18

 俺と守は、ふたたび四階へ向かった。到着したところで、二階で待機するカガチと明菜にエレベーターのカゴを下してもらう。

 あとは、目の前の錆びた銀の扉をこじ開けることができれば、ここからカゴの天井を見下ろすことができるはずである。

「ハットリは右側を頼む」

「わかった」

 閉ざされた扉のわずかなすき間に指をねじ込んで、中腰の姿勢で足をふん張り……二人で合図をして同時に勢いよく引く。すると両扉は、鉄の軋む音を立てながら、案外簡単に開かれた。

 俺と守は、扉を潜り身を乗り出して、下をのぞき込んだ。

 そこは、沈んだ暗闇で満たされていた。カゴの天井は、闇に溶け込んでいて、よく見えない。目を凝らしてみると、底の方で、闇を吸って青黒く染まった水面がウネウネ波打っているのが、かろうじて見て取れた。

 かすかに吹き上げる冷たい風に乗って、甘じょっぱい涙のような香りが漂ってきた。 

 繋がっているのか、完全に水没した一階に。つまり、カゴの下部が自分よりも上の位置にあれば、ここを降りて、いつでも一階へダイブすることができるというわけだ。

 なるほど、エレベーターの扉を無理にこじ開けるには相当の力が必要である、という思い込みが俺たちを思いとどまらせ、エレベーターの昇降路という重要な通路の存在に、今まで誰も気づけなかったのだ。

 徐々に目が暗闇に慣れてきた。依然として、カゴの天井は闇に溶け込んだまま。

「なにか見えた?」

 俺の問いに、守は沈黙するだけ。

「かえでくーん。いたら返事してくれー」

 俺の声が、山びこのように昇降路で何度も反響する。当然のように、返事は聞こえてこない。

「どこかにライトがあれば、もっとハッキリ見える……」

 なんとなく守の方をふり返った俺は、そこで言葉をプツリと途切ってしまう。

 恐怖に眼は大きく見開かれ、額には玉の脂汗が浮かんでいる。守には、見えているのだ。カゴの天井が。そしておそらく、そこにある光景が。

 俺は息を殺して、もう一度よく下の空間に目を凝らしてみた。

 今度は鮮明に見て取ることができた。うす闇にぼんやりと浮かぶ、埃の積もったカゴの天井部。四肢を『卍』の形に放り出し、頭から血を流したかえでが、そこにグッタリ倒れているのを。

 その後、四階にいる俺たちは、降下するエレベーターのカゴから慎重にかえでの遺体を回収した。その死に顔は、子供とは思えないほど憎悪に歪み、彼が死の直前、いかに恐ろしい出来事に遭遇したのかを如実に物語っているようだった。

 俺たちが寝ている間に四階へのぼり、こじ開けられた扉から昇降路に落下し、二階に停止したカゴに頭を打ちつけ亡くなった、というのが守の見解だった。俺もまったく同じ意見だった。

 しかし……なぜかえでは、四階へ向かったのだろうか。どうして子供一人の力だけで、扉をこじ開けることができたのだろうか。事故として片付けるには、あまりに多くの謎が残されていることに、心の底では気づいていたが、俺はあえて口に出すことはなかった。

 皆で相談した結果、遺体は三階の五番の部屋に運ばれることになった。入道雲の青空の壁が特徴的な部屋の中央に遺体を安置すると、一同は静かに手を合わせた。

 明菜は肩をしゃくり上げ、いつまでもボロボロと大粒の涙をこぼしていた。

 去り際、またもや俺は、身に覚えのないフラッシュバックに襲われた。

 今度は空の明るい日だった。埃っぽい部屋の窓から、四角に切り取られた陽光が差し込んでいる。窓の前に、大きな人影が立っている。幾分か背の低くなった俺は、ゆっくりと人影の背後へ近づいてゆく。足元に敷かれた曼荼羅模様の絨毯に手をかけた。力強く引っ張る。絨毯はビクとも動かなかった。俺は畏怖するかのように人影を見上げた。人影は、大樹のように巨大な存在に思えた。

 そこで唐突に、幻覚は途切れた。

「俺は一体、誰を殺そうとしたんだ……」

 誰もいなくなった五番ドアの前で一人、そう呟いた。

 二階の部屋には、筆舌に尽くしがたい重苦しい空気が垂れ込めていた。当然である。一初とカベイラの二人に加えて、まだ六歳の子供に過ぎないかえでくんの命までもが奪われてしまったのだ。それも、ほんのすぐ目の前で。

 またもや阻止できなかった。このゲームを企んだ奴の目論見通り、『家』の中で新たな被害者が生まれてしまったのだ。俺は自責のあまり、胸の中を爪で滅茶苦茶に搔きむしってやりたい衝動に駆られる。他の三人も同様に、自責の念に苛まれているに違いない……。

 ……いや、待てよ。忘れてはいけない。この『家』にはもう一人、居るではないか。

 グレンだ。そう、彼ならば、誰にも気づかれないように二つの遺体を処理し、かえでくんを四階から突き落とすことが可能であったはずなのだ。

 いくら眠っていたとはいえ、あの時、俺たちは一箇所に密集していた。ゆえに四人のアリバイはほとんど証明されているといってもよいだろう。対して、グレンはどうだ? 俺たちが二階に集まっている間にかぎっては、三階と四階を自由に行き来することができたではないか。

 まず二体の遺体を四階へ運び出す。次に、事前にエレベーターの扉をこじ開けておいて、なんらかの方法でかえでを四階へ呼ぶ。カゴが二階へ移動するのを待って、かえでを昇降路へ突き落す。遺体は、カゴの天井に落下しないように注意しながら、同じ昇降路から水没した一階へ放り投げてしまう。上から見下ろせない位置にまで遺体が流れ着けば、現在とまったく同じ状況が出来上がる。

 多少の強引さはあれど、俺の推理に大きな誤りはないはずだ。そうだ、これ以外にあり得ない。やはり、皆が薄々と勘づいていたように、一初やカベイラを殺害した犯人もグレンに違いなかったのだ。

 絶望に打ちひしがれたような空気を払拭するべく、疲弊した守に代わって推理を披露しようと、俺は、大きく息を吸った。

「……私、皆に言いそびれていたことがあるんです」

 すると、ようやく泣き止んだ明菜が、鼻をすすりながらそう言い出した。俺は出鼻をくじかれ、口をつぐんでしまう。

「実は、以前かえでくんが、こんなことを言っていたんです。……一初さんを見たって!」

 サーと血の気の引いた顔を一斉に持ち上げる、他の三人。

「三階の廊下で、箒を持った一初さんの後ろ姿を見かけて、声をかけようと近寄ったら、結局、曲がり角で消えてしまったみたいで」

「本当なのか?」

 叫ぶように守が明菜に詰め寄る。

「うん。一初さんが生きているって、かえでくん、すごく嬉しそうにしていたから」

「なぜ言わなかったんだ?」

「……かえでくんの勘違いだったら、皆を余計に混乱させるだけだし。それに、あの時は、まさかこんな事態になるなんて、思ってもいなかったから。また後でゆっくり話を訊こうと思ってたの」

 ごめんなさい、と最後に付け足し、シクシクとすすり泣く明菜。責め立てるような口調を反省したのか、守は小さく体を丸め込んでしまった。

 俺はとっさに、ポケットから純白のハンカチを取り出し、明菜に手渡した。

「これ、使ってください」

「ありがとう」

 明菜は静かな手つきで、ハンカチを受け取った。女性に心から感謝されるのは、これが初めてだった。

「こんな時に止めてくれ。昔から幽霊の類が苦手なんだよ、俺は」

 両手で肩をさすりながら、堅物なライターらしからぬことをぼやくカガチ。

 それにしても……箒を持っていただって? あまりに馬鹿げている。ここは怪奇幻想の世界ではない。死体がゾンビのように蘇ることなんて、あるはずがないのだ。

 いや……守が脈を測って検死をした、あの時。本当は一初が死んでいなかったとしたら? 皆を欺き死体のフリをした一初が、今の今までどこか別の場所に隠れて生きていたとしたら。

 まさか。あんなにも純朴な青年だった一初が、そんなマネをするはずがない。きっとかえでは、部屋に入っていく何者かを一初の後ろ姿と勘違いしたのだろう。

「聞いてくれ」

 すると、動揺も冷めやらぬままに、守が声を上げて皆の注目を集めた。

「人のことは責められない。かなり最初の段階から、わたしも皆に黙っていたことがあるんだ」

 ゴクリと生唾を飲み込む音が、あたりには響いた。

 誰もが心の隅で気に留めていても、守を信じて決して問いただそうとはしなかった、彼の秘め事。それが、ついに今、知らされるのだ。

「ここには、実は……もう一人の参加者がいる」

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