31
エレベーターに乗り込むと、カゴの中は異様な熱気に包まれていた。呼吸をする度に喉の中が焼かれそうになる。開き切った毛穴から、とたんに脂汗が滲み出てくる。
二階にはグレンが居るはず。まさか彼が、暖炉の火を使って、浸水していないフロアーを燃やし尽くしてしまおうと企んでいるのではないか……。
ゆっくりと扉が開かれた。たちまち扉の向こうから、真夏日のような猛烈な熱波が襲い掛かってくる。肌に針を刺すような熱気に、俺と守は、思わず顔を手で覆い隠した。
意を決して腕を下げると、そこに広がっていたのは、地獄のような光景だった。
石の暖炉を丸ごと飲み込む、巨大な炎。炎は、竜巻のようにうねりながら、メラメラと赤い閃光を放っている。部屋には絶えず熱風が吹き荒れ、弾丸のように熱せられた火の粉が、そこら中を舞っている。火の手は灰色の軽自動車にまで回り、割れたガラス窓から、悪魔の舌みたいに炎が噴き出していた。
床の絨毯の至る所で小さな火が上がり、紫檀の机が、暖炉に面している部分だけ黒く焼け焦げていた。
早くここから逃げろ。とたんに本能が俺に警告する。
だが、ここには脱出のための大切な手掛かりがあるはずなんだ。簡単に逃げ出す訳にはいかない。
天井は煤で黒く汚れ、もう文字を読むことはできないだろう。視線を素早く黒板のあった方に向ける。奇跡的に黒板は無事だった。その横、L字のレザーソファーも原型を留めている。
……そういえば、グレンは? 彼の姿が、部屋のどこにも見当たらないではないか。
すると守が、頭の位置を下げ鼻を腕で塞ぎながら、炎の方へ向かっていった。守一人を命の危険に晒す訳にはいかない。姿勢を低くして、俺も部屋の奥へと続く。
容赦なく襲い掛かる熱波と黒煙に苦戦しながらも、なんとか軽自動車の前まで移動した。巨大な炎の壁が立ちふさがって、これ以上先へ進むことはできなかった。
すぐ横で立ち止まる守が、ポンと俺の肩を叩く。なにやら軽自動車と暖炉のあった位置の中間あたりを指差している。炎の海が一瞬、身を避けて、床の惨状が露わになった。
そこにあったのは、白い煙をユラユラ立ち上らせる、人型の黒炭。おそらく頭であったろう箇所には、炭よりも黒い大穴が二つ。
強烈な吐き気が胸にこみ上げてきて、俺はその場でうずくまる。……ダメだ。我慢しろ。ここで無駄に体力を消耗するわけにはいかない。
ふたたび顔を上げてみると、グレンの遺体は、炎の壁で覆い隠されてしまっていた。
グレンまでもが、亡くなったのか。一体なんのつもりで、こんなマネをしたのか、俺には知る由もなかった。
守を見ると、全身を汗でグッショリ濡らしながら、なにやら軽自動車の方に目を凝らしていた。視線を追うと、車体の下になにかがある。あれは……灯油タンクの赤色と、薄茶色の液体?
「走れ!」
とつぜん体が引っ張られ、慣性に脳が揺れる。全力疾走する守に腕を引かれた俺は、足をもつれさせながら、訳もわからず守についていく。
一心不乱にエレベーターへ飛び込むと、力づくで頭を床に押し付けられた。
「伏せろ!」
ふいに風が止み、シンと静寂が訪れると……。
ドカン! 痺れるような爆音! 球状の炎がブワっと花開き、急速に萎んでいくと、車体の破片が散弾銃のように部屋中を飛び交う。車のボンネットが、頭上スレスレをかすめて吹っ飛んできた。
ボカス、と黒焦げの洗濯機が空から降ってきた。
「大丈夫か?」
「……なんとか」
すぐ背後では、ひしゃがれた車のボンネットがエレベーターの壁にもたれかかっている。守の判断が無ければ、俺たちは今頃、帰らぬ人となっていただろう。
俺と守は、肩に降り積もった煤を手で払いながら、ヨロヨロ立ち上がった。
部屋の壁は黒く焼け落ち、軽自動車は骨組みだけと化してしまった。ソファーが爆発の衝撃を防いだのか、またもや壁の黒板は、奇跡的に無事だった。
ガーン……ガーン……ガーン……ガーン。
間髪入れずに、六回目の鐘が『家』に鳴り響く。
足元から、気泡の弾ける音が聞こえてきた。すぐ下にまで、水が迫って来ている……。
俺は、死に物狂いで、黒板の方へ走った。絨毯の残り火など、もはや気にしていられない。黒板にかじりつき、なんどもチョークの文字を目で追う。考えろ。命をかけて頭を働かせろ!
背後からふわりと、甘じょっぱい涙のような香りが漂ってきた。エレベーターの四隅に開いた、ごく僅かなすき間から、タラタラと水が溢れ出てくる。丸みを帯びた水が、うすく床を這って、ゆっくりこちらへ近づいてくるではないか。
ついに我を失い、俺は、両手で黒板を滅茶苦茶にかき回す。文字は滲んで消え、手のひらがチョークの白い粉まみれになる。……ああ、これまでか。成す術もなく、この『家』で七人の遺体もろとも水に沈む運命にあるのか。
「……アッ!」
次の瞬間。左手の指先に、稲妻のような電撃が走った。
黒板の上に、視認できないほど細い切込みが走っているのだ。
「守! 黒板だ! 黒板になにか仕掛けがある!」
敗北感を漂わせながら地べたに座り込み、閉じゆくエレベーターの扉になんども体を挟まれる守が、弾かれたように顔を上げた。
バシャバシャと床に溜まった水を蹴り上げながら、こちらに駆け寄ってくる。守は、指先で黒板を撫でると、ハッと瞳孔を開かせて、しばらく考え込む。
「……そうか。手で文字を消させるために、黒板消しが用意されていなかったんだ」
チョークのかけらを摘まみ上げると、半分に割って、俺に手渡してきた。
「塗りたくれ」
すぐに守の意図を読み取った俺は、無我夢中でチョークのかけらを黒板に擦りつけていく。
あっという間に、黒板に白塗りの化粧が施される。黒板の上には……黒くハッキリとした線で、大きな円が浮かびあがっていた。
「『双子の円』だ!」
俺と守は、合図なくとも息を揃えて、黒板に現れた『双子の円』に手を添えた。
グッと奥に押し込む。ガガガ、と岩の削れるような音を立て、黒板が円柱状にくり抜かれていく。腕を一杯に伸ばせるくらいの深さまで沈むと、とつぜん『双子の円』が、見えない奈落の底へ消えていった。
俺たちの目の前に、巧みな手法で隠されていた円柱状の空間が露わになった。
「通路になっているのかな」
現れた空間は、闇で満たされていて、奥の様子は見て取れない。
「わからない。溝に注意して、中へ入ってみよう」
躊躇なく足を踏み入れようとする守を、俺は手で制した。
「俺が先に行きます。俺の方が体力が残ってる」
守は静かに頷いてみせると、後退した。俺は、黒板に手をかける。腕力で体を持ち上げ、足をねじ入れる。
そこは、四つん這いになってようやく体が収まるほどの、狭い空間だった。膝を引きずりながら先へ進んでいく。溝に注意しながら、大きなストライドで手を前方へ置く。
溝を確認できた。溝のすぐ奥は、行き止まりになっている。……いや、なにかが置いてある。
俺は、得体の知れないなにかを手に取ってみた。手元の闇にうっすらと浮かびあがった、それは……。
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