28
秋菊は、以前とまったく変わらぬ様子でベッドの上に転がっていた。手早く縄を解いて事情を説明すると、やけに大人しく従順な態度で、エレベーターに乗り込んでくれた。
三人とも、ただ黙って俯くだけ。カゴの中には、焦燥と疲労と絶望が綯交ぜになった、暗澹とした空気が、重く垂れこめていた。
最初にここへ足を踏み入れた時には、互いの距離が近くて身動きが取れないほど、賑やかだったのに……。
俺はなんとなく、前方の操作盤に目を留めた。下から順に『Ⅰ』『Ⅱ』『Ⅲ』『Ⅳ』と続くボタン。その上に、なぜだか空欄のボタンが一つある。
ここにあるモノはすべて、必ずなにかしらの意味がある。かつて守は、そう言っていた。 操作盤の横にある、小さな赤いランプが光る差込口。果たして、これらの意味するものとは、一体……。
ガクンと慣性に揺らされると、二階に到着した。二階には、暖炉の前で丸まって、今にも消えてしまいそうな弱々しい火をぼうっと眺めるカガチの姿があった。
俺と守と、相変わらず大人しい秋菊は、橙色に照らされたカガチの猫背を横目に、L字ソファーに腰かけた。くつろげる訳がない。仲間の遺体に囲まれたこの『家』は、もうすぐ水に沈むのだ。甘じょっぱい涙の香りがする水で、一杯に満たされてしまう。
隣に座る守が、険しい表情で黒板を睨んでいたので、俺もその視線を追ってみた。さすがに脳は疲れていて、さっぱり暗号の意味はわからなかった。
すると、意識の範囲外から、うっすらと耳馴染みのある音が聞こえてきた。その音は、徐々に警告の熱を帯びて増幅し、俺の顔をある方向へ振り向かせる。
鈍い駆動音を鳴らして、エレベーターの扉が閉まっていく。ふと横を見ると、守が顔面を真っ青に染めながら、震える手つきで自分の体の至るところに触れていた。
秋菊が、忽然と姿を消していた。
「マズい、やられた!」
そう叫ぶ守が、弾かれたようにソファーを飛び出すのと、俺が立ち上がるのが、ほぼ同時だった。
守は一心不乱にエレベーターへ駆け寄り、矢印ボタンを連打する。
「ポケットの拳銃を抜き取られた! チクショウ!」
秋菊を乗せたエレベーターは、こちらの焦燥などは露知らず、吞気に三階で停止する。
「早く! 早くしろ!」
激しく取り乱した守は、閉じたエレベーターの扉に何度も拳を打ちつけ、なおも矢印ボタンを押し続ける。
ようやく扉が開かれた。矢のように中へ飛び込む守に、俺も続く。
……最初から秋菊は、こうするつもりだったのだ。なぜか? 決まっている。抑圧された自傷行為の欲求を爆発させるためだ。
三階に到着するや否や、一目散に守は廊下へ駆け出す。
「変なマネは止せ! 秋菊! 待ってろ、今行くからな!」
守の懸命な叫びが、モルタル仕上げの壁に吸われ、散っていった。
正八角形状に折れ曲がった廊下が、永遠に続いているかのように伸びて見える。床が逆向きに滑っているのではないかと思うほどに、スピードが遅く感じられる。
ようやく守が息を切らして八番ドアのドアノブに手をかけた。
パアァン!
とつぜん、ドアの向こうから乾いた音が鳴り響く。……暴発。暴発であってくれ。手汗で滑り、なかなかドアノブが捻れない。代わりに俺が、守の手を上から包み込んで、ドアノブを捻り奥へ押し込む。
「秋菊! どこだ秋菊!」
真っ先に部屋の奥へ飛び込んだ守は、そこで、糸の切れた操り人形のように、グッタリ膝から崩れ落ちてしまう。
守が虚ろな視線を向けた先。穴の開いたこめかみからタラタラ鮮血を流し、拳銃を握りしめた右手をベッドの上に放り投げた秋菊が、光を失った瞳で、守を見つめていた。銃口から、ユラユラ硝煙が揺らいで、天井付近で消えていった。
彼女の瞳は、どんなに美しい景色でさえ、二度と映すことはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます