XXIII

 西園寺竜が、櫛でリーゼントの髪型を撫でながら、なに食わぬ顔で自分の座席に座っていた。

 イカつい特攻服は健在で、ヤクザ映画のスクリーンから飛び出してきたかのような風貌は、半端じゃないほど『5-3』教室内で浮いていた。クラスメイトたちは、立ち歩き雑談を交わすのも忘れて、あんぐり口を開けながら、西園寺のことを凝視していた。

 さすがは海千山千、ただ黙って座席につき、大事そうに髪を撫でているだけなのに、圧倒的なまでの非凡なオーラを放っている。

 絶妙な距離を置いて、誰も彼に声をかけようとしない。でも僕は、声をかけてやりたかった。

 キャンプファイヤーの時のパラリラパラリラ、すごく良かったよ。

 パカ、パカ、パカ……。廊下の方から、川崎先生がサイズの合ってないスリッパを引きずる音が聞こえてきた。

 僕は机の上で本を開いた。二巡目の『幽霊塔』だ。

 しばらくして、本を閉じる。そろそろ呼名の順番がやって来る。

「六番、小雨陸くん」

「はい」

 先生は僕と目を合わせると、安心したように点呼を続けた。

 朝の会で読書をしていても、一度も先生に怒られたことがない。先生は、わかってくれていたのだ。僕にとっては、ここは夢の世界で、本の中の世界が現実だってことを。

「……八番、西園寺竜くん」

 名前を呼ばれると、西園寺は眉をひそめて、落ち着きなく上半身を揺すりながら大きく息を吸い込んだ。

「オラァア!」

 本物の凄みに、周囲の人がビクンと肩を震わす。先生は、西園寺と目を合わせ、一瞬だけ微笑んで見せると、すぐさま視線を出席簿の上に戻した。あの日、僕にしてくれたように。

 なんだか可笑しくって、僕は小さく腹を揺らして、萎んでゆく風船みたいに笑った。


 一度教科書に目を通しただけで、なんなく授業の内容を理解してしまう西園寺は、それからというもの、特にこれといった問題を起こすこともなく、なにかの儀式を執り行うみたいに粛々と小学校生活をこなしていった。

 廊下ですれ違う教職員たちから浴びせられる侮蔑の視線をものともしない、暴走族で磨き上げられたホンモノの度胸に、クラスメイトたちの彼に向ける好奇の目が、次第に畏怖の眼差しへ変わっていくのが、僕にはわかった。

 西園寺は、悠々と仲間のバイクに揺られながら、正門を出た。バイクでの登下校が禁止されているゆえか、遠慮がちに蛇行運転しながら、バイクは走り去っていったという。眉をひそめて軽蔑の視線を送る教職員たちには、最後まで頑として無視を貫き通したらしかった。

 そうして、いつもとちょっぴり味の違う一日が終わって、相変わらず心にパラパラ小雨の降り続ける僕は一人、校舎の中で待っていた。

 選んだ場所は、音楽室。グネグネ波打つ天井が特徴的な、トリックアート美術館みたいな教室である。僕以外には誰もいない。昼間の喧騒とはほど遠い、ただ静かに時の流れゆく空間。今日の役目を終えて、皆から忘れ去られてしまった、僕だけの空間。

 電気をつけない方が、僕には心地よく思えた。

 中央にポツンと置かれたグランドピアノの前に座ってみる。天井にズラッと並んだモシャモシャ頭の偉人の肖像画が、試すような顔で僕を見下ろしてきた。肖像画たちが、頭をもたげて僕の耳元で囁く。「なにか弾いてみろよ、小僧」「ポップスなんかじゃダメだぞ。クラシックだ、クラシック」「よおく聴いておいてやるからな」

 言われなくても、すでに指は勝手に動き始めているというのに……。僕は、スッと腕を高く持ち上げた。  

 教室の窓のすぐ下の、トタン波板の屋根に仕切られた小屋の中で、小さな瞳を潤ませ、何度も転んでは立ち上がりながら、孤独に戦っている、名無しのニワトリへ贈る演奏。

 ショパン作曲『英雄ポロネーズ』。

 絶頂へ登りつめていくかのような序奏。爆発的な期待を維持して、主題へ突入する。歯切れのいいリズムに雄大な旋律。しっかり緩急を意識して、丁寧にピアノの鍵盤をなぞっていく。

 二度目の主題は、より盛大に。まるで、傘も持たず小雨に打たれながら、アスファルトの道路をスキップするかのように、豪華に。

 転調して、ここからが勝負だ。左手の印象的なオクターブの連打。腕の筋肉が緊張して悲鳴を上げる。だが決して力んではいけない。弱く静かに、小雨陸と小雨鈴虫みたいに、そっと鳴りを潜めて。

 やがて曲は、病的に弱々しい場面へと移り変わる。健康状態に優れなかった当時のショパンの心境を象徴するかのような場面を、あえて僕は元気いっぱいに弾きこなす。だって、ここは夢の世界。現実のことは、他のものに任せてしまえばいいのだから。

 最後まで、集中力を絶やさずに……見事に演奏を終えた!

 ピアノ椅子の上で、脱力。次いで、全身がビクビクと痙攣。天井の肖像画たちは、しかめっ面をしながら、絵の中へ引っ込んでいった。

 パチ、パチ、パチ……。

 拍手? ふり返ると、そこには、誇らしげな笑みをたたえた川崎先生が、シャンと立っていた。

「なんだ、先生じゃないですか。まったくモウ、驚かせないでくださいよ」

 すると先生は、なぜだかビックリしたように目を見開いた後、了解したように肩をすくめ、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。

「素晴らしい演奏だったわ。ペダルも完璧。どこで習ったの?」

 じっくり時間をかけて考えてから、僕は答えた。

「テレビで演奏している人の動画を録画して、それを何度も見返して、おもちゃの電子ピアノで練習しました」

「独学でここまで弾ける人、初めて見た。なんだか先生、感動して涙が出てきちゃったよ……」

 嘘ではなかった。小粒の目から透明な涙が溢れ、潰れた鼻からはタラタラ鼻水が垂れ出てくるではないか。先生はチェック柄のパンツのポケットからハンカチを取り出して、涙を拭うと、鼻声で尋ねた。

「まだ、ここに居るの?」

 僕は喋る代わりに、ピアノをポロンと短く弾いてみせた。

「そっか。遅くなり過ぎないようにね。なにかあったら、すぐに先生を呼んで。職員室にいるから」

 先生はハンカチで思いきり鼻をかむと、背中に哀愁を漂わせながら、音楽室を後にした。

 今更になって、僕は、体の右半分が先生の方を向いていたことに気づいた。

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