XXX

 放課後。窓の外では、パラパラ小雨が降り続いていた。

 僕と現実の境目が曖昧になって、ふわふわとした浮遊感が襲ってくる、不安定な日。

 教室の中にいれば、濡れる心配はない。普通の人だったら。

 僕は違う。僕の頭上には、いっつもミニサイズの雨雲が浮いていて、そいつが常にパラパラ小雨を降らせる。だから、どこにいたって僕は、ずぶ濡れになる。教室の中も外も、僕にとってはなんら関係がない。

 だけれど僕は今、外の世界を退けるみたいに蛍光灯の眩しい光が降りそそぐ放課後の教室の中で一人、ただぼうっと時間が過ぎ去るのを待っていた。

 ガラガラガラ……。

 すると、ドアの向こうから川崎先生が現れた。

「あれ、陸くん、なんでそこに座ってるの?」

 パカ、パカ、スリッパを引きずりながら、先生は不思議そうに、こちらへ近づいてくる。

「あ、そっか。ありがとうね」

 そう言って先生は、湿った空気を吹き飛ばすような、にこやかな笑顔を僕に見せてくれた。

 僕は、西園寺の座席に座っていた。あれ以降、二度と学校に姿を見せなかった、リーゼントの髪型のデカい男の座席。先生たちから毛嫌いされている、学校一の問題児の座席。川崎先生だけは、諦めずにいつまでも声を届け続けた、本当は優秀なクラスメイトの座席……。

「教室、寒くない? ストーブ付ける?」

 要らない、と僕は首を横に振った。

「でも、指がかじかんで、赤くなっちゃうよ?」

 半ば反射的に、僕は左腕を机の下に引っ込めた。

「そんなこと、ないです」

 カサリ、と足元で音がした。見ると、なにやら紙が落ちていた。拾い上げてみる。それは、授業プリントの裏面を使って書いた手紙のようであった。

『おはよう。今朝の調子はどう? いままで貰った手紙、全部ここにしまってあります。お父さんも中身を見てないって言っていたから、安心してね。5-3担任・川崎幸子』

 ふと机の中をのぞいてみると、ポツンと茶封筒が一封、入っていた。引っ張り出してみると、開いた封の口が下を向いて、中身がパラパラと零れ落ちてしまった。

 床に散らばっているのは、ノートの切れ端だろうか。なにやら一枚一枚に、ビッシリ文字が埋められていた。

『センコウだけなんだったら、学校に行ってやる。でも、実際は違うだろう? くさった魚みたいな眼でギロッとにらみつける、あのアホ教師ヤロウたちの顔を思い出すたびに、今でも腹が立ってくんだよ。オレとタイマンをはれば、どうせ手も足も出せないクセに。あームカつく』

『本来、オレの体はそっちにあるべき。そういうことだろ、センコウ。でもよ、オレの心はすっかり、こっちにあるんだよ。そっちに行ったって、俺の居場所なんてありゃしねえ。無理につくろった体に心を閉じこめておくなんて、そんなキュウクツなことないゼ?』

「あら、バレちゃった」

 顔を上げると、先生が、困ったように苦笑していた。

「すみません、勝手に読むつもりでは……」

 僕はとっさに目を瞑った。心までもが闇に塞がれていくような気がした。

「ううん、勝手にそんな場所に置いておいた私が悪いの」

 なだめるような先生の声に、僕は目を開いた。先生は「いいんだよ」となんども頷きながら、地面に散らばった手紙を拾い集める。僕も我に返ったように、途中から先生を手伝う。窓ガラスに雨粒がぶつかる小気味のいい音が、教室には響いていた。

「お父さんに協力してもらって、竜君と文通をしていたのよ。手紙なら心を開いてもらえると思って。だけど竜君、かなり頭が良いみたいで、途中から先生のカウンセリングみたいになっちゃった」

 トントン、と手紙を束にして集めると、すこし悔しそうに先生は続けた。

「本当は素直でいい子なんだけどね」

 素直で、いい子。西園寺に対して、そんな感想を抱いているのは、学校中どこを探しても先生の他にはいないだろう。いや、西園寺自身でさえも、自分にそんな評価を下していないかもしれない。

 では、僕はどうだろうか。偉大なママの忘れ物であり、陽の当たらない道を選び続けては、傘もささずに小雨の中を歩いてきた、この僕は、果たして先生の目に、どう映っているのだろうか……。

「陸くんだって、勿論そうよ。とっても素直で、いい子」

 いつの間にか僕の左側にしゃがみ込んでいた先生は、エスパーのように言った。素直で、いい子。ホントの僕をまじまじと見つめながら、先生は、迷いなくそう言い切った。

 パラパラ、パラパラ、雨粒の湿った音を聞きながら、ホントの僕と先生が、しばらく無言で見つめ合う。恥ずかしいような、どこか安心するような、むずがゆい変な気分。ふと、大昔に似たような感情を抱いたことがあるように思えた。

 すると、とつぜん教室がうす闇に包まれた。

 停電か? ……いや、違う。雨の降る音がこちらに迫ってくる。ぶ厚い雨雲に覆われた灰色の空が、蛍光灯の光を退けていく。雨に冷やされた風が吹いて、濡れた草木の匂いが漂ってくる。

 中の世界と外の世界の境界が曖昧になったのだ。そう、僕の心模様みたいに。

 反対をふり返ると、そこは、眩い白の光で一杯に満たされた、紛うことなき中の世界だった。 

 先生のしゃがんでいる場所、つまりホントの僕側だけが、雨の降る外の世界と溶け合っている……。

「ねえ、陸くん?」

 雨雲の灰色に浮かんだ先生の顔が、怪しく歪んだ。まるで、いとも簡単に僕の心を見透かしてしまう、魔女のように。

「ずっと前から気になっていたんだけど……」

 雨に佇む魔女が、幻聴のようにささやく。

「陸くんの顔って、パパ似? それともママ似なの?」

 顔。自分では絶対に見ることのできない、僕の顔。他人の顔は、よく観察する。でも僕の顔は、自分では知らない。その特徴を他人に説明することもできない。なぜなら、僕の顔は……。

「ほら、やっぱりそうだ」

 先生は、僕の左耳にグンと顔を近づけて言った。まるで、探し求めていたものをようやく見つけ出した時のように、ミステリアスな調子で。

「耳の形が、すごく似ているのよ。ええと、たしか、昔よくテレビのバラエティーに出てて、今でもたまにテレビで見かける……」

 次の瞬間、すべての時間が静止した。

 教室の時計は、凍り付いたように動かない。ホントの僕側に降っている雨粒が、グニャリと形を変えたまま、宙に浮遊している。冷えた空気の流れも止んだ。

 そこにある『動き』は、どこか物悲しそうに潤んで、かすかに震える、先生の瞳だけ。

「グラビアで活躍していた時に、突然活動の休止を宣言してさ、その間テレビでパッタリ姿を見かけなくなったのよね。あ、でも、陸くんは知らないか。まだ産まれてない頃の話だもんね」

 知っている。知りすぎるほどに、知っている。産まれていない頃の話。違う。僕を産んでいる頃の話なんだ。偉大なママの忘れ物である、僕を。忘れ物であり続けなくちゃいけない、僕を。いつも心にパラパラ小雨の降り続いている、この僕を。

「き、き……。ああ、もう、頭文字までは出てるんだけど」

 止めてくれ。それ以上、言わないでくれ。小雨鈴虫と約束してしまったんだ。絶対に素性を知られてはいけない。たとえ、命に替えてでも。

 この場から逃げ出してしまいたい。だが、そんなことをすれば、先生の疑いを暗に認めたことになる。気丈に振舞うウソの僕の反対側で、ホントの僕が恐怖に打ち震える。

 止めてくれ。それだけは、どうか、止めてくれ……。

「思い出した!」

 パラパラ、パラパラ、雨の降り続ける音が、無音よりもはるかに寂しい静寂の空間を作り上げていた。

「京葉晴。そうだ、京葉晴っていう名前のアイドルと、すごく似ているのよ!」

 その声を合図にして、ふたたび時間が動き始める。今度は、時計の針が追いつけないほど目まぐるしい速さで。

 これまでの様々な出来事が、走馬灯のように、僕の脳裏を駆け抜けてゆく。屋上へ繋がる短い廊下で先生と出会ってから……ニワトリ小屋の前で話しかけられ、本という新しい世界を教えてくれて、時折エスパーみたいな力を発揮しながら、僕の演奏に涙を流して、誰のものでもない、ホントの僕だけが見た景色が、物凄いスピードで迫って来ては、指先で触れようとする前に、過ぎ去っていく。

「今日は雨だけど、ね」

 左耳の下に刺されたような激痛が広がって、時間の流れが元に戻った。

 そこは、普段通りの教室の景色だった。灰色のうす暗い空が、教室に雨を降らせることはない。中と外の世界の境界が曖昧になって、時間の流れから弾かれてしまうこともない。

 左耳に走った痛みは、やがて体の左半分を覆い尽くしていった。左をふり向くと、先生の潤んだ瞳から、涙が噴き出していた。だけれど顔は、狂ったように笑っていた。

 雨の音が遠のいてゆく。二人きりの教室にあるのは、秒針の音と、僕の荒い呼吸音だけだった。

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