XVI

 トタン波板の屋根からタラタラ垂れ落ちてくる雨のしずくを、僕は、中身のないガランドウになったみたいに、ただぼうっと眺めていた。

 名無しのニワトリは、連日の雨にくたびれて、眠ってしまっていた。

 サーと心地よい、だけれど、どこか物悲しい雨の音。小雨陸。名前の通りに、いつも胸には、どっちつかずの中途半端な小雨が降り続いている……。

「陸くん」

 背後をふり返らなくても、声の正体はすぐにわかった。

「あの本、濡れちゃったんだね。私、うっかり袋に包むのを忘れちゃって。ごめんね」

 バレた。先生から貰った本を、教室のゴミ箱へ葬ったことが。

 こっぴどく叱られようが、嫌味を言われようが、僕はなんにも言い返すことができない。だって、それは仕方のないこと。先生には、なんの責任もない。受け取れば、あとは全部、僕の責任だから……。

「どうかな、これ。一人でいるときに読んでみたら、きっと楽しいと思うの」

 ……怒らないのか? 僕は、弾かれたようにふり返った。

 先生は、傘で雨を避けながら、穏やかな表情で、透明なビニール袋に包まれた単行本を僕に差し出していた。『幽霊塔』だ。それも、新品だった。

「実はね、その本にはモデルとされている本があってね。そっちも読み応えがあって、すっごく面白いのよ」

 先生は、まったく同じ種類の本を、わざわざ僕の為だけに買ってきてくれたのか? どうして? そこまでして僕に、この本を読ませる意味があるのか?

「別に意味なんか、ないよ」

 すると先生が、エスパーで僕の心を見透かしたみたいに、そう言い放った。ふと、ホントの僕が、先生の方を向いていることに気づいて、僕はしゃがんだまま急いで体を左に反転させた。

「幸せの語源は、し合わす、ことだって説明したでしょ? だから先生は、偶然のめぐり合わせを大切にしたいと思ってるの。ただ、それだけよ」

 先生の口から『責任』という言葉が飛び出した暁には、先生のことを本物のエスパーだと信じて疑わなかったろう。だが実際には、違うらしかった。

 なんだかよくわからないが、どこか安心感を覚えて、僕は、ビニール袋の本を受け取ってみることにした。袋は、かなりの重さがあった。

「ちょっと中、見てみてよ」

 僕は慎重に袋の中から本を取り出した。『幽霊塔』の下にもう一冊、『灰色の女』という題の本が隠されていた。

「そうそう、それがモデルとされている本。黒岩涙香って人がその本を翻訳して、今度はそれを読んだ江戸川乱歩って人が『幽霊塔』として書き直したの。まるで伝言ゲームみたいに繋がって、こうして今、悠久の時を経て、私たちの手元に残ってる。これって、素敵なめぐり合わせだと思わない? めぐり合って、繋がってる。偶然に、陸くんの手元にも、ほら」

「……ありがとうございます」

 ウソの僕が黙ったままなので、代わりに、ホントの僕が答えた。

「どういたしまして」

 先生は、ふいにブルっと身を震わせると、続けた。

「校舎においでよ。雨の日に外で待ってたら、やっぱり風邪引いちゃう。空いた教室とか好きに使っていいから。中だったら、人の体温で暖かいし」

「わかりました」

「ほんとに?」

「読み終わったら、学校の中で待ってもいいですか?」

 先生は、小粒な眼を宝石みたいに輝かせながら、「もちろん」と答えた。


 そうして、強い風の日も、不安定な雨の日も、僕は、ニワトリ小屋と花壇の間にしゃがんで、先生から貰った本を黙々と読み進めた。国語の教科書に載っている作品とは桁違いの文章量で、おまけに内容も複雑。慣れない読書に、最初は、活字を目で追うことですら苦労したが、根気よくページをめくっていくうちに、徐々に活字の羅列にも目が慣れてきた。

 桜の花びらが散り、僕の心模様みたいな時期を通り過ぎると、やがて、青空がうんと高く背を伸ばす、蒸し暑い季節がやって来た。

 僕だけが唯一知っている、小さな花壇に咲いた一輪の季節の花。ほっそりとした茎の先に、粒みたいな紫色の花をポンポンみたく幾つも咲かせている。昔、授業で初夏の野草の種類を習ったことがある。多分、ラベンダーの花で、合ってると思う。

 そうして、僕がウンウン苦労しながら校舎の外で読書をしている間、川崎先生もまた、別の事柄で苦労をしていた。

 西園寺竜だ。あれ以来、彼は一度も学校に姿を見せなかった。暴走族内でメキメキと名をあげ、今ではすっかり一人前のワルになっていると、小耳に挟んだ。

 そんな西園寺を、先生は、決して見捨てることなく、日常的に学校へ通えるまでに更生させようと日々奮闘していた。

 僕は、学校の校門で、先生と西園寺の父親が立ち話をしているのを度々見かけた。どうしても登校ができないというのならば、せめて、毎年五年生だけを対照に一晩中学校を貸し切って行われる『学校お泊まり会』にだけは、参加してみないか。先生は父親を仲介して、そう彼になんども説得を試みているらしかった。

 返ってくる返事は毎回、芳しくなく、それを知って先生が表情を曇らせるのを、僕は本越しに隠れて眺めていた。

 ようやく『幽霊塔』を読破して、二冊目の『灰色の女』に突入した。

 読書に相当の時間をかけたゆえか、僕にも段々と本の魅力がわかってきた。本は、僕を様々な世界へ旅立たせてくれる。現実の世界なんて、旅先の景色に比べれば、ほんのちっぽけだ。いつどんな所に立っていても、本さえ持ち歩いていれば、広げた傘を上昇気流に乗せて、安心安全な旅へ飛び立つことができる。雨の日みたいに、浮いたり沈んだりを繰り返して、現実の地面スレスレをさまよう必要もない。妙に落ち着く、安心の空間、その三……。

 本を閉じて顔を上げると、そこは、『学校お泊まり会』の開催されている夜の学校だった。

 ガラガラ。教室のドアが開くと、朗らかな顔をした川崎先生が現れた。

「あれ、陸くん、まだ部屋にいたの? 他の班員は?」

 部屋……といっても、ここは学校の教室に違いないのだが。

「着替えて、先に外へ行きました」

「そっか。もうすぐ校庭でキャンプファイヤー始まるよ。本はロッカーに仕舞っておきな」

 先生は、教室の後ろに備え付けられたロッカーを指差しながら言った。

「持っていきます」

「え、キャンプファイヤーに?」

 もし、番号札の鍵をどこかに落として、それを誰かに拾われたら、もはやロッカーは安全な場所とは呼べない。だから、この本『灰色の女』は、僕が抱えて持っておく。

「失くさないように気をつけてね。校庭で待ってるから」

 そう言い残して、先生は忙しそうに、別の教室の方へ去っていった。

 束の間の現実。僕は、隅に寄せられた机と床の布団を避けて、教室の出口に向かう。教壇には、これ見よがしに『2-5号室』のシールが貼られたアクリルキーホルダーが置かれている。生徒たちだけで、ホテルの部屋に見立てた各教室に寝泊まりするというのが、本イベントの醍醐味でもあるらしかった。

 本当はこんなイベント、参加したくなかった。だがパパが「参加しないと変に思われるから、参加しろ」と言うので、僕は仕方なく、アンケート用紙の『参加する』に丸を付けた。

 少しでも疑いの目で見られたら、やがて僕の素性が露見するかもしれない。ママは京葉晴である。それが世間に知られたら……バン! マスの海を優雅に泳ぐママは、隠し子スクープの銃弾に血を流して、暗い海の底へ沈んでゆくのだ。

 だから、絶対に目立ってはいけない。ママが、僕とパパを忘れ去ったように、世間の人様も、僕とパパを綺麗さっぱり忘れ去る必要がある。命に替えてでも、僕の秘密は、知られてはいけない。忘れ物は、忘れ物であり続けなくちゃいけない。小雨陸と小雨鈴虫。リンリン、リンリン。飛べない役立たずの羽で、美しい音色を奏でる。羽の音は、受話器の周波数からはじかれてしまって、電話では絶対に聞き取ることができない……。

 なんだか、小雨ばっかの現実が嫌になって、やっぱり僕は、本を開いた。

 本を閉じると、目の前には、巨大な炎があった。山のように積まれた薪がバチンと赤く弾けて、濃紺の夜空に火の粉を舞い散らせる。周囲の闇を飲み込むようにして、炎は、勢いを増してゆく。

 校庭の土に置かれたラジカセから『マイムマイム』が流れてきた。「踊って!」「歌って!」「楽しむのよ!」。曲のけだるいリズムに合わせて、教職員たちが足を交互に蹴り上げ、ぴょこぴょこ前進する。

 生徒たちもそれに合わせ、炎をグルっと円で囲むようにして、不格好な行進を始める。

 本を開いていたかったけど、止まっていると後ろの人からど突かれるので、僕は仕方なく前の人についていく。不満そうな顔をした他学年の教職員が、面倒くさそうに跳ね回っている。後ろの人だって、なんだか浮かない顔をしていた。

 なんでこんなことをしているのか、誰一人として分かってない。円の中心にそびえ立つ巨大な炎だけが唯一、己の使命を全うしようと一生懸命に、夜空にメラメラ火の粉を噴き上げている。

 ふとニワトリ小屋の方を見遣ると、名無しのニワトリが、赤い光にぼんやり照らされながら、魂の抜けたように燃え盛る炎を見つめていた。わかるわぁ、その気持ち。

 ボンボボボン、ボンボボボン! 

 すると、とつぜん大地が割れんばかりの爆音が、夜風に乗って遠く聞こえてきた。そのあまりの音圧に、教職員や生徒たちが、示し合わせたかのようにビクンと行進を止める。ボンボボボン、ボンボボボン! 次第に爆音は、群れを成し振動の弾丸となって、こちらに迫って来る。

 パパパパパパー。今度は軽快なラッパのメロディーが聞こえてきた。もはや『マイムマイム』どころではない。振動によって校舎が崩壊しないか心配になるほどの爆音で演奏される『暴走族の狂騒曲』は、炎の明かりにも増して、僕たちの注意を根こそぎかっ攫ってゆく。

 教職員たちが、露骨に眉をひそめる。赤黒く照らされた大人の顔顔が、嫌悪と侮蔑によって歪んでいく。

 パパパパパパー。なんだかお祭り騒ぎみたいに思えて、僕は本を抱えたまま一人、不格好な行進を再開した。僕の後には、誰もついてこなかった。

「竜くん! いるんでしょ竜くん!」

 川崎先生だ。先生が、棒のように突っ立つ教職員を押しのけ、燃え盛る炎の前に躍り出て、濃紺の夜空に向かって吠えているのだ。

「竜くんの声、ちゃんと届いてるからね! いたら返事して、竜くん!」

 『暴走族の狂騒曲』が、急に静まったような気がした。パチンと薪が破裂する音が、やけに鮮明に聞こえた。

「先生いつでも待ってるからね! 竜くんの席、ちゃんとあるからね!」

 ボンボボ……。名残惜しそうに最後のコールが夜空に煌めくと、『暴走族の狂騒曲』は、夜の冷たい風に滲んで嵐みたいに消え去っていった。

 なんだか疲れて、僕は本を開いた。あ、ちょうど今、読み終えることができた。二冊目の『灰色の女』を読破したのだ。本をパタンと閉じる。

 教職員たちが、炎の消えた薪の山を、靴のつま先で切り崩している最中だった。炎という絶対的な存在を失い、くすんだ色に変わってしまった薪を、お前は不要になったんだと言わんばかりに、容赦なく蹴り倒していく。

 叫び疲れたのか、川崎先生は、肩で息をしながら校庭の隅に一人、座りこんでいた。

 ラジカセが、かすれた声で気まずそうに『マイムマイム』を歌っていた。

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