XXXII

 雨のしずくが、雲のすき間から差し込む陽光に照らされて、キラキラ輝いている。ポチャン、と水溜まりにしずくが落ちて、僕の膝小僧を濡らした。

 トタン波板の屋根から落ちてくる水滴を、僕は、覚悟を決めたような眼差しで眺めていた。

 名無しのニワトリは、僕が残した給食のパンを貰えて満足したのか、心地よさそうに眠りに就いていた。僕だけが唯一知っている、小さな花壇に咲いた一輪の季節の花。宝石のように光る、白くて長細い花びら。ヒガンバナによく似ていて、だけれど西洋風の優雅さを感じさせる。多分、ネリネの花で、合ってると思う。

「陸くん。今日は珍しく、外で待ってるの?」

 僕は、声の正体の確信をもって、ふり返った。予想どおり、そこには川崎先生が立っていた。

「寒いね。パパの帰り、今日も遅いの?」

「パパじゃありません」

「え?」

「川崎先生を待っていたんです」

 先生は「わたしい?」と素っ頓狂な声を上げる。僕は真剣そのものな眼差しで先生を見つめて、続けた。

「先生は、どうして先生になろうと思ったんですか?」

 不思議そうに目を瞬かせると、先生は、しばらく考え込んだのち、ぽつりぽつりと語りはじめた。

「……そうね、先生は学生の頃、教師に期待を裏切られたことが、なんどもあってね。ああすればいいのに、こうすればもっと上手くいくのにって、学生ながらにして色々、思うことがあったの。だったら私が先生になればいいじゃん、て思い立ったのが、ちょうど将来の進路を考え始める高三の時期だったのよ」

「じゃあ僕も将来、先生になろうと思います」

 先生は、瞬きもせずに目を開いたまま、ゴクリと生唾を飲んだ。喜びを嚙みしめているようにも、動揺を隠し切れていないようにも見て取れた。

「先生を見て、そう思ったの?」

 口で説明するよりも、見せた方が早いと思ったので、僕はランドセルから二冊の本を取り出した。『幽霊塔』、それと『灰色の女』。

「まるで、伝言ゲームみたいに物語が繋がって、今僕の手元に収まっている。僕を、安心の空間、その三へ招き入れてくれる。だから……僕にも、僕なりの『幸せ』、つまりはめぐり合わせの解釈を見つけることができたんです。手錠の方は、まだよくわからないけど」

 先生は、稲妻に打たれたようにシャンと姿勢を正すと、しゃがみ込んだ僕を尊敬の眼差しで見てくれた。こんなにも優しくて、純朴で、温かい目を大人から向けられるのは、これが初めてだった。

「まだ誰にも言ったことないんだけど、先生、思うにね……」

 自分に言い聞かせるように、先生は続ける。

「手錠は一人だけに嵌めるもの、っていう固定概念が、『幸』の甲骨文字が『手錠』の形をしている謎を解明するうえで障壁になっているように思うの。要はね、手錠は、自由を奪うためにあるんじゃなくて、偶然めぐり合った二つのものを繋ぎとめておくためにあるんじゃないかって。なにかとめぐり合えることは、幸せかもしれない。でも、どんなに幸せなめぐり合いにも、いつかは必ず別れの時がくる。そこで、自分と、めぐり合った相手に、ガッチリ手錠を嵌めてしまう。一度めぐり合ったら、二度と私のそばから離れません。そうやって手錠で証明してみせる。それって、相当の幸せだと思わない? 偶然めぐり合ったものと、いつまでも一緒にいられることが保証されるだなんてさ。だからこそ、『幸』の甲骨文字が『手錠』の形をしているんじゃないかなって」

 僕は、深くため息をついた。口元から、空砲を発射したみたいに、白い煙がもわっと立ち上った。

 先生は、ここが肝要だよ、と言わんばかりに人差し指をプイと振りかざして、続ける。

「逆に考えるとね、どんなに幸せなめぐり合いも、いつかは必ず別れる時がくる。だから、言いたいことがあったら、言えるうちに、言っておくのよ」

「……先生」

 いつの間にか、僕は立ち上がっていた。喉元までせり上がった告白を、もう堰き止めることはできそうになかった。

「僕の母親は、京葉晴なんです。僕は、京葉晴の隠し子なんです」

 すると先生は、フッと顔を綻ばせて、嬉しそうに僕を見つめながら言った。

「……うん、顔にしっかり面影がある。へえ、すごいじゃん!」

 ああ、口に出してしまえば、こんなにも胸が軽くなるなんて。

 なんだか肩透かしを食らったような気分になって、体中の毒素が抜け落ちたみたいに、僕はその場でヘナヘナうなだれた。

「もしかして、それでずっと思い悩んでいたの? 先生、絶対に秘密にするし……それに、テレビに出ている人だって、同じ人間だもの。隠し子の一人や二人がいたって、なんら不自然じゃない。だから、大したことないって。むしろ、私だったら、みんなに自慢してやりたいくらい。……でも、あんまり言いふらすのも、よくないか」

 清々しい冬の空を背景に、先生は、にこっと微笑んでみせた。なんだかその姿は、太陽をつかさどる魔法使いのように見えてならなかった。

 ……決めた。先生にならば、僕の秘密を打ち明けることができる。

 まだ誰にも言ったことのない、ホントの僕の話。命に替えてでも、絶対に知られてはいけない、僕の秘密を。

「陸くん。あれって……」

 すると、先生が、なにか重大なことに気づいたように、低い声で言った。先生の視線は、まっすぐ僕の背後、ニワトリ小屋の方へ向けられている。ふり返ると、小屋の中で名無しのニワトリが、先と変わらない様子で眠りに就いていた。……いや、違う。眠っているのではない。  

 死んでいる。ギュッと瞼を閉じて、冷たい冬の風に羽毛をなびかせながら、名無しのニワトリは、静かに息絶えていた。

「気づかなかった。いつ亡くなっちゃったんだろう……」

 得体の知れない病に冒されたのか。それとも、外の世界の寒さに耐えかねたのだろうか。一体なにが、名無しのニワトリの身に起こったのか、僕にはわからない。いくら考えてみても、わからなかった。

 だが、僕の分け与えた給食のパンを食べ切った直後に、安心したような穏やかな表情で息を引き取ったことだけは、確かだった。

「死ぬのも案外、悪くないのかな」

 無意識に、僕の口からそう漏れていた。ぴく、と先生の両眉がわずかに持ち上がったのを、僕は見逃さなかった。

 僕は、小さな花壇に咲いたネリネの花を一輪、摘み取った。小屋の金網のすき間から、ネリネの花をねじ入れて、穏やかな眠りに就いている名無しのニワトリの隣に、そっと置いてやる。

 千切れた羽毛が白い花びらに乗って、ふわり冬の青空へ舞い上がった。

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