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 それからというもの、俺たちは、一階へ向かう準備をするために一旦、二階へ下りることにした。

 差込口に二枚目の紙を投入し、扉が開かれると、二階の水位はすでに胸の高さを越えていた。部屋の至る所に、ソファーや車の残骸などの物が浮かんでいる。

 全身が濡れるのもお構いなしに、水中に沈んでいた洗濯機を二人がかりで持ち上げ、エレベーターのカゴへ搬入する。衣服の吊るされていたロープを手早く回収すると、カゴの洗濯機にきつく結んで、こんどはロープの端を俺の腰に巻きつける。暗闇の水中でもすぐに戻れるよう、エレベーターに命綱を固定しておくためだ。

 照明機器を調べてみたが、すべて水没しており、使い物にはならなかった。

 そうして、出来得るかぎりの準備を済ませると、ふたたび俺たちは四階へ戻った。

「ゴーグルもない、フィンもない、懐中電灯もない。ゲームを仕組んだ奴は、俺たちをここから逃がしたいのか、それとも全滅させたいのか、なんだかハッキリとしませんよね」

 装備にタンクを取り付けて、機器の使い方の確認を済ませると、思わず俺はそう口にした。

「両方なんじゃないか。まるで、この建物とゲーム自体が、矛盾そのものを孕んでいるかのように」

 守はタンクを装着し終えると、立ち上がり、深呼吸をする。

 二人で相談した結果、守がエレベーターの扉を見張っている間に、俺が泳いで一階を調べるという風に作業を分担することになった。

 潜水の途中でタンクや機器が故障すれば、それこそ命取りである。パチンと頬を叩いて気を引き締めると、残りの紙二枚を差込口に投入して、俺たちは一階へ向かった。

 扉が開いた途端、勢いよく黒々しい濁流が流れ込んでくる。体勢を崩されまいと、必死に洗濯機にしがみつく。カゴが水に満たされても、口元の機器で呼吸をすることができた。タンクの空気は、正常に送り込まれているらしかった。

 そこにあるのは、暗闇と水の冷たい感触だけ。命綱のロープが繋がっていることを確認すると、俺は一階の奥を目指して泳ぎはじめた。視覚は役に立たない。体に備わった方向感覚だけが、唯一の頼りだった。

 徐々にバタ足にも慣れてきて、安定した推進力を得られるようになってきた。……そういえば、どれだけ目を開けていても、目がしみて痛むどころか、違和感の一つもないのだ。この水は、裸眼に対して刺激の少ない、なにか特殊な液体なのだろうか。……いや、最初の頃から、甘じょっぱい涙のような香りが、水から漂っていたではないか。もしや、この水は全部、誰かの涙だった?

 そんな狂ったことを考えていると、とつぜん遠くの方で、まるでチョウチンアンコウのエスカみたいに、ぼんやり小さな明かりが揺らめき動いた。

 俺は導かれるようにして、小さな明かりの方へ泳いでいく。徐々に明かりの正体が判然としてきた。

 アーケードゲームの筐体の一つが、怪しく白色に発光している。さらに近づくと、どうやらそれは、運転手になりきって電車を操作するというコンセプトのアーケードゲームらしかった。隣に並んだ本棚や自動販売機、他のアーケード筐体などは、悉く水にやられて、死んだように沈黙していた。

 なぜこの筐体だけ、水に沈んでもなお、光を放ち続けているのだろうか。疑問に思い観察していると、筐体の裏側から、ポコポコ気泡が立ち上っていることに気づいた。

 俺は筐体の側面へまわり、気泡の発生源を探った。後方パネルに、わずかなすき間がある。力ずくで筐体を動かすと、なんとか裏側をこちらに向けることができた。

 筐体に触れて調べると、後方パネルがベコンと奥へ沈みこんだ。手を離すと、巨大な空気の塊が飛び出して、筐体の内部が露わになった。

 そこには、黄銅の大きな歯車が一個、これ見よがしに置かれていた。

 これは一体……。とりあえず俺は、歯車を抱えると、腰のロープをたどって、エレベーターの方へ泳いでいった。

 不気味に明滅するエレベーターの光が見えた。俺が抱えたものに驚き、タンクの空気をゴボっと吐き出す守。俺がグーサインをしてみせると、守はすぐさま『Ⅳ』のボタンを押した。

 四階に到着すると、水と共にザーと勢いよく外へ放り出される。タンクの装備を取り外すと、俺は一階から持ち出した大きな歯車を床に置いた。

「無事だったか?」

「ええ。よくわかりませんが……とりあえず、それらしき物を見つけました」

 守は、床の歯車をじっと見下ろしながら、顎に手を置きじっと考え込んでしまう。 

 ここは、四方をパズルのように噛み合って連動する歯車で囲まれている。まさか、この膨大な数の歯車の中に一箇所だけ、一階で拾った歯車がピタリと嵌る場所があるとでもいうのか?

 俺は、途方に暮れたように、壁の歯車をグルっと見渡した。……素人の俺には、到底見分けがつかない。ガシ、ガシ、ガシ。部屋には、巨人の歯ぎしりのような音と、水のしたたる音だけが響いていた。

「余りを取り除け。さすれば家は静まる……」

 そうか! 守が呟いた暗号の一文に、俺は、ふたたび閃きを得た。

「嵌めるんじゃなくて、外すんだ!」

 『余りを取り除け』。つまり、拾った歯車と同じ歯車を壁の中から見つけ出し、それを取り外せと、暗号は指示していたのだ。

 そうとわかれば、話は早い。俺と守は二手に別れて、拾った歯車と壁の歯車を交互に見比べながら、必死に『余り』を探していく。

 エレベーターから最も離れた位置に差しかかったところで、ふいに視線がピタリと中空で静止した。

「あったぞ、守! たぶんこの歯車だ!」

 俺は急いで床の歯車を持ち上げて、発見した歯車と横に並べて比較する。ああ、間違いない。一階で拾った歯車とまったく同じ大きさの歯車が、最奥の壁の中央部分に浮かんで、グルグル時計回りに回転しているではないか。

「『さすれば家は静まる』。これを取り外せば、浸水は止まるんでしょうか」

「わからないが、そう信じることにしよう。ようやくここまで来れたんだ。たったの二人だけになってしまったが」

 弱々しく語尾を萎めながら、守は言った。俺たちは、この『家』で亡くなった七人のためにも、絶対に生きて脱出しなければならない。生きて外に出て、七人の帰りを待つ人々に、彼らの最期の様子を伝えなくてはならないのだ。

 俺と守は完璧に息を揃えて、大きな歯車の中心部を手で捉えていた。

「もしこれが、性格の悪い罠だったら、どうします?」

「平気だろう」

「どうしてわかるんですか?」

「ここまでくれば、どんなに努力したって、どうせ結果は同じだ。そうだろう?」

 俺はフッと笑みをこぼすと、歯車を掴む手に力を込めた。呼吸を合わせて……思い切り引っ張る!

 歯車は、案外簡単に引き抜くことができた。勢いあまって、守と一緒に後方へ吹っ飛び、だらしなく尻もちをつく。

 手元から滑り落ちた歯車が、ガコンと金属質な音を立て、床に落下した。

 すると、次の瞬間。

 壁を埋め尽くした無数の歯車が一斉に、ピタリと静止した。あれだけ回転し続けていた壁の歯車が、今や、凍りついたかのようにビクとも動かない……。

 ガコン。とつぜん目の前の歯車が、誰も手を触れていないのに落下した。それを合図にするかのように、壁に浮かんだ無数の歯車が、バラバラと崩れ落ちはじめた! まるでドミノ倒しのように、壁の奥まで連結していた歯車が、力を失い次から次へと落下していく。

 歯車の雨……。部屋には、パラパラと金属同士が擦れ合う、乾いた音が響いていた。

 俺と守は、その奇怪な景色に、ただ呆然と腰を抜かすだけ。

 やがて歯車の雨がおさまると、落下した歯車が、部屋の奥まで続く足場を作り上げる。

 歯車で埋め尽くされていた壁の向こう側には、驚くべき光景が広がっていた。

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