17

「起きろ、ハットリ……起きろ!」

 かすんだ視界には、三つの顔が映っていた。守、カガチ、それと……唇を真っ青にした明菜。

 眠い目を擦りながら、俺はゆっくり上体を起こした。

「……おはようございます」

「マズい。かえでくんが消えた」

「え?」

 守の緊迫した様子に、一瞬にして眠気が吹き飛ぶ。

「あの後、ここで全員が寝てしまったんだ。その隙に、かえでくんが一人でどこかへ行ってしまった。先に気づいた明菜が全階を探して回ったらしいが、どこにも姿が見当たらないらしい」

 弾けんばかりの元気はどこへやら、明菜は顔面を蒼白にしながら、わなわな頷くだけであった。

 そんなにも大変な事態が起こっていたにも関わらず、すぐ傍で吞気にスヤスヤ寝ていただなんて。俺は、怠惰な精神と自身の不出来さを呪った。

「ごめんなさい、俺としたことが」

「いいや、誰も責められねえよ。みんな仲良く寝ちまったんだから」

 カガチが気まずそうに顔を俯けながら、そう言う。

「わたしだって人のことは言えない。それよりも今は、かえでくんの行方だ。全員で手分けして、急いでここを探そう」

 その後、守の迅速な判断によって、明菜は二階、俺と守は三階、カガチは四階を調べることに決まった。エレベーターを降りると、俺と守は二手に別れて廊下を進んだ。

 まず四番の部屋を調べようと、部屋の中に足を踏み入れたところで、俺は驚嘆のあまり一人、大声を上げた。

 そこにあったはずの、ベッドシーツにくるまれたカベイラの遺体が、跡形もなく消えていたのだ。

 多種多様なフランス人形が壁にずらっと並べられ、暗赤色の大きなソファに、天井からシャンデリアの吊るされた優雅な室内。その中央に、たしかに手つかずの遺体が横たえられていたはずなのだ。

 誰かが死体を移動させたのだろうか? 一体なぜ? ……わからない。だが今は、かえでくんの行方を調べることが先決だ。

 俺はくまなく部屋の中を探すと、どこにもかえでが隠れていないことを確認して、すぐさま次の部屋へ移動した。そうして、俺、カガチ、明菜の部屋を順に見て回り、八番の部屋へ向かおうとしたところで、ちょうど守と鉢合わせた。

「そっちはどうだった?」

「ダメでした。守は?」

 首を横に振る守。

「部屋のグレンにも訊いてみたが、知らないの一点張りだった。噓をついているようには思えない。相変わらずの虚脱状態だったよ」

「そうですか……」

 どうやら三階にかえでは居ないらしかった。そして、もう一点、俺は例の件を守に尋ねてみた。

「あの、カベイラさんの遺体が部屋から消えていたんです。なにか守は……」

「なんだって?」

 守は目を大きく見開き、俺の言葉を途中で遮ってしまう。

「こっちも同じことを尋ねようと思っていた。……一初の遺体が、部屋から無くなっていたんだ」

 俺と守は、顔を見合わせ、しばしその場で立ち尽くしてしまった。

 背中からパン切り包丁の柄を生やし血を流して倒れていたはずの一初の遺体が、そこにはなかった。それだけではない。何事もなかったかのように、部屋が綺麗に整頓されているのだ。

 乾いた血溜まりも、蹴り倒されたピアノ椅子も、すべてが元通りになっている……。

「誰かが外に運び出した、という事でしょうか」

 守はじっと黙り込んで顎に手を置き、なにか深く考え込んでいる様子だったので、俺は独り言のように続ける。

「二階は常に誰かがいたから可能性は低いとして、遺体が移動されているとしたら、あとは四階か……」

 ここでようやく守は顔を上げて、俺の言葉に反応した。

「ああ、その通りだ。とにかく、下へ戻って二人にも話を訊いてみよう」

 そうして、数多くの謎を抱えたまま、俺と守は二階へ向かった。

「やっぱり、どこにもいませんでした。……どうしよう。私のせいで、かえでくんの身になにかあったら」

 体を震わせながらそう話すのは、明菜。

「明菜さんだけの責任ではない」

「そうです。それに、きっとかえでくんは見つかるはず。だから、大丈夫ですよ」

 俺は、守に続き、明菜を励まそうと必死に言葉を紡ぎ出した。

 すると、エレベーターが騒々しい駆動音を立て、四階からカガチが降りてきた。

「歯車のすき間まで探してみたが、かえでくんは見つからなかったぞ……って、二人とも、なんでそんなに俺を見つめてるんだ?」

 俺と守の訝しげな視線を察してか、カガチは狼狽えながら後ずさりする。

 ここで守が、一初とカベイラの遺体が部屋から消えてしまったことを二人に説明した。

「そんなの……俺は本当に知らなかった。四階には遺体が運び出された形跡なんて無かったし、ましてや遺体そのものだなんて、どこにも見当たらなかった」

 守の話を聞き終えると、カガチは心底驚いた様子で、矢継ぎ早に語った。

「私も、かえでくんがいなくなったことに気をとられて、遺体の事はさっぱり……」

 どうやら、明菜も知らないようであった。

 誰も手を触れていないのに、二つの遺体が煙のように消えて無くなってしまう。そんな怪奇幻想めいたことが、現実に起こるはずがないのだ。

 決してカガチを疑っている訳ではないが、一度自分の目で四階を確かめてみないと、どうにも気が済まない……。

「かえでくんの捜索もかねて、念のためもう一度、四階を見に行ってくる」

 守も同じことを考えていたらしく、俺の気持ちを代弁するかのように、そう言い出した。

「待って、俺も一緒に行きます」

 守に遅れをとらないよう、俺は力強く上矢印のボタンを押した。

 無数の歯車に囲まれた四階では、俺たちが探し求めていたものは何一つとして見つけることができなかった。やはり、カガチの説明は正しいらしかった。

 ガシ、ガシ、ガシ……。

 約一秒の間隔で、低くくぐもった不気味な音が、狭い部屋中に響き渡る。

 歯車が織りなす蠕動運動のような光景も相まって、長らくこの部屋に留まっていると、なんだか気が狂ってしまいそうだ。

 用済みになった四階を早々に立ち去ろうとしたところで、ふと視界に、特徴的な緑色の円盤が映った。

 この『家』自体が時計塔で、ここ四階の歯車はすべて、時計の針を稼働させるためのからくり仕掛け……。

「どうした、ハットリ」

 守に呼びかけられ、俺はフッと我に返ったように顔を上げた。

「その円盤が気になるのか」

「ええ、はい」

「かえでくんまで、消えて居なくなるはずがない。もしかしたら、誰も知らないところで、なにか隠された仕掛けに巻き込まれて、今もどこか別の場所に閉じ込められているのかもしれない……」

 ガーン……ガーン……ガーン……ガーン。

 なんの前触れもなく、五回目の鐘が『家』に鳴り響いた。肺の底から震え上がるような鐘の余韻が、うすれて消えてゆく前に、守は捲し立てた。

「次の鐘で二階の浸水が始まる。もう時間がない。急ぐぞハットリ。手遅れになる前に、このふざけたゲームに終止符を打ってやる」

 そう意気込むと、脇目もふらず駆け足でエレベーターに乗り込む守。閉じゆく扉に身をねじ入れ、急いで守に続いた。

 窮屈なエレベーターの中で、守は、意味不明の言葉をブツブツ唱え続けていた。精神に異常をきたしているとまでは言えないが、尋常でないほどの焦りに駆られていることは、疑いようがなかった。

 いついかなる時も冷静を保って、大黒柱よろしく皆を支えていた守の精神が、ついに壊れはじめている。

 俺とて、焦りや不安を感じていないわけではない。だが、守が居ればいつかはどうにかなる、だなんて太平楽なことを考えていたこともまた事実である。

 つまるところ、俺は、なにもかもを守に任せっきりだったのだ。犯人捜しも、ゲーム主催側との知恵比べも、皆の命を守ることも、なにもかもすべて……。

 ガクンと慣性に揺らされて、二階に到着した。

「一から二階を調べ直してみよう。なにか、絶対にあるはずなんだ。なにか……」

 守は、なにやらブツブツ唱えながらエレベーターを飛び出そうとする。

 ……タンタッ。今、頭上から、妙な音がしなかったか? まるで、弾力のある物体がバウンドするかのような。

 次の瞬間。俺は、全身が粟立つのを覚えた。半ば反射的に、歩き去ろうとする守の腕を力強く掴んだ。

「まだ見ていない場所が、一箇所だけあった」

 守の瞳孔がスーと開いていくのがわかった。

「エレベーターのカゴの上です」

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