の仲間たちが、傘もささずに、見た目には似合わない沈んだ表情で、ただ静かに西園寺の様子を見守っていた。
すると、正門から、騒ぎを聞きつけた教職員たちが忙しなく飛び出してきた。
「大変だ! 救急車、誰か早く救急車を呼べ!」「現行犯だ! そいつを押さえておけ!」「心臓マッサージは? おいAEDはどこだ」
教職員たちは、慌てふためきながら、地面に倒れ込んだ先生の許へ駆け寄っていく。
目まぐるしく位置を変える教職員たちの足元で、先生の顔と、跪く西園寺の肩に、しんしんと雪が降り続けていた。
「放っておけと、あれほど言ったじゃないか。これじゃあ、自業自得だよ」
冷たく湿った風に乗って、そんな声がうっすら聞こえてきた。
西園寺の肩が、ピクンと震えた。肩に降り積もった雪が、霧みたいに舞った。西園寺は、ゆっくり頭を持ち上げると、弾かれたように立ち上がった。
「貴様らに……センコウのなにが分かんだヨォ!」
我を失った西園寺が、周囲の教職員たちに向かって、躊躇なく拳を振り上げる。教職員たちの傘が、蝶のように灰色の空を舞う。重たい真っ白な雪が、滅茶苦茶に飛び散った。
「センコウのなにが、なにガアアァ!!」
西園寺は、抑え込もうとする教職員たちを、抜群の運動神経と鍛え上げられた拳で、次々と返り討ちにしていく。
野次馬によって切り取られた、赤と白と黒の空間に、怒声と悲鳴が入り乱れる。
地面の先生は、体にうず高く雪を積もらせて、化石のように沈黙していた。
ふと、先生の右手に、紙のようなものが握られていることに気づいた。嫌な予感がして、僕は、乱闘に巻き込まれないよう注意しながら、おそるおそる先生に近づいた。
『上で待っています』
血が付着した紙には、たしかにそう書かれていた。僕がニワトリ小屋の前に残した、ノートの切れ端だった。
……まさか、先生は、手元の置手紙に注意を奪われていたせいで、西園寺のバイクを避けることができなかったのではないだろうか。
周囲の喧噪がスーと遠ざかっていく。僕の五感が伝えてくるのは、ぼた雪の冷たさだけだった。
僕のせいで、先生はバイクに轢かれた。
考え過ぎだ。なにかの勘違いかもしれない。心の奥底ではわかっていながらも、一旦その考えが頭をよぎると、僕の胸は、否応なく罪の意識でいっぱいに覆い尽くされてしまう。
すぐ背後では、西園寺が猛り狂っている。引っこ抜けた誰かの歯が、足元にコロンと転がってくる。もはや、そんなことは、気にも留まらなかった。
「……川崎先生」
僕は、先生の体に降り積もった雪を、そっと手で払った。血で赤く染まった地面の雪が、白いまだら模様になった。
「先生は、こんな僕を、安心の空間、その三へ招き入れてくれました。だから……」
僕の両拳が、いつの間にか強く握られていた。僕は構わず、続けた。
「先生の想いを、伝言ゲームみたいに繋げるために、今度は僕自身の力だけで、新しい安心の世界を創り上げてみせます。それが、僕なりの『幸せ』。つまりは、めぐり合わせの解釈」
僕の心が、ボトッと墨を垂らしたみたいに、黒く濁っていく。思想が、歪んではならない方向へ、歪んでいく。
「……先生。僕の秘密を聞いてください、先生。僕は、パパから、ぎ、ぎ……」
うすく雪を被った先生は、相変わらず、穏やかな眠りに就いていた。地面の湿った雪が、大きな靴底で踏み荒らされて、浅黒く汚れていた。
「お仕置きが怖いんです。僕が悪いのはわかっている。だけど……きついお仕置きは、どうしても嫌だ。もう耐えられない。ぜんぶ終わりにしちゃいたい。助けてください、先生。助けて、先生……」
先生は、冬の冷たい空気に溶け込むように、しんと降る雪に沈んでいった。
遠くから、うっすらとパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
もう終わりにしよう。なにもかも、ぜんぶ。僕は手始めに、頭の中に響く声を、消し去ることに決めた。
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