XXVI

「八番。西園寺竜君」

 川崎先生は、ポッカリ一箇所だけ空いた座席を悲しそうに眺めると、独り言のように呟いた。

「……竜君は、今日はお休みね」

 あれ以降、西園寺は、一度たりとも学校に姿を見せることはなかった。

 それにも関わらず先生は、決して彼を見放すことなく、父親と面談のアポを取っては、彼に宛てた伝言を託し、諦めずに登校を促し続けているらしかった。

 放課後、僕はいつもの場所に立ち寄った。

 妙に落ち着く、安心の空間、その二。

 僕だけが唯一知っている、小さな花壇に咲いた一輪の季節の花。背の高い茎に、白みがかった鮮やかなピンク色の花びらを咲かせている。昔、授業で秋の野草の種類を習ったことがある。多分、コスモスの花で、合ってると思う。

 名無しのニワトリに給食のパンを分け与えると、僕は、川崎先生の和服が似合いそうな顔をぼんやり思い浮かべながら、校舎へ向かった。

 廊下を歩いていると、職員室の方から、なにやら大人たちの言い争う怒鳴り声が聞こえてきた。僕は、夜の街灯に群がる蛾みたく、吸い寄せられるような足取りで、ソロソロ職員室へ近づく。

 入口のドアにそっと耳を貼り付けて、中の様子をうかがう。

「……このままでは、明らかに出席日数が足りなくなる。彼の今後は、目に見えているじゃないか」

「なぜそうと決めつけるんですか、教頭先生。竜君は、夏ごろに一度、登校してくれました。その際、なにも問題は起こさず、むしろ褒められるべき優等的な態度で一日を過ごしたことは、教職員一同の知るところですよね」

 川崎先生だ。先生が、西園寺の今後について、他の先生と声を荒げて言い争っているらしかった。

「彼が暴走族に所属していることに変わりはない。この学校にうまく馴染むことができず、現実逃避的な非行に走った。だったら、転校を勧めてやるのが最善の策だろう? もちろん、我々にとってもだ。むしろもっと早くに、そうすべきだったんだよ」

「つかぬことをお伺いしますが……我々教師にとって、一番大切にすべきことはなんですか。生徒を第一に考え、常に生徒のために行動することです。彼の監視を放棄して、このまま野放図にさせておくだなんて、彼にとって良いはずがありません。この照定小学生の生徒である以上、我々教員が、更生に相応しい環境を用意したうえで、彼に更生を促し続けてあげることが、彼にとっての最善の策ではないんですか」

 これまでに聞いたことのないくらい、低く太い声だった。その姿を見なくても、先生が怒りに肩を震わせているのが、僕にはわかった。

 はあ、と大きなため息が聞こえると、男性の呆れ返ったような声が続いた。

「君ねえ、好き勝手なことを言うのは良いが、じゃあ、その責任は一体、誰がとるんだい? 暴走族に所属している生徒をノコノコと学校に招き入れ、もし他の生徒を傷つけでもしたら、一体、誰に責任を取らせるつもりなんだ?」

「彼の担任である以上、私が責任をもって、最後まで彼を見届けます。すでに彼のご両親とは、面談を通じて、彼と接触する事の許可も頂いています」

「ホウ、じゃあ今から君が、全責任を負って、彼の更生に尽力するということに違いないな?」

「どなたも竜君の面倒を見ようとしないのならば、そういうことになりますね」

「よし。では、彼の更生に期待しているよ。せいぜい頑張りたまえ、川崎先生」

 それきり、先生たちの言い争う声は、めっきり聞こえなくなった。

 大人同士の喧嘩って、こんなにも穏やかで、静かなんだ。

 そんな、とりとめのない感想を抱きながら、僕は、職員室の前から立ち去った。


 図書室。うす暗い片隅の座席。空気の流れから除外されてしまった、埃たちの溜まり場。頭上の蛍光灯は、事切れてしまっている。

 その定位置で、僕は本を開いた。『灰色の女』二巡目だ。

 とたんに僕の意識は、地面スレスレに現実世界を飛び立って、高く高く夢の世界へと旅に出る。僕を邪魔するものなんて、なに一つありゃしない。素性を隠す必要も、世間の目から逃れるようにして暮らす必要も、雨に濡れる必要もない。秘密すらも、ガラクタに変わる世界。

 僕は夢の旅人。他のことはなんにも知らない。感じない。まるで覚えてない。言葉で語れる世界こそが真実。あとは全部、嫌な夢だから……。

 ポン、と優しく肩を叩かれて、僕の意識はだらしなく地面に不時着した。

 ふり返ると、そこには、疲れ切った顔を歪ませて、無理やりに笑ってみせる川崎先生が、僕の目線の高さに合わせるようにして、中腰の姿勢で立っていた。

「資料を取りに来たら、たまたま陸くんを見かけて、つい声かけちゃった」

 とっさに返答が思い浮かばず、僕は、鈴虫の羽みたいに素早く瞬きをした。

「先生があげた本、読んでたの?」

 僕は自分の手元に視線を落とす。たしかにそこには、ボロボロに汚れて萎んでしまった本が一冊、ページの端がめくれ上がった状態で置かれていた。

「そういえばさ……」

 先生は、魅せるように上体を起こすと、パカ、パカとスリッパの足音を鳴らしながら、僕の左側へ移動した。どうして、わざわざ立ち位置を変えたんだろう。疑問に思っていると、ふたたび中腰の姿勢になって、先生は続けた。

「陸くんって、先生と話すとき、いつも先生の左側に移動するじゃん? それって、誰かに教わったことなの?」

 ビクンと全身が跳ね上がる。キューと心臓が締め付けられて、水に溺れるように胸が苦しくなる。

 バレていた。ホントの僕を隠して、ウソの僕だけを先生に見せていたことが。

 黙り込んでしまうのはマズい。なにか……なにか適当なことを言って誤魔化すんだ。

「あまり意識したことがありませんでした。クセ、なのかもしれなせん」

 頭上の蛍光灯が、終末期の呼吸みたくチカチカと明滅する。ホントの僕側に立つ先生が、ストロボに照らされたように、霞がかってぼやけて見える。

 足は着地しているはずなのに、今にも体が落下していくのではないかと、急な不安感に襲われる。雨の日みたいな浮遊感が、やって来る。

 パカ、パカ、とくぐもった音が聞こえると、いつの間にか先生は、僕の右半分、つまりはウソの僕側の方へ移動していた。

 心が不安定になる直前に、ようやく頭上の蛍光灯は、沈黙してくれたようだった。

「別にいいんだよ。ごめんね、なんか先生、変なこと言っちゃった。それより……陸くん、ずっとここに一人でいるの?」

 困ったようにそう言う先生の姿は、もう霞むこともなく、ハッキリと見て取れた。

 ずっと一人、か……。

 この照定小学校で過ごした約五年という長い歳月のあいだ、僕は、様々な先生から、遠回しに『孤独』であることを非難され続けてきた。

 こんなに晴れた日に、お友達と外で遊ばなくてもいいの? 昼休みの教室で、ぼやくように言い放った先生がいた。友人が一人もいないなんて、社会に出たら通用しないよ。体育の授業で倒立のペアを探しあぐねている僕を見て、腕を組みながら説教した先生がいた。いつも一人でいるから、気づかなかったよ。ドアの鍵を施錠して、放課後の教室に一人居残っていた僕を誤って閉じ込めてしまった先生が、謝罪の最後に一言、そう付け加えた。

 木の葉が燃えるように色づき、すこし肌寒くなるこの時期になると、先生たちは、事前に打ち合わせでもしていたかのように、揃って僕のことを嫌い始める。

 クラスの平均から外れた頭を、もぐら叩きをするみたいに、ポコッと叩いて引っ込めようとする。だってそれが先生の仕事だから。それが先生の誇りだから。僕みたいに不愛想な一人ぼっちの生徒を、我が物顔でポコポコ叩いて引っ込めてみせる。ポコッ、ポコッ。

 だから、きっと川崎先生も、僕が『孤独』であることの皮肉を言い聞かせるのだろう。

 とっさにそう予想した僕は、先生の眉の動き一つも見逃してやるまいと、じっと先生の顔を凝視しながら次の言葉を待った。

「今、陸くんが何を考えていたのか、先生が当ててあげようか」

 ……なんて? 予想が大きく食い違い困惑する僕を横目に、先生は、ここが肝要だよ、と言わんばかりに、人差し指をプイと振りかざした。

「きっと陸くんは、こう考えていたに違いない。僕は孤独なんかじゃないのに。どう? 当たってるでしょ?」

 僕の胸が雑踏みたいにざわめき立つのを覚えた。今度は……完璧に当たっていた。まるでエスパーのように。

 誰もが僕の『孤独』を嘲笑う中、先生だけが、僕にまとわりつく『孤独』が仮初の姿に過ぎないことを指摘してみせたのだ。それだけじゃない。先生は、今までどんな大人も見破ることのできなかった、僕の秘密にまつわる核心へ一歩、近づいたのだ。

「どうして分かったんですか?」

 驚きのあまり、素直にそう聞き返してしまった。

「うんとね、家庭訪問の時」

「家庭訪問?」

「そう。陸くんのお父さんを見て、なんだか絵に描いたようなイクメンだなって感じた、あの時かな」

 お父さん。パパ。小雨鈴虫。美しい音色を奏でる二枚の羽。だけど空を飛べない、役立たずな二枚の羽。羽の音は、受話器の周波数からはじかれてしまって、電話では絶対に聞き取ることができない。リンリン、リンリン……。

「陸くん」

 まるで催眠術を解くような呼び声に、僕の思考が一瞬、停止した。

「言いたいことがあったら、我慢しないで、いつでも先生に言ってね」

 ポン、と優しく肩を叩くと、先生は、サイズの合っていないスリッパを引きずりながら図書室を去っていった。パカ、パカ、パカ……。僕の意識はべったり地面に立っているから、その音を明瞭に聞き取ることができた。

 先生がまた一歩、僕の秘密の核心へ近づいたような気がした。

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