24

 俺と守は、黒板のチョークの文字を、ただじっと睨んでいた。黒板消しがないので、俺が間違えないよう慎重に天井の文章を書き写したのだ。もう随分と長いあいだ黒板の前に佇んで、文章と格闘している。何度も読み返して、一言一句、違わず暗記してしまった。

『鐘が鳴るとき、双子の円が動く

 次に上へ向かえ。下へ向かう為に

 余りを取り除け。さすれば家は静まる』

 なんらかの暗号であることは、疑いようがなかった。

 俺たちは一行目の解釈から躓いてしまっていた。『鐘』はすぐにわかった。浸水のタイムリミットを知らせる、あの鐘の音だ。だが、『双子の円』とは一体なにを指すのか。円と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、四階にある緑の円盤だ。だが、『双子』の指す意味がどうにも解せない。緑の円盤。あれと似ているものなど、この『家』のどこにもなかったように思える。

「ハットリ、なにか思いついたか?」

 悔しいが、俺はかぶりを振ることしかできなかった。

「一旦、三階の部屋へ戻って考え直してみませんか。場所を変えれば、新しい発想が生まれるかもしれません」

「ああ、そうしよう」

 カガチにも声をかけようと、俺は、ダイニングへ繋がるドアの前に立った。

 ドアの隙間から寂しげに、うっすら光が漏れている。物音一つもない静寂が『一人にしておいてくれ』と言わんばかりに、一層カガチの疲労感がうかがわせた。

 相次ぐ仲間の死に、部屋で一人、悲しみに暮れていたいのだろう。明菜もそうだったように。

 二人には暗号の事は知らせずに、今はそっとしておいてやるのが、粋というものだ。

 俺は、静かに二階を後にした。

 グレンの動向の確認もかねて、守が秋菊のいる部屋へ向かっている最中、俺は、俺たちの定めた作戦会議室、つまりは三番の部屋へ向かっていた。

 モルタル仕上げの壁と床に囲まれた廊下を歩いていると、ふいに、身に覚えのある香りが漂ってきた。

 花のような優雅な香り……。カベイラが生前、纏っていた芳香だ。

 四番ドア、カベイラの死体が安置されている部屋の前を通り過ぎても、花の香りは、収まるどころか、徐々にその濃さを増していく。

 三番の部屋に到着した、その時。左の方から、春初の柔らかい陽光のような、生暖かい風が、かすかに吹いてきた。俺は、半ば反射的にふり返った。

 そこに見えたのは……箒らしきものを持った背の低い人影と、左右に揺れる長い金髪。

 アッ、と叫ぶ前に、人影は廊下の奥へ消えていった。考える間もなく、俺は人影の後を追う。いくら走っても、人影の姿は見えない。

 八番ドアの前に差しかかったところで、反対方向から守が歩いてきた。

「……どうした、急にそんな顔をして」

「いま、カベイラさんらしき人物を見たんです」

「なんだって?」

 俺は息も切れ切れに、今しがた遭遇した不可解な現象を守に説明する。

「そんなもの、見ていないぞ。……ということは、その人影とやらは、ここか明菜さんの部屋へ入った可能性が高いな」

 守は、いたって冷静に言うと、目の前の八番ドアを睨んだ。

 かえでが見たという、一初らしき人影。それも、人影は箒を持っていたらしい。俺が先に見た人影もまた、箒を持っていたように思えた。

 やはり、なにかの見間違いだろうか。しかし……かえでと俺が偶然、似たような見間違いをするだなんて、果たして現実に起こり得るのだろうか。

 二回、次いで一回ノックをすると、守は勢いよく八番ドアを開けた。

「秋菊、いるか?」

 ズンズン部屋の奥へ進む守。俺も急いで守に続く。

 そこには、ぺちゃんと脚を広げて地べたに座り、迷いなく手首にカッターナイフの刃を押し当てる、秋菊の姿があった。

「おい、なにやってるんだ!」

 秋菊へ駆け寄り、カッターナイフを握った手を弾く守。抵抗し暴れようとする秋菊を、とっさに背後に回り込んだ俺が、羽交い絞めにして制した。

「自分を傷つけるのはダメだと、あれほど言っただろう」

 野生動物のような奇声を上げる秋菊。極度に興奮していて、まともに意思の疎通ができる様子ではなかった。

「どうやら秋菊には、自傷行為の癖があるらしいんだ」

 ゆえに守は、彼女から目を離している間、彼女をロープで縛り付けておくという乱暴な手段に及んだのか。

 秋菊は、滅茶苦茶に腕を振り回し、自分の頭皮を爪で引っ搔きまわす。フケが粉雪みたいにパラパラと舞った。

「守、ロープは余ってる?」

「ああ、風呂場に転がってるはずだ」

「この子には悪いが、また縛っておこう。ずっとそばで見守っておくわけにもいかないし」

「賛成だ」

 そうして、秋菊を羽交い絞めの体勢のまま風呂場へ連れていき、二人がかりで胸縄と足の親指を接続する拘束力の高い縛りを施すと、ころんとベッドの上に寝かせてやった。

「すまない。脱出の目途がつくまで、そこで大人しくしていてくれ」

「悪いことをしたわけでもないのに、本当にごめんなさい」

 俺たちの声が耳に届いているのか、届いていないのか、秋菊はベッドの上でぼうっと虚空を見つめて、置物のように微動だにしなかった。

 なにはともあれ、この部屋には、秋菊一人しか居ないことは確かだった。俺の見たカベイラらしき人影が幻覚でないとすれば、間違いなく人影は、明菜の部屋へ入ったはずなのだ。

 秋菊に別れを告げると、すぐさま一番の部屋へ移動した。

 ノックで合図をしても、なぜだか返事がない。声をかけようと息を吸い込むと、眼前に守の腕がスッと伸びてきた。人差し指を唇に押し当てる守。

 そうか。明菜は弾丸の込められた銃を装備している。万が一、明菜の部屋に侵入者が潜んでいれば、そいつは銃を奪い取っている可能性があるのだ。

 俺はドアノブを握り、守に目配せをして合図を送ると……ドアノブをひねり勢い良く部屋に侵入した。

 素早く部屋を見渡す。敵はいないようだ。だが、妙なことに、部屋のどこからも人の気配を感じられないのだ。

 人影が煙のように消えた。……しかし、この部屋には、明菜が居たはず。

「明菜さん、俺です。安心してください、後ろに守もついてますから」

 俺の声は、虚しく部屋に残響して散ってゆく。ただならぬ雰囲気を察知した俺と守は、一歩、一歩を踏みしめるよう慎重に、部屋の奥へと進んでいく。

「ウッ……」

 これでもかと言わんばかりに眼前に叩きつけられた光景に、俺は、その場でえずき、膝から崩れ落ちる。

 視界から色彩が消え、周囲から音が消え、やがて匂いすらも立ち消える。グレンの部屋で見たスプラッター映画のワンシーンが、勝手に脳裏で再生される。噴き上がる血糊。腹から引きずり出された大腸。恐怖に歪み汗ばんだ美女の顔……。

 背中の筋肉が激しく痙攣する感覚だけが、俺には残された。口の残留物を唾液とともに吐き出す。どうやら、嘔吐したらしかった。

 意を決して、俺はふたたび顔を上げた。

 部屋の右隅、白目をひん剥き口から泡を吹いて、顔に苦悶の表情を貼り付けた明菜が、ベッドの下に転がるようにして、大の字になって倒れていた。

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