33

 突如として黒板上に現れた、円柱状の空間。その奥地で、俺は、妙なものを発見した。

 透明なビニール袋に包まれた、紙幣のようなもの。これは、一体……。

 これ以上は行き止まりらしく、俺は、四つん這いの姿勢で後ろ向きに進む。空間の外へ這い出ると、床の水に濡らさないよう注意しながら、もう一度よく、ビニール袋の中身を観察した。

 紙幣のような見た目をしているが、絵の内容はまったく異なっていた。中央には『ハ』の文字が大きく描かれた黄金の鐘の絵があり、紙幣であれば額数の印刷されている位置に、なぜだか『503』とあった。

「それを見つけたのか?」

 不思議そうに袋の中身を観察する守。俺は、袋の結ばれた口を解いて、慎重に中身を取り出してみる。

 どうやら、まったく同じ紙幣のようなものが、四枚入っているらしい。一枚目の紙を裏に返してみると、なぜだか、山に囲まれた長閑な盆地の風景が印刷されていた。二枚目の表面は、鐘の『ハ』の文字が『ト』に変わっただけで、他に違いはなかった。裏を返すと、こんどは一枚目の盆地の風景を拡大したような街の写真があった。学校や住宅街、スーパーなどが建ち並ぶ、日本全国どこにでもありそうな街の風景である。三枚目は、鐘の文字が『イ』に変わっていた。裏の写真は、どこかの団地だろうか。いまにも崩れ落ちてしまいそうなほどに外壁は朽ちて、露出した外階段の真横に、新設らしいエレベーターの昇降路がむき出しになっている。まるでお化け屋敷のような外観である。四枚目は、鐘の文字が『ヘ』に変化し、裏面には、三枚目の団地のとある一室の前で撮ったらしい写真があった。ところどころ塗装の剥げたベージュ色のドア。その右上に、小さく『503号室』の札があるのが見えた。

 四枚の裏面を連続して眺めると、パラパラ漫画のように、鳥瞰図の風景から『503号室』のドアへズームアップしていくように見えた。

「この写真、見覚えありますか?」

「いいや、まったく。だがどうやら、ゆっくりと考えている暇は、残されていないらしいぞ」

 そう言うと守は、自分の足元を指差してみせた。ユラユラ波立つ水面は今や、すねの辺りにまで到達していた。

「天井が高い分、水がせり上がるスピードが余計に速いんだ。身動きが取れなくなる前に、急いで『双子の円』のもう片方を確認しにいこう」

 守の言う通りである。俺は、両脚に重たく絡みつく水を蹴散らしながら、守と一緒にエレベーターへ向かった。

 ふと、軽自動車の天井で、消えゆく命の残滓みたいに小さく揺らめく炎が、視界の隅に映った。

 次の瞬間、たちまち俺は、意志とは関係なしに、最後のフラッシュバックに襲われた。

 そこは、寂れた駐車場だった。幾分か背の低くなった俺は、一台の軽自動車を見つめている。手には……灯油タンクと灯油ポンプ。俺は、車の方へゆっくりと歩み寄っていく。周囲に他の車はない。置き忘れてしまったみたいに、ポツンと一台だけ、灰色の軽自動車は駐車されていた。俺は、給油口を無理やりこじ開けて、灯油ポンプの先端を突き刺す。薄茶色の液体が管の中を上っていくのが鮮明に見て取れた。灯油タンクにガソリンを入れ終わると、その場から立ち去る。車から少し離れたところで、とある異変に気付く。灯油タンクが軽くなったように感じられるのだ。ふと地面のアスファルトに目を遣ると、薄茶色の汚らしい筋が、足元から車の方までツーと途切れずに伸びていた。灯油タンクの底に、小さな穴が開いているらしかった。俺は、ズボンのポケットからマッチ箱を取り出すと、マッチを擦って、小さな種火をガソリンの道に撒いた。とたんに火がボッと燃え上がると、火は物凄い速度でガソリンの道を這い進んでいく。あっという間に火が車に到達すると、周囲の空気が萎んで……ボン! 灰色の軽自動車は、またたく間に巨大な炎に包まれてしまう。俺は、炎の光に顔面を真っ赤に染め上げながら、車が大炎上する様子を、ただぼうっと眺めていた。『……くん。いるんでしょ竜くん』『いたら返事して、竜くん。竜くんの声、ちゃんと届いてるから……』『いつでも待ってるからね……竜くんの席、ちゃんとあるから』。そんな声が、炎で熱せられた風に乗って、かすかに遠くから聞こえてくるような気がした。

「どうした、ハットリ。行くぞ」

 ふたたび意識が現実世界へ戻った時には、泳いで移動しなければならないほどに部屋の浸水は進み、小さな残り火は悉く燃え落ちていた。

 守が扉を手で押さえてくれていたので、俺は急いでエレベーターに乗り込む。『Ⅳ』のボタンが押されると、吹っ飛ばされた車のボンネットと二階から運び出された水と一緒に、俺たちはゆっくり上昇しはじめた。

 やがて扉が開き、四階の床に水が溢れ出すと、脇目も振らずに緑の円盤へ駆け寄る。

 円盤が、繰り出しルーペみたいに回転して、金庫のような空間が露わになっていた。そこには……スキューバダイビング用らしきタンクと、ジャケットのような装備。それと、呼吸するための小さな機器が。

 予想外の展開に、二人ともしばらくその場で黙り込んでしまう。

 ここで、俺の脳裏にふと閃きが走った。

「『次に上へ向かえ。下へ向かう為に』。要は、これを身に着けて水没した一階へ向かえ、ってことでしょうか」

「ああ、ちょうど同じことを考えていた」

「一階に潜って、ここまで戻ってこれるかどうか……。守はどう思う?」

「やってみるしかない。せめて、エレベーターを一階まで下ろすことができればいいんだが」

 『水没したフロアへはエレベーターが降りることができなくなる……』。たしか奴はそう説明していた。やはり、なけなしの装備とチンケなバタ足だけを頼りに、一階まで潜水しなくてはならないのか……。

 すると、ここで二度目の閃きが脳裏に走る。口に出すよりも早く、俺の体はエレベーターへ向かっていた。

 ビンゴ! 操作盤のすぐ横にある、小さな赤いランプが光る差込口。その横幅のサイズが、手元の紙幣のような紙とピッタリ一致するではないか。俺の視線と表情で閃きの内容を察したらしく、守はハッと息を飲んだ。

 ビニール袋から一枚、紙を取り出すと、おそるおそる差込口へ入れてみた。紙の端が差込口の内側に触れると、紙はニューと奥へ吸い込まれてゆき、ランプの光が赤から緑に変化した。二人の間に、オオッと短い歓声が上がる。

 だが……しばらく経っても、カゴの中にそれ以外の変化は現れない。

「たったこれだけ?」

「いや、そんな筈はない」

 守が半信半疑に『Ⅰ』のボタンを押すと、ガクンと慣性に体がフラついて、カゴが降下をはじめた。

「まさか、このまま一階に沈むんじゃ……」

「どうやら、そのまさからしいぞ」

 足元から、ザッブン、とカゴが着水し、そのままブクブクと水中へ沈んでいく音が聞こえてくるではないか。

「息を吸い込め!」

 俺は、あらん限りの空気を肺へ送り込むと、口で蓋をする。ゆっくり扉が開かれると、真っ黒な水が、濁流となって勢いよくカゴの中へ押し寄せてきた! 俺と守は、水流の勢いに足元をすくわれ、成す術もなく水中でもみくちゃに転がりまわる。

 扉の向こうは濃い闇に包まれて、なんにも見えやしない。俺としたことが、紙の入ったビニール袋を手から滑り落としてしまう。マズい。ここで失う訳にはいかない、絶対に。頭と足の位置を水中で何度も入れ替えながら、俺は手探りでビニール袋の行方を追う。……あった。クラゲのように水中を浮遊するビニール袋を指先に捉えた。

 ビニール袋を引き寄せると、偶然目の前に、操作盤の鉄板があった。考える間もなく『Ⅳ』のボタンを押下する。

 扉が閉まると、水で一杯に満たされたカゴがふたたび動き出す。……苦しい。息が、持たない。車のボンネットの表面に浮いた気泡が、宝石のように輝いて見えた。

 ようやく扉が開くと、俺と守は、行き場を失くした大量の水と一緒に、ザーと外へ放り出された。

 ゲボゲボとむせ返り、激しく肩を上下して久方ぶりの呼吸に専念する。しばらくして呼吸が穏やかになると、守が苦しそうにむせ続けていたので、俺は守の背中をさすってやった。

「焦らず、ゆっくり深呼吸して」

 喉のつっかえが取れたみたいに、ボゴッと水を吐き出すと、守の呼吸はようやく落ち着いた。

「……すまない」

「いいんです。こんなことになるのならば、いっそ最初からタンクを持っておけばよかった」

 感謝の念を伝えるように、くたびれ切った顔を綻ばせてみせる守。

「絶対にここを脱出しましょう。二人で」

 歯車に囲まれた狭い部屋で、俺と守は、ずぶ濡れになった拳を、優しくぶつけ合った。

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